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ショートショート『密の味』

この先の世界のことをぼんやりと考えていたら、こんな物語になりました。

 立錐の余地もない、という状態を久しぶりに見た。狭い空間に集まっているのは、全部で二百二十四名。みんなステージに眼を向け、欲望を剥き出しにしている。私は唾棄したくなる気持ちを抑えながら、彼らを観察した。
 ステージの照明が一斉に消えると、期待の籠もった歓声があがる。その後にスポットライトがひとつ灯って、中央に立つ男を照らしだした。
「さあみんな、準備はいいかい? これから君たちが見たかったものを存分に見せてあげるよ。もう一度訊く。準備はいいか!」
 おおおっ、と怒号に近い声が応えた。
「よおし、では存分に楽しんでくれ! ショーの始まりだ!」
 その声と同時に響くドラムの音。ギターとベースが続き、キーボードが被さる。そして上手から現れたスキンヘッドの男がマイクを掲げ、叫んだ。
「歌うぞー! 密!」
 密! と客たちが叫ぶ。
「密! 密! 密!」
「密! 密! 密!」
 ただ「密」と叫ぶだけの単純な歌に、二百二十四名は我を失ったようにように熱狂する。
「そうだオレたちは密が欲しい! 密だ密だ密だ密密密密密!」
「密密密密密!」
 もう手の付けられない状態になっていた。
――そろそろいいんじゃないですか。
 声が耳に届いた。
――いや、まだだ。もう少し情報がほしい。
 私が答えると、
――……わかりました。でも僕、もう耐えられそうにないです。
――無理して見るな。データ収集だけに集中するんだ。
 スキンヘッドが叫びながら観客に向かってダイブする。また歓声があがる。そのまま客たちの手に送られて泳ぐように運ばれていった。
 次にステージに現れたのはふたりの女性だった。それぞれ黒と赤の下着姿で他には何も着ていない。官能的な音楽が流れ、彼女たちは体をくねらせて踊る。客席はしかし、先程とは打って変わって静かだ。じっと彼女たちの動きを見ている。
 ふたりが手を取り合い、抱き合った瞬間、また観客の声が爆発した。
「密! 密! 密!」
 その声に煽られるように女たちは肌を合わせ、密着する。そして唇を合わせ、舌を嘗めあった。
――っ!
 耳元に喉に引っかかったような声が伝わってきた。警告したのに、まともに見てしまったらしい。
――もういい。情報収集は俺がやる。君はログアウトしろ。
――……すみません。
 絡まったまま女たちが退場すると、次に出てきたのはふたりの男だった。ひとりは百三十キロは優に超えているであろう巨漢で、肌の張り具合からすると五十歳は過ぎていそうだった。もうひとりは若く筋肉質で胸に鷹のタトゥーを入れていた。
 ゴングが鳴る。男たちが組み合った。ヘッドロックからボディースラム、スープレックスに水平チョップと、次々に技を繰り出す。しかし観客たちは技よりも男たちが体を密着するところで歓声をあげていた。
「いけー! 密だ! そこで密だっ!」
 リングのないプロレスは五分ほどで決着がついた。巨漢が若い男を圧殺し、フォール勝ちしたのだ。
 彼らが退場した後、再び最初に出てきた男が姿を現した。
「さて、いよいよ今日のメインイベントだ。みんな、心の準備はいいか!」
 おお、と声があがる。
 ステージに現れたのは、木製のベンチだった。上手から制服姿の男女が距離を置いて現れ、それぞれがベンチの両端に座った。
 互いを意識するように眼を合わせ、はにかむ。そして少しずつ、互いの距離を縮めていった。
 何が起きるか理解したとき、私は思わず声を洩らしそうになった。もう限界だ。しかし感情の反発を理性が抑え込んだ。仕事を忘れるな、と。
 男女の距離は、ごく近くなった。ついに触れ合えるほどになる。それでも互いに恥じらって見つめ合っては、また逸らすことを繰り返していた。客席から嘆息のような声が漏れてきた。
 男子学生の手が女子学生に伸びる。その指先が彼女の指に触れ、怖じけるように引っ込み、そしてまた伸びる。女子学生も頬を赤らめながら、じっと相手を待っている。手がまた触れ合う。今度は離れない。おずおずと指が絡まり、やがてしっかりと握りあった。
「密……!」
 誰かがそう叫んだまま卒倒した。他の客たちも呆然とステージ上のふたりを見つめていた。もう限界だ、と思ったとき、
――部長、気づかれました。
 先程ログアウトしたはずの部下がインサートしてきた。
――こちらの動きを探知してます。
――わかった。確保だ。
 指示した次の瞬間、会場のドアが一斉に開いた。
――動かないでください。警視庁生活安全部保安課です。ここにいる皆さんを感染症対策特別措置法違反の容疑で逮捕します。
 一瞬にして会場内は阿鼻叫喚の坩堝となった。開いたドアから客たちが一斉に逃げ出そうとする。しかし出てきた者はみんな、待ち構えていたドローンから発射されるニードルを受けて倒れていった。
――落ち着いてください。外に出ようとすれば警視庁のドローンが催眠剤を発射します。無理に逃げ出そうとすると怪我をする危険があります。公務執行の際の負傷は自己責任です。動かないでください。
 警告を無視して飛び出してきたものは残らずその場に倒れていった。その姿を見て残る者たちはさすがに静かになった。
――ご協力感謝します。ひとりずつ順番に外に出て、待機している護送車両に乗り込んでください。警視庁で事情聴取の上、然るべき処置を取ります。重ねて注意します。皆さんの個人データはすでに収集済です。違法に逃走した場合、重罪に処せられます。よろしくご協力をお願いします。
 こうなっては抵抗も無理だとわかったのか、彼らはおとなしく我々の指示に従った。
 これで任務終了だな、とログアウトしようとしたとき、私の視界いっぱいに男の顔が現れた。
――おい、見てんだろ? 見てんだよな。このちっぽけな虫みてえなドローンでよ!
 ショーの最初に出てきた男だ。このイベントの主催者で、小賢しくも自らliberator(解放者)と名乗っている。
――いいかげんにしろよ! 俺たちの何が悪い? ただ好きなことをしてるだけだろうが!
 それが悪いんだ、と私は呟いた。もちろん相手には聞こえない。
――密のどこが悪い!? あ? 人間がくっつき合ってどこが悪いんだよ? ウイルスに感染するだあ? は! いつの話だ? ウイルスなんざとっくにワクチンも治療薬もできて、ありきたりなもんになってるだろうが! なのになんで「密」だけがタブーのまま残ってるんだ? おかしいだろ!? 
 おかしくはない。我々は密を禁忌とすることで命を守った。そしてそれは美徳となったのだ。密は悪しき行いだ。法で裁かなければならない。
――あんただって知ってるだろ? 密の味をよ! くっつきたいだろ? 密になれよ! みいんな密になれば――
 男の言葉は最後まで届かなかった。私が監視ドローンに搭載されていたニードルを発射したからだ。男の体は崩れ落ち、視界から消えた。
――部長、容疑者全員の確保が終了しました。
――了解した。
 私は今度こそログアウトしようとした。その寸前、ステージの上が見えた。
 男女の学生がベンチに座ったまま、不安げにあたりを見ていた。彼らの体は離れていた。
 それでいい。私は心の中で呼びかけた。離れるんだ。みんな離れて。密は、いけない。

6月に新刊が出ます。様々な人の様々な遺品を集めている博物館の学芸員の話です。よかったら読んでみてください。


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