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ローカル線の地下想像力 寺山修司

とんでもないタイトルをつけましたが、きわめてローカルな「万葉まほろば線」の某さみしい駅に、なんと寺山修司の足跡があるというのです。

ほんとか嘘か、そんなお話を聞きましたので、少し地下的な想像力を加えて、ご紹介します。

櫟本駅の駅舎。全国で数少ない明治駅舎の一つだという

ここは、JR桜井線、またの名を「万葉まほろば線」といいます。
奈良駅~高田駅間を結ぶJR西日本の鉄道路線です。

14ある駅の北端の駅・奈良駅から南へ四つ目の駅が、天理市の「櫟本(いちのもと)駅」です。

奈良方面を見る

実は櫟本駅を集合場所として、某民俗文化研究会の現地研修(古い町並みや史跡を歩く)があり、これに参加いたしました。(2024.5.11)

改札ホームとの連絡橋の階段は木造であった(セメントは塗ってあった)

この研修の詳細は別記事にするかもしれませんが、今回は、しょっぱなから興味深いお話を伺いました。そのエピソードをご披露いただいたのは、某研究会のサポート会員、地元・櫟本在のF氏です。

跨線の連絡橋も木造です(あら、めずらし)

な、なんと、寺山修司が、この田舎の櫟本に来たことがあるというのです。

駅近傍に某普通高校が今もありますが、当時は農業高校だったようです。この農業高校を訪れたんですね。朝日新聞に記事が載ったとか。

寺山の目的がなんだったのか、またその年代も不詳です。

今ならここに橋上駅が作られるのだろう
木造駅舎の柱に明治31年4月と記されている
こんな部材のある駅舎は見たことがない
駅舎は一段高い。その階段は石造りである

「寺山が来たらしい」

F氏も朝日新聞の記事を実見はされておらないようでした。なので伝聞になりますが、これこそ火のないところに、、、ですから真実性はあると思います。

寺山が、この櫟本の農業高校を訪れたのだとしたら、駅に降り立った彼は、当時たいそうな賑わいの駅前に出て、賑わいの通りへは行かずすぐ左折し、、、

かつては商店が並ぶ賑わいの駅前だったようである

線路の反対側へ出るため、線路の高架の下をくぐったことでしょう。

農業高校は、高架を抜ければ、ごく近いところにありますから。(今回私たちはそこまで行かなかった。)

けた下制限高さ1.7M。大男・寺山の頭がつかえた?

寺山が、このレンガ積みの高架をくぐって行ったのかと想像すると、忘れた記憶を司る右脳のどこかでマッチが燃えたような気が致しました。

レンガ積壁面の色が違う。これはプラットホーム増設時(明治34年)に増築された痕跡

ガート下を行く二人のJK。ここは今も高校生の通学路になっているようです。彼ら彼女らに尋ねてみたい。
「知っているか? 寺山を」と。

通学路でもある。普通自動車が一台ぎりぎり通れる道幅。昔のままなのであろう

さて、家に帰ってから、ネットで検索しましたよ。

「寺山修司」「奈良県」「天理市」「櫟本」「○○農業高校」「朝日新聞」、、、しかし、一つたりともヒットしませんでした。そこはF氏が綿密に調査済みだったと思います。

F氏も根拠となる資料は確認できていないようでしたので、ほんとうに寺山の櫟本行があったのかなかったのか、そこんところは、はっきりとは申せません。

寺山も見たかもしれない風景

はっきりとはしないものの、しかし埋火のような地下想像力がちょこっと目覚めたか、私の青春時代の憧れ、尊敬する人物としての寺山修司が思い出され、再び身近に感じられたことでした。

ずいぶん本を捨ててきた。しかし…いまだに本箱の奥にある寺山の本


しかし故郷を憶う気持ちはあっても故郷へは帰らないように、もう寺山の本を読まない私だと思う。


おしまい