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note96: シドニー(2011.12.28)

【連載小説 96/100】

1769年に西洋人としてニュージーランド初上陸を果たしたジェームズ・クックは航海を続け、翌1770年にオーストラリアへ到達した。

記録によると最初にオーストラリア大陸に上陸したのはオランダ人探検家で、1606年とクックよりも1世紀半以上前にさかのぼる。

ただし、上陸したのが大陸北部の熱帯地域で、探索の結果この大陸が植民地に向かないと判断したオランダは同地に入植しなかったため、クックが指揮したエンデバー号による大陸東海岸への到達とその後の領有宣言が西洋によるオーストラリア植民地のスタートとなった。

クックは初上陸地を「ボタニー(植物学)湾」と名付けたが、植物が豊かな同地で調査採集活動を行ったことに由来している。

このボタニー湾が現在シドニー港のあるポート・ジャクソン湾の南部に位置し、そこから北上したクック一行は当時シドニーに上陸しなかったが、地勢的な条件の良さから1788年にイギリス最初の植民地がシドニーに誕生することになる。

英国植民地としてのその後のオーストラリアの歴史はといえば、それまで植民地だったアメリカが1776年に独立したために代わりの流刑地として移民が始まり、農耕地の開拓によって1828年には全土を植民地化。

その間、先住民族アボリジニから次々と土地を取り上げて反抗者を大量殺害し、1901年にはイギリスから独立するも、非白人に対する人種差別政策「白豪主義」で弾圧を続ける、というニュージーランドのマオリ族同様の悲史が残る。

ただし、アボリジニはマオリに比べて白人に対する抵抗をあまりしなかったため、植民地化の後、半世紀もたたない間に人口が90%以上減少したそうである。

1975年の「人種差別禁止法」制定によってようやくアボリジニの地位は安定し、厳しい自然環境の中で独自の固有文化を守り続けた彼らの歴史に対する再評価が行われ、観光ドメインにおける世界からの注目がそれを後押しすることになったのである。

さて、シドニーという都市の魅力についてもふれておこう。

10月にカナダのバンクーバーを訪ねた際に、英国誌『エコノミスト』系の調査機関による「世界で最も住みやすい都市ランキング」のことを紹介したが、シドニーはトップ10の常連で8月に発表された最新ランクでも6位に入っている。

オーストラリアの首都はキャンベラだが、人口約450万人を誇るオセアニア最大都市シドニーの方が経済や観光分野などにおいてパワフルであるため、ここが首都だと誤解している人も多いらしい。

20世紀最後のオリンピックとして2000年に開催されたシドニーオリンピックが「ミレニアムオリンピック」として注目されたが、この年に初めて仕事で訪れた僕は、その街並みの美しさに感動し「もっと早くシドニーを訪れておくべきだった」と後悔したものである。

ちなみに、柔道の田村亮子やマラソンの高橋尚子の金メダルなど日本人アスリートの活躍で盛り上がった五輪大会ではあったが、当時の取材で最も感動したのが聖火リレーだった。

本番まで秘密にされていた聖火リレーの最終点火者の名はキャシー・フリーマン。
アボリジニ出身のアスリートとして既に実績のある選手ではあったが、想像を越えるプレッシャーの中で見事女子400mの金メダルを獲得した。

優勝後にアボリジニの旗とオーストラリア国旗の2つを身に包んでトラックを一周した彼女が記者会見で控えめに語ったひと言を今でも覚えている。

「アボリジニについて考えるきっかけを作れたならうれしい…」

僕にはひとりの女性が先住民族の背負った長い悲史にピリオドをうったミレニアムの瞬間だと思えたのである。

>> to be continued

※この作品はネット小説として2011年12月28日にアップされたものです

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