言語は頼りない

お久しぶりです、髙瀬です。
暫くノートを更新していないまま歳を越し、あっという間に3月です。香港旅行記も完結させることの出来ないまま、私は冬学期の忙しさに揉まれ、病んでいました。

 私はバイトもサークルもさほどやっている訳でもないのに、大学の授業の課題だけで毎学期末必ず病んでるキャパシティ貧弱人間なのですが、この冬学期は恐らくこの1年を通して1番病んでいました。ここでひとつ自分に言い聞かせておこうと思うのはICUの課題量は他大と比べても多いということ。そして、毎学期病む事にその学期が1番病んでると毎回言っていること。

細かい事情は省きますが、帰りの電車で席が空いているにも関わらず地べたに座り込んで意味もなく泣き、涙でアイシャドウを溶かしパンダ目になって帰宅するみたいな感じでした。そういうこともあって実は4月末から大学近辺に一人暮らしが決まったのですが、またそれは別の話。両親に改めて感謝する出来事でしたとだけ言っておきましょう。

えーと、何を話しているかと言えば、そう。私はめちゃくちゃ病んでいた。で、めちゃくちゃ病んで気づくのは、病んでいると感性が死ぬことですね。感性が死ぬと、世界の情報を秩序化して己にインプットできないので、己の内面世界はカオスとなります。当然そんな状況では言語化する余力も御座いませんので、そりゃnoteは書けません。Twitterでしょーもないことは言えるのですが。ただ、何も感じていないというよりは、何かを感じているけどそれが言葉にならないんですね。ガチで色彩とか音とか快とか不快のような感覚で世界を見ていた。

ちょっと前までの自分は己の内面世界は全て言語化可能だし、己は全て日本語で構築されていると思っておりました。ところが、ICUの授業で英語漬けになってしまったのもあり、己の日本語も少し、ほんの少し頼りなくなっていたようにも思います。とはいえ、英語も勿論頼りないので私は何語も喋れない状態になっていました。

英語漬けの環境においては、私は使える表現方法の少ない英語でものを考え、伝えることを強制されるので、思考の範囲も拙くなるし、ともすれば日本語でものを考える時もなんかこう、脳みそにモヤがかかっているような感じになります。いや、これは疲れていたからかもしれない。上記の通りそういう時期だったので。

とにかく、私の自己表現にとって、言語は案外頼りないものとなってしまったのが今学期です。言語で自己表現出来ないなら頼れるものは芸術ですが、私は特別な芸術の知識がある訳でもありません。音楽理論をやりたいやりたいと言って、何年経ったでしょう。夢ならばどれほど良かったでしょう。

まぁ、4月の末には大学近くにすんで、大学のスタジオも使いやすくなるので、ひとまずは今できるドラムをもう少し極めたいと思っています。私はやっぱりもうちょっと音楽をやりたい。

かもしれない。

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