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犬王

ポップコーンは買わない。vol.135

あらすじ

京の都・近江猿楽の比叡座の家に、1人の子どもが誕生した。その子どもこそが後に民衆を熱狂させる能楽師・犬王だったが、その姿はあまりに奇怪で、大人たちは犬王の全身を衣服で包み、顔には面を被せた。ある日、犬王は盲目の琵琶法師の少年・友魚(ともな)と出会う。世を生き抜くためのビジネスパートナーとして固い友情で結ばれた2人は、互いの才能を開花させてヒット曲を連発。舞台で観客を魅了するようになった犬王は、演じるたびに身体の一部を解き、唯一無二の美を獲得していく。湯浅監督がかつてアニメ化した「ピンポン」の漫画家・松本大洋がキャラクター原案を手がけ、「アイアムアヒーロー」の野木亜紀子が脚本を担当。

映画.com

そもそも能楽というものがなんなのかがよくわかってなかったのでWikiで調べてみると…。

能楽(のうがく)は、日本の伝統芸能であり、式三番(翁)を含む能と狂言とを包含する総称である。重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。『風姿花伝』第四によれば、能楽の始祖とされる秦河勝が「六十六番の物まね」を創作して紫宸殿にて上宮太子(聖徳太子)の前で舞わせたものが「申楽」のはじまりと伝えられている。 江戸時代までは猿楽と呼ばれていたが、1881年(明治14年)の能楽社の設立を機に能楽と称されるようになったものである。明治維新により、江戸幕府の式楽の担い手として保護されていた猿楽の役者たちは失職し、猿楽という芸能は存続の危機を迎えた。これに対し、岩倉具視を始めとする政府要人や華族たちは資金を出し合って猿楽を継承する組織「能楽社」を設立。芝公園に芝能楽堂を建設した。この時、発起人の九条道孝らの発案で猿楽という言葉は能楽に言い換えられ、以降、現在に至るまで、能、式三番、狂言の3種の芸能を総称する概念として使用され続けている。

Wikipedia

世阿弥によって確立されたみたいですね。
そもそも600年経った今でも残り続けているってすごい話だ。
600年後自分が作った作品が残っているって想像してもしきれない世界線の話だと思う。それだけ歴史にはロマンがある。

しかし目の前にある歴史を鵜呑みにすることはあまり得策ではない。
物的証拠があるかどうかで信憑性というものが担保されているとは思うが、それだけを汲み取って後世に伝言ゲームしていくのは、どうも内容が変わって伝わってしまっていくような気もするし、その時々の解釈によっても変わってくるものだと思う。

我々も会話やテキストのやりとりで自分が発した発言とはまるで違う捉えられ方をした経験は毎日のように経験するだろう。
たとえ自分にとってみれば冗談だったとしても相手からしてみればみれば真に受けて真逆の意図で捉えられてしまうことは大いにあり得る話である。

これが歴史に残る何かしらのものだったとしたら、どうだろう。当時の考えていたこと、言語の違い、アーカイブの違いによって事実とは異なる事実が今現在目の前に物的証拠として存在しているのではないだろうか。

実際、この作品も犬王という実在したであろうとされている人物を主人公に据えた作品であるが、大いにデフォルメされている部分が多いと感じる。犬王がそもそも人間から生まれた獣であったこと、友魚によるロック調の歌。明らかに誇張であるとわかるようなこれらの表現は、犬王という人物が不明である部分が多いからこそのデフォルメであり、エンタメである。しかし、犬王自体は大衆に人気があったらしいということはどうやら事実らしいということで表現されている。てかそもそも不明な部分が多いのだからデフォルメとも言えないのではないか。笑

この時代にこんな音楽なんてない!とか、こんな舞踊はないだろう!なんてことは野暮すぎる。
わずかな事実を基にしたフィクションとしては最高ではないか。

ヘーゲル「精神現象学」でいうところの「啓蒙」と「信仰」の信仰に重きを置かざるを得ない状況で、こちらのマインドも信仰に傾けながら観ることで楽しむことができる構造になっているのではないだろうか。精神現象学に関してはここでは触れないので、今月の100分で名著をご参照いただきたい。

そういえば、冒頭、友魚が幼少の時、彼は父親と海に埋まっている平家の宝を探って生計を立てていた。あるとき、依頼で神器を見つける。それまでは平家の亡霊がうじゃうじゃいるであろう壇之浦で平然と海に潜って捜索していたのだが、その神器の刀を抜いた途端、友魚は失明し、父親は腹が真っ二つになって死んでしまった。この場面から急に信仰じみた話になってくるのだ。

さぁ、犬王は劇中で、「全ては作り事」と発言している。
この発言の意図は、犬王の舞踊、友魚の琵琶、そしてこの世に生まれ落ちた人間そのものも作り事である。つまり、犬王は自分の容姿に対して絶望することはないし、むしろ恐れられていることを喜んですらいる。それは自分の容姿、顔というのは作り物、仮面であることをわかっているから。一喜一憂するものでもないのだ。何ごともいくらでも変わる得るのだと。

歴史も何もかも。歴史は時に重要なことを伝えてくれるものだが、時にデタラメで、時の政府に利用されてきたものである。本当の事実はもみ消されてしまっていることもたくさんあったはずだ。

だから私たちはまずは疑ってかかるべきなのだろう。しかしながらアヴちゃんの歌唱に関してはすごすぎるという事実は揺るがないのでここは純粋に柔軟に受け止めなくてはいけない。笑

歴史だけの話ではない。エンタメに潜んでいる政治的な要素もだ。本作の琵琶法師の歌は平家のもの、犬王の舞踊もそうだろう。足利の室町幕府にとっては反政府因子になりかねない。政府としては言論統制をすることで、国の秩序を保ちたいと考えるからそういった異なる思想、エンタメは排除していきたい、していくことになる。

こんにちにおいても思想持ってしてエンタメが提供される例は少なくない。流石にどっかの国みたいにそれによって有罪になることはないだろうが、そういったものを見聞きした時に決して鵜呑みにするのではなく一歩引いて視点で視聴することができた時に、ある種この国においての多様性というものが保ち得る一歩になるのではなかろうかと思うところだ。

このnoteも所詮作り物であり、たわごとである。あははは。

本日付でプライムビデオで無料配信が解禁されたみたいです。

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0B8K2B68J/ref=atv_dp_share_cu_r


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