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[SS]居場所

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空港にスタッフが迎えに来る、彼は英国デビューに忙しい、私は彼からの援助を受けながら、早くアイドルとして彼を支えたいとスタッフに話す。彼が私を親密な関係に扱ってくれるので、特別な存在としてスタッフに見られているのが分かる。私は彼のガールフレンドではなく、パートナーだと説明しました。

私は家での生活を楽しんでいたけど、近所の人からは、結婚もしないで自宅でブラブラしている様に映り、家に時々遊びに来る小学生からは、いつも何しているのと良く心配された。私はそんな時急に黙ってしまい、姉からは怖いわよと耳元で囁かれた。そのせいもあって、近所との子供との間には距離がある。

私と妻の間に授かった子供は、日本に帰国して間もなくして生まれ、日本で数年過ごした後に北京に戻った時には4歳になる。父も母も溺愛してくれたので、別れる時は不憫で仕方なかった。妻も同じ想いだったはずだ、しかし子供の成長には驚かされるばかりで、戻って数ヶ月後には中国語を使い熟している。

桃白白は倒れた悟空の心臓の音を確認して、死んだなと呟き、ニヤリと笑います。ブルマは恐ろしくて声をあげる事もできません、桃白白はお前も用心する事だなと吐き捨てて、その場を立ち去る。ブルマは側に亀仙人がいる事に気づきます、亀仙人は悟空を抱き抱えて、悟空の命を救う方法があると話します。

小学校の国語の先生は丁寧に漢字の書き方を教えてくれましたが、私は文章を書くのが苦手でした。しかし、絵を描くのは幼少の頃から好きで、学校に入学する前から自分で書いていました。絵手紙はTV番組で紹介されているのを知り、見よう見まねで取り組んでいます。家で収穫した季節の野菜を描きます。

この頃異国船の入港が相次ぎ、長崎港には九州各地の諸藩から兵士が駆けつけるという騒ぎである。当時はオランダや中国以外の国からの船が来航するのは許されず、1844年にオランダ国王が鎖国を辞めないとアヘン戦争の二の舞になると話した、泰平の世の中は体制を錆びつかせ物事を変えられなかった。

羽田空港の第2ターミナルで出発を待っていると彼から連絡がある、イギリスに着いたら直ぐに逢おう、私は凄く嬉しくて、当分の間1人で頑張らないといけないと思っていたので心強かった。彼は仕事と住む所を用意していると話す、私は涙が出そうでした、でもすべき事は日本にいる時より厳しくなります。

夏の果物で好きなのが西瓜です、昼ご飯は自分で簡単に済ませますが、姉がスーパーで時々買ってくれるフルーツの中で好みなのです。私は西瓜に塩を振ります、ピリっとする辛味があってとても美味しいですよ。午後から時間がある時は手紙を書いたりします、私は字は書けませんが、絵を描くのは好きです。

1845年3月、浦賀にアメリカの捕鯨船が日本人漂流者を乗せて入港、幕府は打ち払い令を撤廃していたので、特例として認め、この時に父は通訳を担当した。オランダ語が通じない船員に対して片言の英語で役を果たした。初めてのアメリカ船の来航ではあったが、浦賀奉行は米や芋、鶏等を贈っています。

桃白白が悟空にかかってこいと言い、悟空は素早い動きで、襲いかかるが桃白白に受け流される。悟空は両手に気を溜め込んで、かめはめ波を打つが、桃白白の物凄い気合いで消される。疲れがみえる悟空の隙をついて桃白白はドドンパを放ちます。ドドンパに射抜かれた悟空はその場に倒れ込んでしまいます。

暑い夏の夜、虫が入ってこない様に蚊帳を張ります。私の部屋にはクーラーはついていないので、縁側の窓を開けっぱなしにします。無用心ですよね、でも暑くて我慢できないんです。蚊取り線香も焚くんですけど、私あの煙たい臭いが大好きなんです。梅雨が終わると線香の匂いを嗅いで夏が来たと感じます。

徳川の末期、天保の改革からペリー来航迄、10年の時代がある。日本では欧米から東アジアの開国に向けて、艦船が日本の港に着岸した。幕府の外交担当も数人しか英語を話せず、長崎の出島でオランダ商人と交渉をする者が鹿児島や長崎に出向いて、外交を担当した。父も外国船の船員の調査を行っていた。

彼が活動の拠点を英国に移した、私もグラウンドスタッフの仕事を辞めて彼と生きる事を決めた。日本で取り組んできた私の神は、英国でも通用して、彼を成功に導くのか?それを確認するのが私が英国でする仕事と決めました。先ずは住む所と仕事を決めなければいけない、彼と逢えるのはまだ先になります。

今の時期、まだ風が冷たい時もありますね。寒い日には電気ストーブをつけるので、ずるっとしてしまいます。私は洋服にはこだわりがなく、学生の頃は制服やジャージで過ごしていました。GW中に衣替えをしますが、夏服も数える程しか持ってないので、時間はかかりません。私は冬より暑い夏が好きです。