どうする信長、将軍との対立と細川の協力(大河ドラマ連動エッセイ)
大河ドラマ「どうする家康」に連動して、織田信長のどうする?「どうする信長」を書いてみました。好評をいただきありがとうございます。
ドラマのほうは、1572(元亀3)年12月22日、徳川家康軍と武田信玄軍が浜松城北方の三方ヶ原で合戦し、徳川軍が惨敗する、という内容です。このあと、武田軍は、三河国(愛知県)に移動し、73年2月16日、包囲していた野田城を落城させます(その後、軍は停滞)。
このときの信長(本拠は岐阜)の状況というとは、72年秋以降、室町幕府の将軍足利義昭(公方くぼう)との関係がかなり悪化していました。信長は、将軍の蜂起を警戒していたわけです。さあ、どうする?
73(元亀4)年2月、将軍側の軍勢が近江国(滋賀県)の石山、堅田で蜂起します。信長は、家臣の柴田勝家らを派遣し、これらの軍勢を敗退させます(信長と将軍との初の軍事対決)。ただ、同時に信長は、将軍との和平工作も進めています。武田(愛知)、朝倉(福井)、畿内の将軍支持勢力の動きなどすべて不分明であったからでしょう。こうした中、畿内の情報を信長に届けていたのが、将軍側の武将(奉公衆)である細川藤孝です。藤孝は同じく将軍の家臣である三淵藤英の弟で、細川家へ養子で入っています。
信長は2月26日付け藤孝宛手紙で、以下のように書いています。
○将軍からの和平の条件はすべて承認した。奉公衆(将軍家臣)から人質の呈出を要求するものがあり、承服した。暇ができたら上洛し、思い通りに処置する。
○あなた(藤孝)は無二の覚悟であるから、入魂にしている。荒木・池田(摂津大坂の信長味方)に対し、疎略ないように。
○味方につけるために朱印を遣うことあれば承る。
また、3月7日付け藤孝宛手紙では、以下のように書いています。
○将軍のことは言語道断だが、君臣の関係であるから、深重に愁訴し、実子を進上した(人質に出した)。
○将軍は、朝倉を頼みとしているが、現在、滋賀の城は堅固になっていので容易に出陣できない。
○摂津の中島城の鉄砲、弾薬など、上洛の際に支払いをするから、荒木村重とともに奔走せよ。
○畿内の土豪に連絡がつくようであれば、書状を出したい。便宜をはかって話をしてほしい。
○上杉謙信が信州か関東に出馬すれば、信玄はその方面に準備するであろう。わが軍の行動は自由になる。
○謙信は3月1日に本拠(上越市春日山城)に凱旋した。諸国の布陣も終了したので、近く上洛する。
この手紙は、非常に詳細な内容であり、情報の交換を通じて両者の関係を深めるものであるとともに、藤孝に畿内での調略を任す上で、誇張は含むものの、宣伝材料を与えるものでもありました。当時は、信玄が三河に在陣しており、その情報をさぐっている状況でもあります。
このあと、3月10日に、将軍足利義昭は、信長の人質を返し、断交します。信長は信玄の動きがないことを確認しつつ、3月25日、岐阜を出発し、同月末、京都に進軍します。29日、細川藤孝は京都の手前の逢坂で、信長軍を迎えます。将軍は、朝廷の仲介で、信長と和解します(信玄は4月に死亡)。
この年7月、将軍義昭は挙兵、敗退後、河内国(大阪府)へ移り、いわゆる足利政権(室町幕府)は滅亡となります。藤孝は、正式に信長の家臣となります。他方、藤孝の兄、三淵藤英は、徹底抗戦後、信長に降伏しますが、その後も義昭側の行動をとったため、自害させられています。
信長について記しておくべきは、足利義昭を生かしておいたこと、そして、官位をはく奪しなかったこと、です。義昭はその後十数年間、将軍のままでした。他方、藤孝は結局、信長に協力し、将軍勢力を弱体化させ、将軍追放に力を貸し、その後も畿内平定に尽力した、ということになります。信長の対将軍耕作、畿内工作に欠かせない働きをしたのではないでしょうか。足利政権滅亡後は、畿内での合戦を中心に活躍、1580年には、明智光秀の与力(軍事において加勢する)となり、丹後半国を領有します。
そして、藤孝は本能寺の変(1582年6月)の際、信長を討った明智光秀軍(上司にあたる)には加わりませんでした。かつて将軍と信長が対立した際に信長側についた藤孝ですが、藤孝にとって、義昭と信長との違い、信長と光秀の違い、とはどのようなものだったのでしょうか。将軍や兄、同僚とたもとを分かった藤孝は、どのような天下、天下人を望んでいたのでしょうか。
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