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夏至 * 雨の古本屋さんで悶絶する


十年ぶりにむし文庫に行った。岡山県倉敷市、文字通り古くからの倉が敷き詰められている美観地区の、すこし奥のほうにある古本屋さんである。お店も、店主の女性も、十年前とまったく変わらぬたたずまい。この店で売られるべき本たちが、ひとりでに集まってきた気配が漂っている。

蟲文庫の入っている古い町家は本町通りに面していて、その背中側は阿智神社の石垣にほとんどくっついている。お客さんが数人入れば満員になってしまう八坪ほどの小さな店の、石垣側の壁は全面が大きなガラス窓になっており、まるで壁の一面が石垣で出来ているように見える。

阿智神社はたいへんりっぱな神社で、笠岡諸島を含むこのあたりは良い石が採れたらしく、神社のある山の神域一帯に巨石がふんだんに配されており、石段も手水舎も見事である。蟲文庫の壁のようになっている石垣もまた、たいへんにりっぱで、石と石の間からは元気な植物たちがわしわしと自生し、今日の雨に濡れて一層、生命力をみなぎらせている。

蟲文庫の店主はその石垣を背にした帳場で店番をしている。帳場には顕微鏡が置いてある。なぜなら彼女は店番をしながら蟲文庫周辺の苔の研究観察をしていて、苔の本も出しているからである。店には古本の他に新刊本も少し置いてあり、店主の本も並んでいた。それを見ると、亀の本も出しているらしい。古本。苔。亀。しぶい。

私も大阪の神社にずっといて、社務所のマイデスクには顕微鏡が置いてある。苔ではなくクマムシの観察をするためだが、乾いた苔の中が一番クマムシを見つけやすいと専門家が言っていたので、神社周辺の苔を少々採取している。なぜ乾いた苔なのかというと、濡れた苔には他の微生物がたくさん活動していて、クマムシがまぎれて見つけにくいが、パサパサに乾いた苔には動いている微生物がほとんどいないので、乾眠中のクマムシが見つけやすいのである。

***

クマムシ探しのために苔の採取を始めるのよりもずっと前、苔そのもののうつくしさに惹かれて、百均で買ったルーペレンズと魚眼レンズをスマートフォンに装着し、神社境内の苔を撮っていたことがある。梅の木の下にしているスギゴケを林のように撮るために地面に這いつくばっていたとき、お参りのお婆さんに
「アンタも苔やっとんのか」
と話しかけられた。

「苔をやる」の意味がわからなかったが、「酒をやる」と同じような言い回しだとすると、「苔というものを常習的に楽しんでいる」ということになる。

私はそれほど苔を常習的に楽しんではいなかったので、へへへ、と愛想笑いでごまかした。が、お婆さんが「アンタも」と言ったということは「私もやっている」という意味であって、同志に対する挨拶すなわち仁義を切っていた、とも言える。今更ながら、へへへで済ませた自分が情けない。

「お控えなすって。手前、生国と発しまするはインドのムンバイ、名は桃虚、クマムシを少々、やっておりやす。備中に苔をやってる姐さんありと聞き、本日、参上いたしやした」

蟲文庫の軒先で私が仁義を切るならばこんなふうだろうか。

でも、店主ご本人に向かってこんなことまだ言えない。私のクマムシ観察歴はほんの3年ぐらいで、にわかもにわかだし、梅雨で苔がちっとも乾かない今時分はサボってっいる。年末になると私のオフィスは模様替えしてお守り授与所と化すので、巫女さんたちが「桃虚さん、これなんとかしてくださいよ」と言って顕微鏡や採取した苔たちを段ボールに片付けてしまう。それから翌年の節分祭が終わるまで段ボールは納戸の奥に追いやられ、クマムシ探しや観察ができない。

そのような者が、30年店番をしながら苔の生態を観察し続けてきた蟲文庫さんに仁義を切るなど、百年早いというものだ。

ざんねんだが、今回は通りすがりの客として、静かに本を物色するだけである。

ああ。蟲文庫の棚にある本、ぜんぶ欲しい。

しかし、このあと笠岡でラーメンを食べてから瀬戸内海の小さな島に小さな船で渡ることになっている。だから小さめのを一冊だけ買うことにする。むむ。迷う。自分で決めたルールなのに悶絶するほど悩む。

けっきょく一冊に決められずに二冊買った。寺田寅彦と宮本常一。

***

倉敷でも島でも雨だった。

寺田寅彦が言うには、雨音は「広い面積に落ちるたくさんな雨粒が、一つ一つ色々なものに当たって出る音の集まり重なったもの」で、遠いところに落ちた雨粒の音は、聞く人からの距離の差だけを音が進むに要する時間だけ遅れて聞く人に届くため、「過ぎ去った過去の音を集めたもの」である。

瀬戸内海の小さな島で、雨に降られ、港のあずまやでぼんやり座っていると、寺田寅彦が言っていたことが感覚的にわかる。まるで小さな島全体に落ちる雨粒の音が、タイムラグを経て自分を包み込んでいるように思える。雨の音というのがいつもよりもっと漠然とした、抽象的な、「過去の」音のかたまりに感じられる。

しかし、傘をさして雨の下に行くと、傘に当たる雨粒の音がバラバラバラバラと耳元で聞こえて、今まで自分を包み込んでいた漠然とした「過去の」かたまりとしての雨音は、ほとんど聞こえなくなる。傘をさした途端に、音像がはっきりとした「今の」音だけになるのだ。

バラバラバラバラ。
バラバラバラバラ。
ひとつひとつの雨粒の音が、立ち上がる。
おこめつぶを手でさわるように、それらを聴く。

小さな頃、雨の日に傘をさして庭にしゃがむのが好きだったが、それは普段ぼんやりしている意識が、傘をさすとなんだか我にかえってハッとする、その瞬間が好きだったのだと思う。

傘をさすと、傘にあたる雨音によって聴覚がバキッとして、他の感覚もそれにつられてバキっとして、五感が立ち上がる。地面から立ちのぼる草の匂い。肌に当たる、しっとりした空気の感触。すべての感覚が鋭敏になるのが、小さな頃の私にとってちょっと刺激的で楽しかった。

雨上がりの濡れた路面を自転車で走る時の、タイヤと地面が発するぴしぴしとキラキラの混ざったような音も大好きだったが、それもまた傘に当たる雨音によって覚醒した耳が聞いたからではなかったか。

***

島からもどって茶道の先生の家に稽古に行った。
お茶室の床の間に半夏生はんげしょうが生けてある。

「昔は半夏生の葉っぱが上から三枚、白うなったら梅雨あけや言うたけど、今はもう、そないなことないなあ」

薄い紫色に黄色を少しだけ散らした練り切りの生菓子は、菖蒲の花。
あじさいが描かれたお茶碗。
田植えが描かれたお茶碗。
どれも、今の季節だけのものだ。

薄茶に使う抹茶が入っているなつめの蓋には、一本の傘が、蒔絵まきえでほどこされている。これも、梅雨の時分にしか使えない茶道具。梅雨がすんだら、また来年のお楽しみだ。

「もう蛇の目じゃのめなんて言わんようになったなあ、傘のこと」

その日も雨が降っていた。
私は蛇の目をさして帰った。
子供の頃の、バキッとした感覚で。


二十四節気 夏至(げし) 新暦6月21日ごろ

夏越なごしの大祓《おおはらえ》
6月30日に、ほとんどの神社で行われる、半年ぶんの穢れを落とす儀式。神社や地域によって内容はさまざま、茅の輪を八の字にくぐる、人形代ヒトカタシロを祓って燃やす、大祓詞を唱える、などがあります。京都では、この日限定の和菓子「水無月」を食べる習慣があって、私も毎年、悶絶するほど楽しみにしています。氷に見立てた白ういろうの上に、小豆がのっていて、三角。(ましかくを一年と見立てて半年は半分の三角だかららしい。)この構成、形、コンセプト。天才やな。と言祝ぎながら食べれば、梅雨のぐだぐだを一時ひととき忘れることができます。

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