かわいい

かわいくなりたい。
モテたいわけじゃない。
モテとかどうでもいいから私のかわいいの決定権は「男」にも「女」にも無い。
私のかわいいは私だけに決定権がある。
自分のためだけに、かわいくなりたい。
私がかわいくいたいと思うから、かわいくなりたい。

 しかし、本当に私は私のためだけにかわいくあるのだろうか。

もし、純粋に自分のためだけであれば、私がどんなに太っていようが、むくんでいようが、スッピンでいようが、ダサい服を着ていようが、私の可愛さには無関係のはずである。なぜなら、自分の外見とは自分以外他人だけが認識できるものであるからだ。どんなに鏡を覗こうとも私は左右反対だし、カメラのレンズ越しの自分も、きっとレンズの微妙な角度やもろもろで実物と全くおなじという訳では無いだろう。私の360度3D仕様の完璧な外見は私を見る他人にしか認識できない。他人にだけ認識できて、自分に認識出来ないものにこだわることは本当に「自分のため」なのか。

面白い広告の話。
電車に啓示されている高校生向けの二重整形手術の広告がルッキズムの社会的圧力を助長するとして物議を醸してきた。それが最近になって少し変わった広告を私は発見した。

「私は、私のために、二重になる。」

目の上に線が1本増え、多少目の開きが大きくなるという記号は「私」に何の意味をもたらすのか。二重線その物が「私」に意味をもたらすとは考えにくい。線は線だ。本来なんの意味もないはずである。

しかし、「私」のために「私」は目の上になんの意味もない線を増やす。巨額の支出と目元の肉を切り裂く恐怖に耐えながら。

間違いない。「私は私のために」の間に「他者」が存在している。存在していて、省略されている。

正確に言えば、「私は、他者からの眼差しを内面化している私のために、二重になる。」

整形まではしていないが、私は毎朝メイクをする。妙な液体のりを瞼に塗って乾かし、無意味な線を人工する。特定の誰かのためでは無い。私がそうしたいからそうする。でも、私がそうしたいと思うのは、不特定多数誰かの虚像を媒介に、私が私を見ているからだ。私は私に「かわいくあれ」と監視されている。

私は私を監視しながら、時に絶望し、時に有頂天になる。本質的な意味は無いのに。真なる事実ではなく、社会的事実たる私が私を拘束する。

整形したい。自分の頬が盛り上がっている。小鼻が丸い。エラが張っている。あー、あの子は可愛い。顔が小さくて、理想の目、鼻、口。マジで私って他撮り盛れない。自分が思ってる1.7倍くらい大体ブスでデブ。痩せたい。お腹空いた。食べたい、食べたい、食べた、後悔。痩せたい。下剤。

あれ、今日の私ってめっちゃ盛れてね?なんでだろ。気分がいいからめっちゃかわいい服着よー。めっちゃかわいー、私超かわいー。このままかわいいものだけに溢れて生きていたい。かわいい服着て、かわいいものたべて、かわいいことして、かわいいうたうたって、かわいい死に方しよう。中野ブロードウェイを歩く。自撮りする。やべ、私めちゃくちゃかわいいな。

※繰り返し

結局、「かわいい」が真の意味で自分にとって無意味であり、私が執着してやまないこの呪いが他者の存在無くして有り得ない事実に虚無感を抱く。同時に「かわいい」に酔って浮かれて私はハイに人生を生きることが出来る。

虚無とハイの繰り返し。麻薬じゃねぇか。
どっちかに振り切れたら楽なんだろうけど。虚無を知りながら、かわいいジャンキーの高揚を知っているからやめられない。


あー、整形したい。二重にして、鼻とがらせて、頬の肉吸って、エラの骨削りたーい。それで、KIDILLの服を躊躇いなく買って、街を歩く。それで、いつどこで誰に写真を取られても私は絵画のようで、どうしようもなくかわいいのだ。



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