朶野

ただのです 哲学の大学院生です

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最近の記事

なぜ言葉を綴るのか、なぜ絵を描くのか、なぜ声を出すのか

「なぜブログやpixiv やnote で自分の作品を投稿するのかわからない」と言われた。これを言われてわたしはショックだったし、相手に対して少し、いや、相当がっかりした。 なぜがっかりしたのかは判然としないが、とにかく悲しい気持ちになった。今回はこの気持ちについて考えようとおもう。 なぜわたしはがっかりしたのだろうか? そして、なぜこのことを今まさにnote に書いているのだろうか? 褒められたいからだろうか?認められたいからだろうか?共感あるいは反感を引き起こしてバズりた

    • 「歴史的な制約」は、むしろ今生きている我々にこそ課されているのである。

      • 老害 考

        悪意や善意に関係なく、他人の足を引っ張ることに余念がない人間が少なくない。足を引っ張る具体的な方法としては、「それは難しいよ」「それは厳しいんじゃないか」「それはやめといたほうがいい(こっちにしたら?)」等の声かけをしてくることだ。それ以上のことも、それ以下のこともしてこない。 「私は責任を持てないので適当なことを言いますが」という丁寧な前置きをしてから出てくるのがこの程度の言葉なのだ。本当にただ適当なことであれば慈善活動として老人の戯言を多少は聞き流してやってもいいが、挙

        • 「○○主義者」の寂しさ

           ○○主義者というのが苦手だ。「自分は○○主義者です」と名乗る人はうさんくさく感じるし、「お前は○○主義者だ」と面と向かって対話相手に言うのはもってのほかである。  「○○主義者」を自称すること、あるいは他人を「○○主義者だ」と断定することには一体どんな意味があるのだろうか。とにかく、わたしはこのことを考えるたびに、えもいわれぬ寂しさを感じるのである。  「○○主義者」の寂しさは、その空虚さからくる。自分を「○○主義者」と名乗ることは、自分のアイデンティティを空疎な概念に明

        なぜ言葉を綴るのか、なぜ絵を描くのか、なぜ声を出すのか

          θαυμάζειν=Angst, Nausée

          θαυμάζειν=Angst, Nausée

          のりたまの嬉しい瞬間 はじめのひと振りかけで、のりがいっぱいでてきたとき

          のりたまの嬉しい瞬間 はじめのひと振りかけで、のりがいっぱいでてきたとき

          大江健三郎の文章には、どこか呑気なところがある。かれの呑気は、その乗り物が自動車でなく自転車であることからくるのではないだろうか。ゆっくり確実にペダルを踏み車輪を転がし、坂道に苦労しながら、それでも前へ進んでいくかんじなど、イメージぴったりである。

          大江健三郎の文章には、どこか呑気なところがある。かれの呑気は、その乗り物が自動車でなく自転車であることからくるのではないだろうか。ゆっくり確実にペダルを踏み車輪を転がし、坂道に苦労しながら、それでも前へ進んでいくかんじなど、イメージぴったりである。

          自分で自分を供養する

          タイトルからは予測できないかもしれないが、ここではストレスの対処について話す。最近ぼんやりと考えているのは、ストレスを鎮めるとは「自分から自分を切り離す」、もっと言うと「自分で自分を供養する」ことではないかという仮説だ。 私は小さい頃から絵を描いている。誰に教えられたわけでもなく、気づけば紙とペンを持っていた。物心ついたころから中学校くらいまでは、比喩でなく本当に毎日毎日絵を描いていた。今はさすがにそれほどではなくなったが、やはり絵は描いている。絵を描くことは私にとって当た

          自分で自分を供養する

          他人に厳しい人は、実のところ往々にして自分に甘いのである。

          他人に厳しい人は、実のところ往々にして自分に甘いのである。

          「健康管理/体調管理」という言葉は、人びとが時代遅れと忌み嫌う「根性論」の焼き直しに過ぎない。

          「健康管理/体調管理」という言葉は、人びとが時代遅れと忌み嫌う「根性論」の焼き直しに過ぎない。

          Call your name

          小学生のいとこから興味深い話を聞いた。かれの通う学校ではあだ名が禁止されているらしい。なので友人のことを「苗字+さん」で呼ぶのだという。そしておそらく男のことも女のことも一律にそう呼ぶ。  これを聞いた時、思わず吹き出しそうになった。あまりにもばかばかしかったからだ。しかし、このことを教えてくれたいとこ当人はいたって真剣な様子だったので、笑うことは我慢した。後日インターネットで調べてみると、どうやらこの規則はかれの通う学校だけのものでもないらしい(「あだ名」「呼び捨て」は禁止

          Call your name

          好きな人③ 千葉雅也

          周囲の人にはしばしば告白しているのだが、私は千葉雅也が好きだ。もしかすると、生きている人間の中で好きな人として公言している唯一の人かもしれない。彼を知ったのがいつだったのかは定かではないが、今はもうやめてしまったツイッターをフォローしていたことは覚えている。しいたけ占いをチェックしている姿や、筋トレについて話す様子が記憶に残っている。彼があるつぶやきで炎上した時には、それについて知人たちとスペースを開いて語らったこともある。その件については、確かに一見面食らうような発言だった

          好きな人③ 千葉雅也

          聴く女(ひと)

          目の端で捉える数字が、一つ飛ばしの連番で増えていく。それに反比例するように、カフェラテの温度は失われていく。読むともなく本を眺めていると、聞くともなく声が耳に入ってくる。隣では神妙な面持ちで二人の男性が向かい合っている。今後の進退についての相談だろうか。下世話な好奇心から青年の悩みが気になったが、聞けども聞けども一向にわからない。なぜというに、話しているのは相談の「聴き手」だからだ。聴き手が話しているようでは、相談なんてできたものではない。 よい聴き手となるのは簡単なことで

          聴く女(ひと)

          人間考察

          趣味は人間観察、と言う人がいる。私の場合は単なる観察には飽き足らず、様々な人と出会う中で、その人がどうしてそのような言動をとるのか?そのような言動に至る背景にはなにがあるのか?そのような言動をする人間はこれまでどんな人生を歩んできたのか?これからどんな人生を歩むのか?といったことに思いを巡らすことにある種の喜びを感じる。それはいわば、人間観察ならぬ「人間考察」である。 人間考察はお世辞にもいい趣味とは言い難いが、私の人間好きは今に始まったことではない。小さい頃はむしろ人間の

          人間考察

          私にとっての良書

          読書愛好家にとっての永遠のアポリア。それは、家の中で勝手に増え続ける本をいかに御するかということだ。まだ科学的に実証されてはいないが、おそらく本というのは生物に限りなく近い存在なのである。  実際にウイルスというものが生物学者の間で生物なのか非生物なのかは意見が分かれるところであるが、私見を述べれば、ウイルスと最も近い類縁関係を持つもののひとつは本であろう。  北原白秋や茨木のり子に限らず、言葉は生きものであると考える人が一定数いる。そしてこの発想は私の上の仮説を説得力あるも

          私にとっての良書

          赤ちゃんポルノ―愛玩動物としての子供

          私はYouTube を頻繁に利用する。観るものといえばもっぱら語学のレクチャー、外国語のアニメ、大学のシンポジウムや公開講義のアーカイブ、テレビ局の制作したドキュメンタリーや対談から、Kポップアイドルのダンス、筋トレ動画まで様々だ。そして、それらにもまして私のお気に入りは「赤ちゃん動画」だった。生まれて間もない赤ちゃんの寝顔やにっこりと笑う姿、たどたどしく話す様子は一目見てかわいらしく、視聴後にはえもいわれぬ癒しと満足感を覚える。彼や彼女の歩む未来が幸せなものでありますように

          赤ちゃんポルノ―愛玩動物としての子供