その時はその時、突然やってくる
知人のお父君が先週脳梗塞の発作を起こしたと聞いた。
座卓で食事中に起きたそうで、立位から倒れ込まなかったので怪我などのダメージがなかった。
頭を強打したり足腰や腕などの骨を折れば、発作そのものは大したことがなくても致命傷になったり、寝たきりを招くともある。
お会いしたことはないが、血圧は高いけれど他に病気はなく、昨年などは単身東北旅行に出掛けたほど、とにかくしっかりした元気な九十歳、らしい。
父はいつまで元気なのだろう…自分は精気を吸い取られているような気がする…彼女は言ったものだった。
心身ともに健常で、なんでもやろうとするとはいえ放っておくわけはいかない。
認知症状はなくとも社会性の失われつつある大きな子どもに振り回される日常を、持て余している自分は親不孝だとため息をついていた。
おそらく麻痺が残り、手足の自由は失われるだろう。
なんでもやりたかったしやってきた人ができなくなり、はじめは辛い思いをするだろう。
世間ではよくある話である。
老健はそんなお年寄りばかりだ。
だけど、自分がそうなるとは誰も思わないし、家族も予想しない。
地震が起きても自分は助かるだろうと思っていなければ、怖くて生きていけない。
だから、そうなった時はそうなった時なのだ。
そこで仕切りなおせばよいのだ。
介護サービス相談員になって15年以上が過ぎた。
私がこの仕事をしようと思ったのは、年寄りと暮らしたことがなかったからだ。
ある時家族で温泉旅行に出かけた。
大浴場に介助者二名を伴い自力で歩けない高齢女性が入ってこられた。
私は反射的に、嫌だな、と思った。
子どもの時分からいい大人になるまで、高齢者と接したことがほとんどなく、自分とは関係のない遠い世界の人間だった。
しかしいずれは自分も歳を取るのである。
嫌だなんて思われてたまるかよ!
なんて奴だ、私は。
慣れてないから嫌だと思うのだから、慣れようと思った。
介護職に就く決心はなかったところ、市の委嘱で介護サービス相談員を募集していたので応募したのだ。
もともと福祉に関心があったわけでもお年寄りが好きなわけでもない。
ただ、介護サービスを受けるとしたらどんなサービスが好ましいか、それに近づけるためのささやかな努力をしているとは思っている。
高齢者と話して、十人十色の老齢期の人生を垣間見る。
同じ施設に同じような条件で入っていても、感じ方も暮らし方も人それぞれだ。
なにがよくてなにがよくないと規定できない。
他人の人生をモノサシで測るなんて不遜に思う。
高齢者福祉のあり方は議論の余地のあるところだろうし、極論含めていろいろある。
だからと言って、ここがおざなりになっていいということはない。
明日はどうでも、今のこの状況下において、人としての生を全うするのだ。
※ヘッダー画像はノラ猫ポチ(猫の写真だけの場所)さんよりお借りしています。干し草の中の猫ちゃん、猫もこんなのが当たり前になるといいね。
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