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親鸞聖人に弟子はいなかったのか?【英語で歎異抄】

鎌倉時代の作品ながら、現代にも通じる教えが記された親鸞聖人の著書『歎異抄』。ただ、その内容はときに難解だと評されることも多いです。本連載では、全十八条の中からその一節を抜粋し、英語と日本語で解説します。英語版『歎異抄』に触れる事で、仏教・浄土真宗をよりさまざまな角度から見ることができ、新たな気づきが見つかるはずです。

■『歎異抄』第六条


【英文】
A Record in Lament of Divergences, 6
 
It appears that disputes have arisen among followers of the sole practice of nembutsu, who argue that“these are my disciples” or “those are someone else’s disciples.” This is utterly senseless.

For myself, I do not have even a single disciple.
(Collected Works of Shinran, p.664)
 
【日本語訳】
 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。
 親鸞は弟子一人ももたず候ふ。
(『註釈版聖典』835頁)

【現代語訳】
 同じ念仏の道を歩む人々の中で、自分の弟子だ、他の人の弟子だといういい争いがあるようですが、それはもってのほかのことです。
この親鸞は、一人も弟子を持っていません。
(『現代語版聖典〈歎異抄〉』11頁)

今回の英単語
followers of the sole practice of nembutsu: 同朋・同行、同じ念仏の道を歩む人々
disciple: 弟子

コラム 弟子一人ももたず候ふ

 英語では、しばしば聖人や師のことをThe Masterと表現します。たとえば道元禅師のことをZen Master Dogen, 親鸞聖人のことをThe Master Shinranと呼びます。映画『スター・ウォーズ』のジェダイ・マスターのような使い方です。

 一方で、『歎異抄』第六条には、「弟子一人も持たない」とあります。これはどういうことでしょうか?

 親鸞聖人が弟子を一人も持たないと言い切った理由は、「あらゆる者は私自身のはたらきによって念仏するのではなく、阿弥陀如来の力によって念仏するから」でありました。阿弥陀如来のはたらきによって念仏申す者はすべて仏の弟子になるので、親鸞聖人にとっては師弟の上下関係はなく、みな仏弟子として同等の「同朋・同行」であるということです。

 しかし実際には、親鸞聖人を慕う者たちから聖人は師と仰がれていきます。仏弟子としてはみな同等ですが、教えに出遇う時間的前後の違いとして、同門の弟つまり「門弟」集団(弟子集団ではなく)が形成されていくのです。
 
南條 了瑛(なんじょう・りょうえい)
龍谷大学大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)。専門は真宗学。現在、東京都中央区 法重寺 住職、武蔵野大学仏教文化研究所客員研究員、築地本願寺 英語法座 運営委員、東京仏教学院講師や複数の大学で非常勤講師をつとめている。本願寺派布教使、本願寺派輔教。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。


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