付き合ったことないのはやばいのか。

「大学生にもなって、付き合ったことない。やばい。」

まぁ、「大学生」じゃなくても、人生の通過点を示す言葉と一緒に、恋愛経験/セックスの経験が無くてやばいだのなんだの焦ってる人たちがいる。人生の通過点のどこかしらで恋愛を経験しておくことが強く推奨される社会だからか。

まず率直に。
焦るな、やばくない。

「やばい」は評価の形容詞だ。
私含め、多くの若い世代は特に、恋愛が個人の自由であって、それが直接的で普遍的な人間の評価に繋がらないことを知っている。(って信じてる。)しかし、どうしても「私は」やばいを各々抜け出せていないように感じるのだ。

「付き合ったことないやばい。」
「そんな事ないよ」
「いやそうなんだけど、私は、ね。」

恋愛が人間の評価基準になっている。他人との口約束が、本人の評価になっている。これこそやばいんじゃないか。誰かがお前に「付き合ってください」と言おうが、お前が誰かに「付き合ってください」と言われようが、2文字で返すか、3文字で返すか、そもそもこの契約を試みるか否か、そんな口約束はどこまでも形式の範疇を出ない。
形式的口約束が人間の評価になっているというのは由々しき事態であるが、それは、その口約束が人間性の「承諾」とか「選出」だと意味付けされているからだろう。

「付き合ったことある=人間性が他者に認められた=私の人間性は客観的に承諾された」

だから、「付き合う」という経験は当人の人間性の「称号」として機能する。

さて、「付き合う」かどうかが、人間の「やばい/やばくない」の称号として機能してはいるのは、そこに、「人間性」の「承諾」が勝手に意味付けられているからなのだが、この思考回路が、「人間性」もしくは「信頼(やばくない)」という普遍性を孕む価値を証明するか否かはしっかり検証されなくてはならない。

まず、どうして「恋愛関係」だけが「人間性」の評価対象となるのか。人間は、恋愛関係だけでなく、家族や友人を始めとする様々な人間関係を持って、社会を形成している。

(ちなみに、SNSのフォロワー数なんかで、当人の「支持者」の数字が明示される昨今のSNS社会においては、「人間性」の信頼性を示す称号や証拠はこの限りではなくなってきているのかもしれない。)


ここで私が考察したのは、「恋愛関係」だけが当人同士の積極的な契約という性質を持つ、という観点だ。「付き合う」ということは、「付き合ってください」という一方の申し出に、もう一方が「はい」ということ。この際、口に出して言っているかどうかは関係ない。少なくとも、このようなやり取りが言語的/非言語的に存在して、同時に、(例外はあるかもしれないが)当二者以外の人間を、この関係に介入させない、という「契約」をする。そして、「契約」に背けば、関係解消という「制裁」を伴う。

逆に、他の関係は基本的に契約関係を持たない。家族に関していえば、生まれた時から戸籍上での関係を持ちはするが、それは本人の意思に基づいてはおらず、積極的な契約とは言えない。他にも、法的に人間関係を認める契約はあるにはあるが、法制度による利益という外的な動悸が少なからず介入し、「恋愛関係」のような本人たちの意識だけに基づく純粋な積極性の「可能性」を(あくまで「可能性」だ)否定する。

だからこそ、「恋愛関係」は分かりやすく「契約」によって「人間性」を「証明」できそうな評価基準として機能する。

どんなに友達がいても、どんなに家族に愛されていても、「付き合ったことない、やばい。」

安心して欲しい、「付き合ったことない」のが「やばい」のは、それは単にわかりやすい「契約関係」だからだ。
恋愛ばかりがやたら持ち上げられることに、気持ち悪ささえ感じるが、他の愛の形が、友愛、家族愛、他諸々全ての愛が、一概に、恋愛に劣るという根拠はないだろう。友愛が恋愛に発展することがあるからと言って、友愛の次にもたらされた恋愛が必ずしも両者にとって「良い」ものであるという根拠はなんだ?恋愛は友愛の上位互換では無い例を私たちは沢山見ているだろう。

いいか、「付き合ったことない」は別に全然「やばく」ない。そんな事で人間性を評価してしまってるのが「やばい。」

こんなこと言うのは、私が「恋愛」に価値を感じた経験が無いが故に、それが評価基準になってしまっている社会に疑問を持つからで、恋愛に価値を置く人々がマジョリティかつ推奨される像であるこの社会においてはあまり響かないだろう。

それでも、ある人間が、そいつにとってほかの知らん奴らが勝手に決めた基準を自分で自分に適応して「やばい」だの言っていると、「いや、全然やばくないから!」と言いたくなる。

恋愛的契約を多少経験してもなお、依然として恋愛感情を持ったことない私が、「付き合ったことある」が人間性の評価になってしまう社会の中で、「やばくない」ままでいられるための自己防衛でもある。

自分の評価は、自分で決めたい。周囲への警鐘でもあるが、比較と競争で疲れる社会に生きる自分への戒めを大いに込めて。

あらゆる異論、意見を歓迎します。

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