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ノクターンによせて 第1話|連載小説

【創作大賞2023 最終候補作】

【あらすじ】
音大のピアノ科を卒業した香月かづき美千代みちよ(31)は結婚して自宅でピアノ教室を運営している。ピアニストになる夢を諦め、子供相手のピアノの先生をしている自分を「負け組」と決めつけ、鬱々とした毎日を送っていたところ、近所のコミュニティセンターでジャズピアニストの深町ふかまちみのる(26)と出会う。深町に「ピアニストになるのに資格は必要ない。自分はピアニストだって言えばいい」と言われた美千代は反発するが、深町は美千代の苦しい胸の内を見抜き、「ピアニストに必要なのは、右手と左手ともう1つ。それは何か」と問いかける。美千代はその「もう1つ」を探しながら、自分とピアノに正面から向き合おうとする。

***

「次のレッスンは来週ね」
「ありがとうございました。先生! バイバイ!」

 生徒が小さな手を振りながら玄関のドアを開けると、2月の冷えた空気が屋内に吹き込んで来た。暖房に慣れ切った全身と、まだ正月ボケが抜けきらない頭に沁みる。午前中のレッスンは終わり、午後からはピアノの調律が入る。
 ふと、玄関脇の小さなテーブルの上の葉書が目に入った。

吉岡よしおか恵理子えりこ ピアノリサイタルのご案内」

 実家に届いたものを、母がわざわざ持って来たのだ。吉岡さんは音大時代の2つ年上の先輩で、歴代の卒業生の中で、最も優秀で活躍していると称えられている人だ。葉書を手に取ると、プロフィール欄の「プラハ国際音楽コンクール ピアノ部門第1位」の文字に、思わず葉書をくしゃりと潰したくなる。葉書を自分の部屋のパソコンデスクの前に乱暴に放り投げ、リビングに行く。

「お疲れ様」

 リビングでは、夫の浩介が両手にコーヒーカップを持っていた。「ありがとう」と言い、夫の左手からコーヒーカップを受け取ろうとした瞬間、ガラステーブルの上に置いたスマートフォンがけたたましい音を立てた。画面には「長澤ながさわさん」と表示されている。レッスンが終わった直後というタイミングの良さに、嫌な予感がした。

「はい、もしもし?」

 わざと明るい声を出す。

「あ、先生? 長澤です。急なんですけど、健太けんたのレッスン、来週月曜日で最後にしてもらえません? なんか、あんまり上達しなかったみたいで。突然でごめんなさいね。あー、発表会もキャンセルで。それじゃ」

 心にグサリとナイフが刺さった。「あんまり上達しなかったみたいで」という言い方は、私のレッスンりょくに疑問符を突き付けているのと同じだ。
 相変わらず一方的にまくし立てる喋り方で、私が「分かりました」と言い終わらないうちに通話が強制終了された。呆然としていると、夫が「どうした?」と心配そうな顔をして言った。

「健太君のお母さんから。来週で最後にするって」
「そうか。でも、前々からやる気がない子だったんだろう? 仕方ないよ」

 私は「うん」と返事をしてソファに座った。

 去年の8月、ショッピングモールの一角に設置されているストリートピアノで、近隣のピアノ教室の先生達と一緒にデモンストレーション演奏会を行った。最近のヒットチャートを賑わす曲やアニメの曲、ディズニーの曲など演奏したところ、思った以上に好評だったようで、「ピアノ教室を見学したい」、「体験レッスンを受けてみたい」という問い合わせが1週間で16件もあった。小学3年生の長澤健太君も、そうしてウチの教室の生徒になった1人だ。しかし、健太君が習い始めて半年、最初のうちは「ディズニーの曲が弾きたい」と意気込んでいたが、見る見るやる気が失せていった。1か月前のレッスンの時、健太君を迎えに来た長澤さんに「健太、下手だから教えるの大変でしょう? なんか思ってたのと違うみたいで」と笑いながら言われた時は、危うく「だったらやめればいいのに」と言いそうになった。しかし、生徒が上達しないのも、やる気がなくなるのも、結局は先生の責任ということになる。

「調律する前に練習すれば?」
「んー、これ読んだら」

 いつの間にか夫の目の前には、数冊の本が置かれていた。夫がピアノを弾かなくなって、すでに3週間が過ぎた。

「発表会近いんだよ? 本ばっかり読んでないで練習しないと」
「あー、今練習中の曲、間に合わなかったら曲変更するよ」
「間に合わなかったら、じゃなくて間に合わせるの!」

 割と強めに言ったつもりだが、全く通じてないようで、夫はやはり本から目を離さずに「はいはい」と空返事からへんじをした。一瞬、本を取り上げ、いや、本を思い切り蹴り上げたい衝動に駆られる。
 来月には近くのピアノ教室と合同でピアノ発表会を開く。大半は小さな子ども達で、一番上でも高校生までしかいない。大人がピアノを弾く姿を生徒さんやその家族に見せたくて、夫にはゲスト出演してもらうことになっている。最初のうちは「ピアノ教室の看板を背負って出るぞー!」と意気込んでいて、仕事と睡眠以外の全ての時間をピアノに費やしていたのに、今ではこの有様だ。

 ――会話する時くらい、目を合わせなさいよ。

 人と目を合わせて話すという、当たり前のこともしてくれない夫に絶望すら感じる。おそらく、今の夫にとって、本の中の世界が現実で、私がいる世界がフィクションになっているに違いない。百歩譲ってピアノを練習しないのは許すとして、夫の中の優先順位が妻より本の方が上になっていることに、屈辱と苛立ちを覚えていた。

「あーそうだ、返す本があるから図書館に行ってくる」
「いいよ、私が行くから」
「そう? じゃあ頼んだ」

 夫は自分の部屋に行き、本が2冊入った手提げ袋を差し出し、私の目を見て「すまんね、よろしく」と言った。さっき煮えたぎった屈辱と苛立ちが少しだけ和らいだ。

「コンビニ寄るけど、何かほしいものある」
「特にない」

 すでに本の世界に戻っていた。無駄な気遣いをした自分がバカに思えた。

 去年の10月、自宅から歩いて5分のところにコミュニティセンターが建てられた。中には多目的室や会議室、和室、キッズルームがあり、図書館も併設されていて、夫は週末になると、この図書館に足しげく通っている。朝ふらっと行って夕方まで帰らない時もあり、携帯電話にメールを送っても一切返事がなく、図書館まで迎えに行ったこともある。それを友達に愚痴ると、「朝からパチンコ屋に並ぶウチの旦那より1億倍マシよ」と言われた。そう言われればそうだが、夫が家にいないと、「自宅は心休まる場所じゃない」と暗に言われているようで心配になる。

 図書館の返却コーナーに本を置いた瞬間、「芥川龍之介」という文字が目に入った。この文豪が今の私から夫を奪っている張本人だと思うと、筋違いだと分かっていながらも、変な嫉妬心が私の中に渦巻いた。それを冷まそうと、何をするでもなく、館内を徘徊する。外の世界から隔離されたかのような静寂と本と紙の匂い。この雰囲気は嫌いじゃない。
 最近、全く本を読んでいない。最後に読んだのは、確か去年の本屋大賞を取った作品で、途中で読むのをやめてしまった上に、タイトルすら覚えてない。父に「バカと言われたくなければ本を読め」と口うるさく言われていたので、昔はかなり本を読んだが、読書というものが意外に体力が要るものだと気付いて以来、読まなくなった。30歳を過ぎて、自分を省エネ運転することに舵を切った結果、読書は捨てたも同然だった。
 夫の読む本が、せめて今話題のベストセラーだったら少しは会話できるのかもしれないが、こともあろうに、夫は芥川龍之介や太宰治、さらには岡本かの子や織田作之助など、およそ私には手が出せない文学作品ばかりを読むので、本に関しては夫の領域に全く踏み込めない。結婚してから夫がピアノを始めて、夫の方からこちらの領域に来てくれたが、2年しか続かなかった。その原因の一端が自分にあると思うと、やっぱり「弾け」と強く言えない。

 図書館から出た瞬間、ピアノの音が聞こえたような気がして、思わず全身の動きを止めて息を潜めた。コミュニティセンター内のBGMかと思ったが、そんなものは流れていない。気のせいかと思ったが、私の耳が確かに「聞こえた」と言っている。多目的室にピアノがあることを思い出し、吸い寄せられるように向かうと、多目的室の二重扉の外側が空いていて、中からかすかにピアノの音が漏れていた。

 ――やっぱり。

 二重扉の内側に入り、そっと聞き耳を立てると、ショパンのノクターンの8番が聞こえてきた。ずいぶんとクセのある弾き方だ。上手いか下手かで言えば上手いのだが、それとは違う。全体的にスタッカート気味で、右手パートの装飾音と連符なんてシンコペーションになっている。間違いない。ジャズの人だ。
 私はどんな人が弾いているのか気になり、重い防音扉の取っ手を両手で持ち、少しずつ自分の方に引く。30センチほど開けたところで、そっと中を覗くと、思ったよりずっと広い多目的室の全容が見えた。観客が50人くらいは入れそうだ。一番奥にピアノがあり、水色のシャツを着た男性が弾いている。その時、防音扉がギィと音を立てた。男性がピアノを弾く手を止めて立ち上がり、こちらを見た。私は慌てて中に入る。

「あの……ちょっと見学で」

 私がそう言うと、男性が「ああ、どうぞ」と言うので、わざとらしく室内を見渡しながらピアノの方へと歩く。ピアノには「STEINWAY & SONS」のロゴがあった。大きさからして、サロンモデルだろうか。音楽専用ホールではない多目的室なんて、置いてあるのはせいぜいYAMAHAのC3くらいだろうと思っていたので、スタインウェイなのは驚いた。

「すみません、どんな人が弾いてるのかなって思って、つい」
「こんな人です」

 練習を邪魔されたのがよほど気にさわったのか、男性は気持ち良いくらいの無表情で言った。関わってはいけないタイプの人間だと、私の中で危険信号が鳴る。

「まぁ、座って」

 男性が席を立った瞬間、私はまるで条件反射のように椅子に収まってしまった。

「ピアノ弾く人?」
「ええ、まぁ……」
「何か弾いてよ」
「は?」

 ピアノ教室をやっていると、失礼な生徒や親がたまにいるので、それなりに慣れているつもりだったが、久々に頭に血が上った。この男性は間違いなく私より年下だろう。しかも初対面にもかかわらず、敬語を使わないうえに、「何か弾いてよ」などと言い放つのは、不躾ぶしつけにもほどがある。もしかして、私を試しているのだろうか。一瞬、思いっきり難易度の高いクラシックの曲を弾いて驚かせてやろうという子供じみた考えが頭をよぎったか、すぐに冷静になった。ピアノはそういう使い方をするものではない。

「あ、ゴメンなさい」

 私の心の中を察したのか、男性は突然謝った。

「ピアニストやギタリストに『何か弾いてよ』とか、歌手に『何か歌ってよ』って言うのは、例えば何かを売ってるお店で『タダでちょうだい』って言ってるのと同じだと思うんだよね。ホント、軽々しく言う奴が多くて困るよ」

 あまりにも荒唐無稽な言い分だが、あながち間違いではないと思った。実際、「弾いて弾いて!」と言われることは多い。

「でも、弾いてほしいな。相当な腕前だと思うから」
「なんでそう思うんですか?」
「まず、何の躊躇もなくその椅子に座った。僕に警戒はしてても、ピアノに警戒はしていない。姿勢が良くて、肩に力は入っていなくて、肘が自由に動いている。しかも、座った時に一瞬だけ両手を鍵盤の上に置いたでしょ? 左手の小指と右手の親指を『ド』に置いた。多分、ハノンのスケールとアルペジオを日常的に練習している。そういう人で、下手な人はまずいない。もしかして、音大出身?」

 私が黙っていると、男性は「結構当たってると思うんだけど」と言った。「結構」どころか全部当たりだ。そしてそれは、この男性の腕前をも証明している。少なくとも、ただ趣味で弾いている人ではなさそうだ。少しだけ、この男性に対して興味が湧いた。

「当たりです。私からも1つ。さっき、ノクターンの8番を弾いているのを聞いたんですけど、普段からジャズを弾いてませんか?」

 男性の細い両目がパッと開き、姿勢を正して「申し遅れました。深町ふかまちと申します」と、ようやく自己紹介をした。いきなり取って付けたような敬語と丁寧さに、違和感がぬぐえない。

香月かづきです。近くでピアノ教室をやっています」
「なるほどね。僕は元々クラシックを弾いてたんだよ。ショパンのノクターンが好きだったんだけど、弾くたびに先生にあれこれ注意されて、しかも、『あなたには古典派が合ってるわよ』とか言われて、ベートーヴェンとかハイドンとか、弾きたくもないような曲を弾かされて、嫌になってね。今はどうか知らないけど、昔のピアノの先生って、ホント強烈だよね」
「まぁ、私も昔は同じようなものでした。でも今は生徒が先生を選ぶ時代ですから、昔のようなレッスンをしたらみんな逃げちゃいますよ。先生と生徒の相性はもちろんありますけど、やっぱり楽しく弾くのが第一ですから」

 おそらく、深町と同じ経験をした人は多い。昔はレッスンが厳しいのはもちろん、先生の言うことには絶対服従を強いられ、自分の弾きたい曲なんて、一体何曲弾かせてもらえたか分からない。しかも、発表会ともなれば、勝手に自分の看板を生徒に背負わせ、失敗しようものなら「私に恥をかかせるな!」と言わんばかりに叱責された。残念ながら、私がかつて師事した先生はみんな反面教師となっている。

「じゃあ、僕弾きますよ」

 私は椅子から立ち上がった。

「リクエストある?」
「そうですねぇ。『Autumn Leaves』、お願いします」
「いい選曲」

 深道は椅子に座って深呼吸をした瞬間、いきなり弾き始めた。ずいぶんと不思議な弾き方をする。ジャズはとにかく鍵盤をガンガン叩いて、耳をつんざくような轟音を出す人が多いから苦手だが、深町は、指の動作としては叩いているのだが、音はとても優しい。私が好きな、丸くて柔らかい音だ。

『フォルティシモはバカでも出せる。力任せに鍵盤を叩けばいいんだから。ピアニッシモをいかに美しく響かせるかがピアニストの技量そのものである』

 音大の学生だった頃に師事していた先生がこう言っていた。それまでの私は割と力を入れて鍵盤を叩く弾き方だったので、早い段階でこう教えられたのは運が良かったのかもしれない。深町は一体どんな先生に習ったんだろうか。

「中間部分のアドリブ、ちょっとクラシックっぽいですね」
「元々はクラシック弾いてたからね。やっぱり怖いな、ピアノの先生は」
「あ、ごめんなさい。余計なことを……」
「いやいや、ピアノの感想ってみんな遠慮するから、むしろ歓迎」
「それと、左手はストライド奏法ですか?」
「分かる!? これ、師匠直伝なんだよ!」

 彼が甲高い声を上げた途端、スマートフォンがメール通知を告げた。調律師の皆川みながわさんだった。

「旦那さん?」
「あ……はい。早く帰って来いって」

 なぜか、咄嗟に嘘をついてしまった。

「家は一軒家?」
「ええ」
「グランドピアノ?」
「YAMAHAのG2Eを使ってます」
「へぇ。旦那さんは高給取りだね。結構年上かな?」

 深町とこれ以上話さない方がいいと思い、答えずに早足でその場を離れた。ピアノを弾いている時は見惚れたが、それ以外の時は得体の知れない不気味さがある。

「あの……お邪魔しました」
「明日の午後もいるから、暇だったら来てよ。先生とは話が合いそう」
「レッスンがありますので……」
「なんだ。残念」

 また嘘をついた。日曜日のレッスンはない。
 私が二重扉を開けた時、深町はすでに私への興味を失ったかのように、ノクターンの第13番を弾いていた。

 ――結局、何者なんだろう。

 後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように、私は二重扉を思いっきり閉めた。


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※「ノクターンによせて」は、トガシテツヤが執筆し、noteに投稿したオリジナル小説です。

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