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2024年4月の本たち

1. 『言葉を失ったあとで』/信田さよ子・上間陽子

依存症、DV、家族問題の第一人者である信田さよ子氏と、沖縄で社会調査を続ける教育学者の上間陽子氏の対談集。

この対談をとおして、あらためて気づかされたことがある。それは、被害に関して語る言葉を獲得しなければ、加害についても語ることができないということだ。(信田)

「まえがき」 p.13

まえがきにあったこの言葉を読んで、数年前に見た映画『プリズン・サークル』の記憶が蘇った。
『プリズン・サークル』は、加害者更生プログラムに参加する受刑者たちの様子を映し出す、日本で初めて刑務所の中に入ったドキュメンタリー。

映画を見ながら思ったのは、加害者に対する謝罪、反省、被害者への共感性の要求は、彼らが実際に見ている世界とまったく別次元の話なのだということだ。

行為の順番としては「加害があるから、被害がある」のだが、実際のところは、「被害者の告発によって、加害者が立ち上がる」ようになる。

自分自身の加害性に気づき、言葉にしていけるようになるためには、まず自分の中の被害性に気づかなければならない。自身が受けた傷について語る言葉を見つけることで、自分がつけた傷についてようやく言葉にすることができる。
そのためには、自分の傷がすでにある程度の時間を経ていることと、傷がついた場所からの距離を確保できるスペースがあることが条件になる。

こんなことをやってしまった、自分の人生はこうだったという棚卸しが可能になるのは、安全とか安心の場所が先につくられていくことなのだろうと思います。安心できる場所ができたときに、その場との差異でもって、安心できずにいじめに加担していたあの体験はなんだったのかと、差異でもって思考が始まるように思うんですね。(上間)

第5章「言葉を禁じて残るもの」p.272

一方で、加害者の中にある被害者性を、加害行為を正当化するための武器としては扱わせないようにすることも重要なのだが、これについては周囲の多大なサポートと膨大な時間が不可欠になってくる。

被害者のケアと、加害者のケア。

世間的に見れば、議論せずともどちらを優先すべきかは明白なのだろうが、実際はどちらも表裏になっていることが、被害と加害をめぐる関係の難しさを物語っている。


2. 『依存症』/信田さよ子

依存症は、本人だけの問題だろうか。
その人が依存症の嗜癖対象(アルコール、薬、ギャンブル…etc.)をやめれば、すべて解決するのだろうか?実際はそんな単純な話ではない。
依存症は「人間関係の中で生まれ、育まれる問題」だということが、本著を読むと理解できる。

なぜ酒を飲むのか、どんな性格かなどは、あまり関係がない。困らせる・心配をかける・支える・世話をする、という二人の間に繰り広げられる関係が依存症を支えていくのである。(中略)
心配しやめさせようとし世話をすることが、本人の現実への直面の機会を奪い、問題解決の肩代わりを促進する。結果的に嗜癖によるメリットを与えてしまう。(中略)
こうして依存症は家族の「本人への愛情」と思うイネーブリング(enabling)に支えられて遷延化していく。

第二章「依存症と嗜癖」p.53-55

依存症を個人の問題から、関係性(主に家族関係)の問題へと転換させたところが、信田さんのすごいところだと思う。

これによって、「依存症本人の嗜癖行動をやめさせる」ことから、「依存症が生まれている関係性に着目し、それによって困っている周囲の人(依存症の本人とは限らない)を救う」ことへと、カウンセリング治療の変化が起きていく。

依存症を成り立たせているシステム(関係)を見つけ出し、治療する。

信田さんの著作を読んでいると、臨床心理学の本を読んでいるという気があまりしない。心の問題を扱う以前の、その人が生きている社会、家族、国家の仕組みと歪みを明らかにして、個人の問題から社会の問題へと問い直す姿勢が、何よりもまずベースにあるからだ。
この手法を1970年代から半世紀近くにわたって、一人で体系化してきたところが、日本の臨床心理界のレジェンドである理由のひとつでもあるのだろう。


3. 『<責任>の生成ーー中動態と当事者研究』/國分功一郎・熊谷晋一郎

「責任をとってください」「責任をとります」
よく耳にするこれらの言葉を、私たちはどれだけ理解して使うことができているのだろう。
そもそも、「責任をとる」とはどういう行為あるいは状態のことを意味しているのだろうか。

古代ギリシャの文法用語である「中動態」の概念を中心に、当事者研究の実践を交えながら、「責任」が生まれる場所についての思考を深めていく対談集。

本書における最大の収穫の一つは、この「責任」の概念を、中動態的に捉えなおすことができた点にあると思う。正確な認識とは言いがたい能動態/受動態の世界観が、なぜこれほどまでに根強いかというと、ある行為の結果、例えば誰かを傷つけてしまったときに、その行為の原因を誰かの意志に帰属させ、その人に責任を取らせるという司法的な仕組みがそれを要求するからだと言える。

「おわりに」p.426

責任を問うべきケースが出てきたときに、意志の概念を用いることで、「その人の行為」を「その人の持ち物」にすることができる。
この「行為者=責任者」の方程式が根強く浸透している社会では、「意志=選択」として見なされてしまう。選択がされたのならそこには意志があったのであり、意志があるから選択がなされたのだ、というロジックだ。

けれども、このロジックが通用しない領域ーーたとえば加害と被害、障害と病にも従来の責任論が持ち込まれることで、社会の問題が個人の問題へと帰属することになってしまう。

意志と行為を切り離して考えること、社会の問題を社会の問題のまま扱うこと、本当の意味での責任を取るということはどういうことなのかを、社会の中で問い直していくことの重みは大きい。


4. 『柄谷行人講演集成1985-1988  言葉と悲劇』/柄谷行人

これまで読んだ著作の中でもダントツで抽象的で難しかった。寝る前に読んでると、気づいたら寝ていた。(日中に読んでいても結果は同じだったろう)

驚きなのはこれが講演集というところで、その場で実際に話されるスピードで聞いていたら、まったく理解できていなかったのではと思われる。
そんななかで、一番印象に残った文章がこちら。

《故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。》

「スピノザの『無限』」p.202

共同体の内側と外側、共同体の普遍性、共同体そのものへの懐疑。これらについてもっと深く考えるためには、スピノザを読む必要がありそう。


5. 『近代美学入門』/井奥陽子

「美しい」とはなにか。
5つの概念ーー芸術、芸術家、美、崇高、ピクチャレスクーーの変遷をたどりながら、近代美学の成立過程を明らかにしていく入門書。

現代人が何気なく抱いている「美しさ」についての常識の多くは、約200〜300年前のヨーロッパで成立したものでしかない。以下のような感覚を持っている場合、本書を読むことで、「美しさ」に対する見方がだいぶ変わってくるはずだ。

芸術とは、芸術家が自分の思いや考えを表現したものである。すでにある作品と似たような作品は価値が低い。オリジナリティがあり、作者の気持ちが発露した作品こそが優れている。この点で芸術家は職人とは異なる、等々。

「はじめに」p.16

自分の中で知らず知らずのうちに内面化している価値観を、客観視して相対化してみること。
現代社会を生きていくうえで欠かせないこの筋力を、できるだけ意識して強くしていかねばと思うこの頃。


6. 『台所から北京が見える』/長澤信子

36歳で中国を初めて学び、40歳でプロの通訳となり、その後生涯にわたって中国語を仕事にした著者の自伝であり、外国語学習者向けのバイブルでもある。

家庭生活を楽しみながらも、「自分の世界」の大切さを痛いほど感じ始めていた長澤さんは、子育てが一段落したタイミングで中国語を学び始め、経済的基盤を固めるために准看護師の資格も取り、4年後にプロの通訳としての道をスタートさせる。

家庭生活とのタイトな時間の中での語学学習との向き合い方、外国語でのコミュニケーションのあり方、新しい自分を生きていくうえでの葛藤…etc.
語学学習に限らず、何かを学ぼうとするときの実践的ヒントが沢山ちりばめられている。

また、夫である猛さんの、半世紀前ではかなり先進的だった夫婦平等主義の考え方にも、先見の明と懐の深さを感じずにはいられない。

「夫婦は同心円ではなくて、一部が重なりあった二つの円だ。共通の部分は、できるだけ広いほうがいいし、共通の広場として大事にしよう。しかし、夫婦それぞれに自分の世界があっていいし、お互いにそれは尊重しよう」
(夫のつぶやき、その1 ーー長澤 猛)

第一章「三十六歳からの中国語」p.38


すべての外国語を学ぶ人はもちろん、一生をかけて打ち込めるライフワークを探す人、家庭生活の中で「自分の世界」を保ち続けようとしている人たちにも、オススメしたくなる一冊。


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