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ショートショート「僕は〇〇」

 一目惚れというものが本当にあるなんて、自分の身に起きるまで信じていなかった。
「はじめまして。〇〇です」
 そう挨拶してきた彼女を前にして、僕は文字どおり雷に打たれたような気持ちになった。名前を記憶に留められなかったのも、その衝撃のせいだと思った。
 それから何度か顔を合わせる機会があった。そのたびに僕は彼女に惹かれ、思いは募った。
 一か八かで食事に誘ってみた。彼女は笑顔で応じてくれた。その日、緊張している僕に優しく微笑みかけてくれた彼女を見て、僕は逃れられない運命のようなものを感じた。
 その後も何度かデートを重ねた。彼女も僕のことを嫌いではない様子なので、思いきって正式な交際を申し込んだ。彼女はいつものように温かく微笑んで、頷いてくれた。天にも昇る気分とは、このことだった。たったひとつの懸念を除いて、僕はこの上ない幸せ者だと思った。

 たったひとつの懸念。それがしかし、僕にとっては大問題でもあった。
 彼女の名前を覚えられないのだ。
 最初に「はじめまして〇〇です」と言われたとき以来、何度も何度も彼女の名前を耳にしている。絶対に忘れないはずだ。なのに次の瞬間、頭の中からきれいさっぱり消えてしまっているのだ。
 忘れないように手帳に書いた。その都度それを見直して「そうだった。これが彼女の名前だった」と確認している。が、手帳から眼を離した途端、その名前を思い出せなくなってしまう。
 なんてことだ。世界で一番大事なひとの名前なのに、どうして覚えられないんだ。僕は絶望した。病院に行って脳を調べてももらった。だがどこにも異常はないと言われた。為す術がない。
 彼女には絶対、このことを知られてはならなかった。だから会うときは、こっそり掌の彼女の名前を書きつけておいた。それでなんとかしのぐことができて、幸いにも僕の秘密は悟られなかった。

 その間にも僕の彼女への思いはますます強くなった。そしてついにプロポーズまで辿り着いた。僕のたどたどしい言葉を聞いて、彼女は言った。
「ありがとう。わたしもあなたと結婚したいと思ってたの」
 その言葉を聞いて僕は有頂天になった。
「ありがとう! あの……」
彼女の名前を叫びたいと思った。掌を見た。手汗が書きつけた名前を消してしまっていた。
「あ……ありがとう。本当にありがとう!」
 彼女を抱きしめて誤魔化した。
 やがて彼女の両親と会う日がやってきた。じつは彼女の家はかなりの格式がある名家で、両親はかなり厳しいひとだと聞いていた。これまでになく緊張しながら、彼女の家を訪れた。汗で消えないよう、彼女の名前は油性インクで書いておいた。
 彼女の両親を前にして、僕は言った。
「お嬢さんを、〇〇さんを僕にください」
 お父さんは、言った。
「娘が選んだ男だ。間違いはなかろう。結婚は許す」
 そう言ってくれた。が、
「ただし、ひとつ条件がある。君が我が〇〇家の人間となってくれることだ」
 彼女はひとり娘なので、家を継ぐ人間が必要なのだそうだ。それくらい何でもない。むしろこんな名家の跡取りになれるなんて、思ってもみないことだった。僕は即座に答えた。
「よろしくお願いします、お父さん」

 そして僕は彼女と結婚した。彼女の家はいくつもの事業を営んでいるので、その経営にも携わることとなった。僕の環境は一気に変わった。目の前に現れる人々も、これまでとはまるで違うエスタブリッシュメントな人間たちばかりとなった。彼らは僕に慇懃な態度で言った。
「これからもよろしくお願いしますよ、〇〇さん」
 僕はこの先も一生、掌に自分の新しい名前を書きつけておかなければならないみたいだ。

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