「福田村事件」を観ました。

福田村事件、多分、過去一泣いた映画だったと思う。普段、私は映画で滅多に泣かない。開始数分でもう泣いてた。それは流石に脆すぎか。いや、普段は脆くないんだけどな。
涙は涙と言っても感動の涙じゃない。ひたすらに悲しくて、辛い涙だった。

何がこんなに辛かったかと言えば、それぞれの差別のそれぞれの道理を理解してしまえたから。必死に生きるため、家族や仲間も守るための結果が差別であり、虐殺であった。差別が合理的であったが故に、合理が丁寧に丁寧に描かれているが故に、差別的心理に至るのもその意味で「仕方ないのか」と思えてしまって、尚更しんどい。だって、この映画の殆どは事件じゃなくて、その前置きだったから。差別者を一方的に非難するでも、被差別者をただ擁護するでもなく、お互いに差別し、差別し合いながら、それでも、「生きていたんだよな」「生きていたかったんだよな」と思えてしまうのがしんどい。

むしろ、差別主義者が徹底的に差別主義で、被差別者が徹底的に可哀想であった方が潔い。しかし、実際はそんな単純じゃない。この映画はあくまで史実に基づいたフィクションだけど、だからこそ、そういう現実的な複雑さを浮き彫りにしたのだと思う。買った映画のパンフレット(水道橋博士のサイン付き)にそこに、森達也監督もそういう両面性を描きたいみたいなことを言ってるとこがあった。

私がもしその場にいたら。例えば、私が福田村、田中村の側だったとして、ヒートアップしていく村人を前に、行商団が「朝鮮人ではなく日本人だ」と言えたのか。言えたところで彼らを止められたか。そもそも、言える立場だったか。偶然、行商団が日本人である証拠を目撃できる可能性はどこまであったか。当時の限られ、操作された情報源の中で。震災直後、自分や仲間が「朝鮮人に殺されるかもしれない」という恐怖の中で…

行商団の頭が「この人たちは日本人だから殺してはならない」と庇われて、「朝鮮人だったら殺して良いのか」と言い返すシーンがある。
このシーンで(朝鮮人も日本人も等しく殺してはならない、という道理に)「ハッとした」という感想を残した視聴者もいたそうだが、私は「あちゃー、言っちゃったか」と思った。そんな基本的な人権論でさえ、この文脈においては意味をなさない。この群衆の高まりはそんな簡単に収まるわけない。むしろ、朝鮮人かもしれない、と殺されそうになっているところで、朝鮮人を庇うようかこと言えば自分たちが朝鮮人であることが更に村の人々にとって本当らしくなって、かえって殺されるに決まっているでしょう!と。それで、やっぱりこの一言で村民たちはさらにヒートアップすることとなった。
でも、やっぱり行商団の頭は言っちゃうんだよな。だって、さっき朝鮮人の女の子から飴買ったばかりだもん。お礼に美しい朝鮮のセンス貰ったばかりだもん。朝鮮人の女の子はあんなに優しかったから…。
お互い、部落民として、朝鮮人として、差別され、周縁化され、生きる中で触れた優しさが、ここで蘇ってしまうのだ。差別の向こう側にある優しさが、かえって差別心、いや、異民族に対する恐怖と拗れた正義心を高揚させてしまった。

文脈と文脈と文脈と文脈の果てに辿り着いた福田村であるのであれば、この事件は必然だったのかもしれない。

じゃあ、この虐殺は、差別は、仕方ないのか。そんなことを言うためにこの映画が作られたわけない。

どんな事件も出来事も、当たり前だけど、起こるのはその瞬間だけじゃなくて、当事者がこの世に生まれ落ちたその瞬間から始まり、人生を通して自らに紐づいた文脈を、何度も織りながら、その瞬間に少しずつ近づいていく。
この映画だって、福田村事件そのもののシーンは、その前置きに比べたら一瞬だ。逆に言えば、その前置きの長いこと長いこと…。

私たちだって、今を織り成す文脈が、いずれ虐殺や戦争を招くのかもしれない。その文脈が、布地が完成してしまってからでは遅い。この映画の前置きの長さは、それに気づくために、気づかせるためにあるのではないか。

 「その時」が来たって、「私は差別しない」し、「誰かを殺すだなんて有り得」なくない。だれだって、その文脈の重なり方によっては、人を簡単に殺してしまう。それで、人は斧一振りで簡単に死ぬ。

 そういう恐ろしさを、描いている映画だと思った。もし、私たちが今、その過程にあるのであれば、今からであれば遅くない。既に織ってしまった部分を丁寧に、解いてゆけば良い。

もう出来てしまった頭の紐を解くのは本当に難しい。でも、そのやり方だって、映画の中で示されていたように感じる。

朝鮮人の女の子から、行商団が朝鮮飴を買うシーン。あのシーンがあの映画の中で1番美しいと思ったシーンだ。(過度な美化は良くないです。)
行商団ですら、「朝鮮人は僕らよりも上なの?下なの?」という子供の問に「朝鮮人の方が下だ」と答えてしまうような心理があった。それでも、朝鮮人の優しさを目の当たりにした時に、飴を買ってくれたお礼に朝鮮の扇子を渡した時、互いの差別に対する苦しみの経験がリンクして、行商団の何かが変わったような気がした。

意識高い系の言葉で言えば異文化コミュニケーションと言うやつだ。実際の触れ合いを通して、差別が和らいだ(そんな一瞬で解消はしない)瞬間だったように思う。このシーンが後々虐殺のトリガーのひとつになってしまうのがしんどい。

差別とか、社会の不平等とかの話をする時、差別主義者が悪者で、被差別者が善良で無実の悲劇の「ヒロイン」になってしまうことがあまりに多い。差別ってそんな単純な構造してません。なぜ、差別主義者が差別心を抱くのか、被差別者は本当に差別を受けているだけなのか。そこまで社会構造を掘り返して見ようとしないと、話はいつまでも堂々巡りです。

映画って、こういう長い長い文脈を(比較的)長いままに追うことができる良いツールだと思います。何か問題を提起し、観客の無意識を意識に変える、というのは本当に難しい。さらには理解だなんて途方もない。そういうどうしようもなさに、多くの人々が真剣に頭を抱え込んできた。問題に対する理解を得るには、時に退屈するほど長いその文脈を追って貰う必要もある。その意味で、より長い文脈を見せることの出来る映画はまぁ、良いのかな、と。問題は、元から意識がある人じゃないと見ない、ということ。
この「福田村事件」だって映画という形をとった訳だが、限られた劇場に、わざわざ足を運び、1500円払って(学生はもう少し安い)2時間以上じっと同じ椅子に拘束されよう、と思うのはとんでもない「意識高い系」だけに限られてしまう。
それに、「福田村事件」は元々R12だし、クラウドファンディングだからそんなに大々的に広告できるほどの資金があるかどうかよく分からないし、「政府のお偉いさん」は「朝鮮人虐殺」を事実だとすら認めようとしないし()。

とりあえず、意識高い系だけが見ても(意味ないわけないけど)意味無いので、意識低めのマジョリティがこの映画を見ることにこそ、「福田村事件」上映の意味があるのでしょう。

あまりにも良かったので、映画のパンフレットを買いました。本当は原作(?)本も欲しかったけど、パンフレットで1500円に、書籍2000円は痛手で痛手で…。しかも映画に既に1300円払ってんですよ。金欠大学生を舐めてないでください。とはいえ、映画は良かったから、とりあえず、書籍は今度図書館で借りるとして、パンフレットにサインを貰いました。私が行った回が、水道橋博士と本を書いた辻野弥生先生のアフタートークのある回だったので、水道橋博士のサインを貰えたというわけです。まぁ、水道橋博士のこと知りませんでしたが。両親共に知ってたので、有名人らしいです。辻野先生は時間の都合上無し。本のイベントでお忙しいらしい。本は売れれば売れる程良いので、良い事。
で、長くなりましたけど、水道橋博士はサインをする度に、「映画を広めてください」と言っていました。つまりは、そういうことです。

皆さん、良い映画なので、見てください。



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