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シネマのように 第4話|連載小説

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 目を開けると、予想通り夜明け前だった。のそのそとベッドから起き上がって窓を開けると、11月の冷えた空気と風が部屋に侵入して来た。西の空から少しずつオレンジ色が広がっている。もう少しで太陽が昇るだろう。最近の中ではよく眠れた方だ。
 ふと、風に混じって電車の音が聞こえた。敏明にプロポーズされた、あの夜と同じだ。ただ、あの時は私に幸せを運んで来てくれる福音に思えた電車の音が、今は地獄からの出迎えのように感じる。

 ――いっそ私をどこかへ連れて行け。ここじゃない、どこかへ……。

 例え行き先が地獄でも、ここよりはずっとマシに違いない。

 いつもの勤勉な信号機の向こうに、22階建ての高層マンションのシルエットが、まるで墓標のようにそびえ立っている。
 2年前にあのマンションが完成した時、郵便受けに内覧会のチラシが入っていた。割と本気で購入しようと、意気込んで内覧会に行くと、スタッフに満面の笑みで「ご家族で?」と聞かれ、その瞬間に購入意欲が薄れた私は「ええ、夫と小学生の息子と」と答えた。待ってましたとばかりに出てきた営業の人に、「また来ます」と言い放ち、心の中で、「バカめ」と吐き捨て、早歩きでその場を離れた。スタッフにも営業の人にも恨みはない。ただ、たった一言で見込み客を逃した不動産会社は、やはりバカとしか思えなかった。
 帰って来て、意外にもマンションへの未練が残っていることに気付いたが、さすがにもう一度行って「さっきのは嘘です。単身です」と言ったところで恥をかくだけだ。潔く諦めたところ、近くの19階建てのマンションが建設されることになり、そちらを狙っている。

 6時のアラームが鳴ると同時に、窓から太陽の光線と一緒にスズメとカラスの鳴き声が飛び込んで来た。パソコンの電源を入れ、動画の再生履歴のニューシネマパラダイスの「愛のテーマ」のピアノ演奏を再生する。石崎と出会って以来、この曲が仕事中にちょくちょく脳内で再生されるようになってしまい、1日1回はこの曲の動画を見ないと落ち着かない。朝に聞くような曲ではないが、たまにはいいだろう。

「松井さん松井さん!」

 朝礼が終わり、スタッフステーションから出た途端、介護士の尾崎おざきが私の名前を呼びながら小走りでこちらに来た。いつもの眉間にしわを寄せている顔ではなく、満面の笑みだった。トラブルではないらしい。

「こちら、2日前に入った原田はらださん。これからお世話になると思いますので」

 尾崎の横にいた、すらっと背が高い女性が「原田です。よろしくお願いします」とお辞儀した。黒髪を後ろで束ねていて、目鼻立ちがキリッとして、笑顔が印象的な美人だ。

「大変だと思うけど、頑張ってね。尾崎君、しっかり指導してあげて。何かあったら遠慮なく言ってね」
「期待の新人ですから、頑張ってもらいますよ。ね?」

 原田は「はい!」と、鈴を振るような声で返事をした。他の看護師達に見習わせたい返事だ。
 2人は揃ってお辞儀をして、また廊下を小走りに戻って行った。尾崎が原田へ送る視線が少し熱っぽいのは気のせいだろうか。介護部門は万年人不足で、しかも、前に入った介護士は半年も続かずに音信不通同然で辞めたことを考えれば、新人に熱視線を送るのは当然かもしれない。

「なんか尾崎さん、元気ですねぇ。いつもしかめっ面のクセに。あの新人の介護士のこと、狙ってるんじゃないですか?」

 その手の話には目がない同僚の永島ながしまが、遠ざかって行く2人の後姿を恨めしそうに見ながら言った。
 この病院には介護施設が併設されていて、渡り廊下で繋がっている。ギリギリの人数で回している介護部門には、看護師が頻繁にヘルプで入るのだが、ある時、永島が尾崎に「そんなにいつもピリピリしてたら、雰囲気が悪くなります」と苦言を呈し、以来、2人は犬猿の仲となっている。

「モチベーションが上がるならいいんじゃない? それに、どこぞのアイドルグループみたいに恋愛が禁止されてるわけじゃないし」
「そりゃそうですけど……。職場恋愛は上手くいってる時はいいんですけど、ダメになった時は周りが気を遣うからリスクが高いですよね。まぁ、私は気を遣う気なんてさらさらないですけど」

 ダメになったパターンで、前の職場からエスケープして来た人間としては、なかなかに耳が痛い。

「私、製薬会社の営業マンと付き合ってて、結婚寸前になって別れてここに来たんだけど?」

 永島は「え!?」と声にならない悲鳴を上げて後ずさった。

「もう昔の話だから。笑うところよ?」
「笑えませんよ! もう、勘弁してくださいよ……」
「ゴメンゴメン。永島さんはいい男、GETしてね。狙ってるのは内科の横井先生?」

 永島は「違いますよ!」と分かりやすい反応を残して去って行った。その後姿に、心の中で、「まぁ、せいぜい頑張りなさい」と声をかける。色恋沙汰から蚊帳かやの外にいる自分を、この時ばかりは楽だと思った。

 待合室を通ると、自販機の横のベンチで、缶コーヒーを持ったまま項垂うなだれている作業服姿の男に遭遇した。石崎だ。夜勤明けで治療に来て、力尽きて眠ってしまったんだろう。
 彼の手に握られている、冷たい缶コーヒーをそっと取り、彼の頬に当てると、弾かれたように飛び起きて、私の顔を見て「おはようございます」と呟いた。私は「ここ、病院ですからね? ちゃんと帰って寝てくださいよ?」と言うと、彼は「はぁ?」と気の抜けた返事をした。
 彼の左手を見ると、血抜き用のチューブが取れたようだ。左手には真新しい包帯が巻かれている。

「会計、済みましたか?」
「多分、まだ」
「名前呼ばれたかもしれないから、ちゃんと受付の人に言ってくださいね?」

 彼はほとんど開いていないまぶたのまま左手を見ながら「ああ、はい……」と覇気のない返事をした。無理に起こしてしまったことを後悔する。

「もう少しゆっくりしてていいですから。はい。缶コーヒー」

 缶コーヒーを彼の鼻先に突き付けると、彼は「あげます」と言って席を立った。

「もう少しここで休んだ方が――」

 そう声をかけても、彼の耳には届いていないのか、そのままふらふらと受付の方へと歩いて行った。

 ――大丈夫かな。

 考えたくないが、居眠り運転で事故でも起こされたら寝覚めが悪い。

 右手で缶コーヒーを遊ばせながらスタッフステーションに戻ると、上司の小林が周りの様子を伺いながらやって来て、「松井さん、ちょっと」と、奥の部屋へと連れて行かれた。また新人へのキツい発言がどうたらこうたらととがめられるのだろうか。最近はずいぶんと気を付けているはずだが。

「ちょっとね、松井さんにお願いがあって。ウチがヘルプで行ってるメディカルセンター、来週から松井さんに行ってもらいたいんだけど……」

 予想が外れて少しホッとしたと思ったら、頼みごとか。
 週に1日、近くのメディカルセンターにウチの病院からヘルプを出すことになっていて、今は金子かねこという比較的キャリアを積んだ男性看護師が行っている。

「金子さんは……何かあったんですか?」
「いやほら、あそこってねぇ、特殊な雰囲気だから。金子君も、なんかこう……ね?」

 何とも歯切れの悪い小林の説明を待つより、自分で考えた方が早い。
 メディカルセンターはがん診療連携拠点病院に指定されていて、小林が言う通り少し特殊な雰囲気なので、おそらく金子がを上げてしまったということだろう。その気持ちは分からなくはない。それに、普段あまり感情を動かさないように過ごしている私が適任だと思われたこともまた、理解できる。

「いいですよ?」
「え!? いいの?」

 小林は目を見開いて私を見た。

「まさか、私が金子さんのところに行って説教でもすると思いました?」
「いやいや、説教だなんてそんな……」
「ちゃんと行きますから、心配しないでください」

 小林は心底安堵したようで、「すまんね。よろしく頼むよ」と言って部屋を出て行った。つくづく小林は人がいい。こんな面倒なことをせずに、たった一言、「業務命令だ」と言えば済むのに。本当にどうにもならなくなったらそう言うだろうが、こちらもできるだけ「命令」というのは避けてほしいのが本音だ。
 そのあと、遅番で出勤した金子に神妙な顔つきで「すみません。お願いします」と頭を下げられ、笑顔で「大丈夫よ」と返した。いちいち謝られるのも気が滅入る。
 そう言えば昔、私に「すまん」と謝って、私が「いいですよ」と言うと、同じように安堵して清々しく去って行った人がいたっけ。やっぱり謝るという行為で一番救われるのは、謝った本人なんだと再認識する。

 夕方、亜希子から「遊びに来ない? 旦那と子供が実家に行ってるから」とメールが来た。なぜ彼女だけが家にいるのか不思議に思ったが、前々からしゅうとめと仲が悪いと聞いていたので、野暮なことは聞かない。
 仕事が終わり、近所に最近オープンした洋菓子店「シェ・クローセ」に寄って、適当にお菓子を詰めてもらう。テレビのグルメ番組にも出ていた影響なのか、店内は大混雑で、レジ前には10人以上が並んでいてうんざりした。      
 彼女が住んでいるマンションは、私が購入を検討した、あの22階建てのマンションだ。来客用駐車場はいつも満車のため、少し離れた公園の無料駐車場に車を停める。

「シェ・クローセのお菓子じゃない! こんな高いの、買わなくていいのに」

 亜希子が申し訳なさそうにお菓子を受け取ると、私は「いいのよ。こういう時じゃないと買う機会ないし」と言ってベランダに出た。彼女の部屋は11階で、とにかく眺めがいい。目を凝らすと、私が住んでいる6階建てのマンションが少しだけ見えた。周りにずいぶんといろいろな建物が増えた。そのうち、私の住むマンションが埋もれてしまう気がする。

「相変わらず?」

 亜希子もベランダに出て来て、私の横に並ぶ。私は「ええ、相変わらず」と、いつもの決まり文句の返事をする。変わったことと言えば、猫に手を噛まれた作業服のピアニストに出会ったことと、介護部門に新人が入って、尾崎が張り切っていることくらいだが、わざわざ言うことでもないと思い、黙っておいた。

「来週からメディカルセンターに行けってさ」
「小林に言われて?」
「そう」

 彼女は苦虫を噛み潰したような顔で「あいつ……」と言った。彼女もまた、以前に小林に頼み込まれてメディカルセンターへのヘルプを受け入れた人物である。メディカルセンターに行きたくないスタッフ達は、とりあえず小林に言えば何とかしてもらえると思っているのだろう。やはり小林には「業務命令だ」と強く言える度胸を身に着けてもらわなければなるまい。

「そっちも、相変わらずお姑さんと仲悪いの?」
「最悪よ。今日は具合悪くて寝ることになってるから。どうせ仮病だってバレてるだろうけどね」

 彼女は手すりに体を預け、大あくびをした。母親に嘘を言わなければならない旦那を不憫に思った。
 7年前に結婚した彼女は、その翌年に産前産後休業と育児休業に入り、復職することなく「今まで通り働く自信がない」という理由で退職して、そのまま専業主婦となった。早番のみとか、時短勤務とか、病院側はいろいろ提案したが、彼女がそれを受け入れることはなかった。亜希子が専業主婦で満足するはずがないと思っていた私は「復帰したい」と泣きついて来るのを今か今かと待っていたが、もうそれはないだろうと諦めている。

 私はそんな彼女が羨ましかった。帰る場所と、待っていてくれる人がいる……きっと多くの人が、それを「幸せ」と呼ぶのだろう。

 今の私に、そんなものはない。


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