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ノクターンによせて 第4話|連載小説

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 コミュニティセンターの施設利用状況には「多目的室 13:00~16:00 ピアノ練習」と書いてあった。
 夫には「買い物に行って来る」と言ってある。深町に会ってから買い物に行けば、嘘をついたことにはならない。言葉が足りないのは嘘とは言わない、などと開き直って自分を納得させる。

 多目的室の二重扉の内側に入ると、中から即興演奏のような不規則なピアノの音色が聞こえた。中にいるのが本当に深町かどうか、他に誰かいないか不安になったが、とにかく行くしかない。音が途切れた瞬間に扉を開け、ピアノを弾いている深町を確認すると、私はどすどすと大股で歩き、彼の隣に立った。

「レッスンは終わった?」
「日曜日はレッスンお休みです。昨日は嘘つきました」

 早口でまくし立て、ピアノライブのパンフレットを突き付けると、彼はパンフレットを一瞥して「ああ、それね」と言った。

「私、現役のピアニストに失礼なことを言ったかなと思って、謝りに来ました。ごめんなさい」
「失礼なこと? 言った覚えはあるけど、言われた覚えはないなぁ。先生、面白いね」

 彼は私を見てニヤリと笑った。ペースを乱されるわけにはいかない。聞きたいことが山ほどある。

「昨日、夫が高給取りで年上って言いましたけど、なぜそう思ったんですか?」
「結婚してるのは指輪ですぐに分かったし、先生くらいの年齢で一軒家でグランドピアノ、しかもYAMAHAのG2Eを使ってるなんて、自分で『ウチは金持ちです』って言ってるようなもんだよ? まぁ、実家が金持ちって可能性も考えたけどね」

 まるで私がお金目当てで結婚したみたいな言われ方で気に入らないが、残念ながらそれは否定できない。夫は8歳年上で、産業用ロボット開発の技術者をしていて、会社が世界シェアを持っているほどの超優良企業だと知った途端に色めき立ったのは事実だ。結局のところ、今の私があるのは、ほぼ全て夫のおかげだと言っていい。一瞬だけ夫の顔が脳裏に浮かんで心が痛んだが、今だけは頭の外にいてもらうことにする。

「1曲弾いてくれない? 昨日は聞きそびれたから」

 彼は席を立ち、壁にもたれかかって腕を組んだ。見るからに「聞いてやる」とでも言うような態度が少し気に入らないが、1曲くらいちゃんと聞いてもらおうと思っていた私はおとなしく椅子の高さを調節して座り、そのままラヴェルの「海原の小舟」を弾いた。大学1年の時、全日本クラシックピアノコンクールの1次予選で弾いた曲だ。スクリャービンに転向してからも、この曲だけは毎日欠かさず弾いていた。過去の栄光というものは、思った以上に自分を強く縛る。
 弾き終わったあと、彼は「うーん……」と唸り、黙っていた。彼のことだ。お世辞を言うはずはない。

「あのさ、プレイヤーは目指さなかったの? この曲を弾く人は腐るほどいるけど、ここまで弾ける人は初めて見た。パスカル・ロジェも顔負けって感じ」

 パスカル・ロジェはフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルなど、フランス近代の作曲家のピアノ曲を得意とする、世界のトッププロの1人だ。私もCDをたくさん持っている。褒められて悪い気はしないが、さすがにロジェ顔負けと言うのは言い過ぎだろう。

「目指してましたけど、諦めました。プレイヤーになるために、ピアニストになるために全日本クラシックピアノコンクールで入賞を狙ってましたけど、2次予選止まりでしたね」
「コンクールで賞を取れば、はくが付いてピアニストへの道が開けるって?」
「そう思ってました。でも、結局は音楽とは関係ない一般企業に就職して、なりたくもなかったピアノの先生やってます。音大に行った意味も、出た意味もありませんね」
「まぁ、気持ちは分からなくはないよ。音大時代、先生と同じ理由で国内外の有名なコンクールに挑戦した人、たくさんいたからね。でも、ほとんどの学生は海外への留学とか、音楽家としてデビューするためのコネづくりをしてたけどね。やっぱり芸術関係はコネがものを言うから」

 そのコネづくりを全くやっていなかった私に、やはり音楽で生きて行く道はなかった。

「でもさ、ピアニストになるのに、資格や誰かの許可は要らないよ? 自分で『ピアニストです』って名乗ればいいだけじゃない?」

 私はたまらず「いやそれは……」と話を遮ると、彼は右手で私を制した。

「分かってる。そんな単純な話じゃないって。でも、実際そうだと思うんだよ」

 彼は自分の両手を前に出し、10本の指をぐっと広げた。

「ピアニストは88個の鍵盤と右手と左手、プロだろうとアマチュアだろうと、武器はこれしかない。これで闘うしかないんだ。みんな同じなのに、ピアニストと名乗れる人と名乗れない人の違いって何だろう」

 ――コンクールで賞を取った人。
 ――ピアノでお金を稼げる人。
 ――他のピアニストから認められた人。

 そんな「答え」のようなものが頭に浮かんだが、あえて言わなかった。おそらくこれは誰でも思いつきそうなことだし、どれも正解とは思えない。いや、そもそも正解と不正解なんていう話でもない。

「僕はね、思うんだよ。右手と左手ともう1つ。もう1つの何か。音なのか、声なのか、色なのか。それを見つけることができれば、あるいは見つけようと努力すれば、ピアニストになれるのかもしれないって。今、ピアニストと呼ばれている人は、きっとその『もう1つ』を見つけた人なんじゃないかって」

 ――もう1つの何か。

 ずいぶんと哲学的で取り留めのない話と思いつつ、妙にしっくりくるところがあった。音大時代、思うように実力が伸びなくて悩んでいた時、ピアノの先生が楽譜を指差して、「今、世界で活躍している名ピアニスト達も、この楽譜から始まっているの。でも、同じ楽譜から始まっているのに、だんだんと差がついてくる。違いが出てくる。その違いが何なのかは、自分で探すしかないのよ」と言っていた。その時は「それを教えるのが先生の役目なんじゃないの?」と思ったが、きっと人から教えられるものではなく、自分で探し、見つけて、自分で手に入れるしかないのだろう。

「あなたは、その3つ目を手に入れたんですか?」
「いや、多分手に入れてないし、今でも分からない。あ、種明かしするとね、今話したのは全部僕の師匠からの受け売り」
「師匠って、近藤宏隆さん?」

 彼はフッと笑った。

「僕のことは調査済みってわけ?」
「ネットで一通り調べましたよ。あなたのことも、近藤さんのことも。なんで明音めいおんをやめて近藤さんに習い始めたんですか?」
「突然無名のジャズピアニストに弟子入りするなんて、バカなことしたなって?」
「ええ。卒業してから弟子入りしようとは考えなかったんですか?」
「ホント、どいつもこいつも同じことを……」

 彼は眉間にしわを寄せ、野暮ったい前髪を両手でかき上げた。明らかに機嫌が悪くなっているようだが、引き下がる気はない。今度はこちらの番だ。

「もちろん僕自身も悩んだし、親には『二度とウチに帰って来るな!』って言われたよ。まぁ、当然だよね。弟子入りするのが世界的なピアニストとか、そういう人達を育てた名コーチとかじゃないんだから」

 彼は「ふー」と息を吐きながら、ゆっくりと歩き出した。

「近藤さんのピアノライブに行ったのは大学3年になる直前だったよ。別の音大の友達に誘われて、興味なかったんだけど、強引に連れて行かれてね。当時、近藤さんは確か40過ぎだったかな。小汚い格好で、襟元が黄ばんだヨレヨレのシャツ着て、無精ひげに伸ばしっぱなしの髪、どう見てもホームレスのおっさんだった。あー、音楽室のベートーヴェンの肖像画、あれをとんでもなく酷くした感じ」

 私は頭の中でベートーヴェンの肖像画を思い浮かべた。まがりなりにもクラシックを弾く者として、「楽聖がくせい」の異名を持つ大音楽家を、例え想像の中だけでも「酷く」することはできなかった。昨日、彼が「弾きたくもないような曲」としてベートーヴェンの名前を挙げたので、少し悪意があるのかもしれない。

「でも、ピアノは凄かったよ。本当に。グラスにウィスキーをがばがば注いで、それを飲みながら弾いてた。左手はストライドしまくって、曲と曲の合間にいろいろ喋って、楽譜なしでその場でリクエストに応えたり、しりとりで曲を演奏したり。クラシックの有名曲とアニメの曲を組み合わせたりしてさ。ライブのあとに楽屋に押しかけて、どうしたらあなたみたいなピアニストになれるんですか?って聞いたら、タバコをくわえて笑いながら『ピアノが弾ければ、ピアニストだろ?』って。そんなの答えになってないって文句言ったら、今度は真剣な顔で『右手と左手の他に、もう1つの何かを見つけろ』ってね」
「それで、近藤さんに弟子入りして、3つ目を見つけようとしたんですか?」
「どうだったかな。そんな大した理由じゃないと思う。ただ、近藤さんのピアノが凄いと思ったから。今まで出会ったことのないタイプの人……ピアニストだった。そう。僕の中で、これがピアニストなんだって思った。それで、体一つで近藤さんの家に押しかけて、『大学をやめて、実家も追い出されて行くところがない。弟子にしてくれないとホームレスになるけど、それでもいい?』って言ったら、近藤さんは、『俺以上のバカに初めて会った』」って爆笑してたよ」

 ドラマのような話に、さすがに呆れたが、彼ならやりそうだと思った。

「近藤さんは海外での活動が中心だって書いてありましたけど……」
「そうそう、その時はそんなこと知らなかったから、『来週、アメリカに帰る』とか言い出した時、アメリカなんて話は聞いてないって、玄関で大ゲンカしたなぁ。しかも近藤さん、英語はほとんど話せないって言うから、もうふざけてるとしか言いようがないよね」

 ある有名なピアノの先生は、習いたいと言う人の手を見て、教えるかどうか決めると言う。それを聞いた時、そんな先生に習って、何かいいことがあるのだろうかと疑問に思った。自分が教えた生徒を活躍させて、自分の地位と名声を上げたいだけの、ただの傲慢だと。深町みたいに全てを投げうってまで自分のところに来てくれる、そんな弟子がいる近藤は、本当に幸せ者だと思った。

「私も近藤さんの演奏、聞いてみたいです」
「ああ、それは無理だよ。2年前に脳梗塞やっちゃって、後遺症で左半身が満足に動かないから」

 私が絶句して口をパクパク動かしていると、彼はそんな私を気にすることなく続ける。

「でもまぁ、本人は意外と元気だよ。今は拠点のモンタナ州の小学校で、子供達にピアノを教えてる。右手だけね」

 彼は私の横に立ち、右手の指を5本広げて鍵盤に置いた。

「右手だけでピアノを弾くって大変だよ。僕らは両手で弾くのが当たり前になってるからね。近藤さんは『3つ目を見つけろって言った俺が、右手だけになっちまったな』って言って笑ってた。ホント、いつでも笑ってるんだよ、あの人は。ホント、バカみたいに……」

 私は左手を彼の右手の横に置いた。
 近藤はストライド奏法の名手だったに違いない。左手が動かないということは、それを封じられたのと同じだ。どれほど悔しく、やりきれないのか、想像するだけでこちらの胸も痛くなる。いや、おそらく近藤よりも深町の方が辛いだろう。一番身近にいて、近藤の全てを吸収していたのだから。
 この場では口が裂けても言えないが、私はピアノが弾けなくなるくらいなら、死んだ方がマシだと思う。10本の指は、自分の命と同じくらい大事なものだ。

「はい、僕の話はおしまい。先生のこと、教えてよ」

 彼は大きく伸びをしながら、また壁にもたれかかった。

「私のことなんて知ってどうするんですか? 夢破れたピアニスト崩れの話なんて、別に面白くないですよ?」
「あーあー、そんなこと言っちゃって。そうだなぁ、旦那さんはピアノ弾くの?」
「2年前にピアノを始めて、毎日頑張って弾いてたんですけどね。ちょっと前に全く弾かなくなりました」
「どうして? 厳しく指導したから?」
「何と言うか、外の世界を見せてあげようと思って、ちょっとレベルの高い社会人のピアノサークルの発表会に連れて行ったんです。そしたら、ピタッとやめちゃって」
「それ、大海に出すのが早すぎたんだよ。完全に逆効果だね」

 ――逆効果?

 私は首を傾げた。

「大人からピアノを始めた人って、楽しいことだけやるから、最初の1年や2年は物凄く頑張るんだよ。もちろん、実力もまぁまぁ付く。それで、みんな『自分は天才だ』って勘違いする。そんな時に、上には上がいるって現実を知ったら自信をなくして一気に冷めちゃうんだよ。井戸の中の方が幸せなこともある」

 私はため息をついた。他人の子供に一生懸命ピアノを教えて、一番身近な家族のピアノをやめさせる原因をつくったなんて、ピアノの先生が聞いて呆れる。

「やっぱり私はピアノの先生には向いてませんね」
「旦那さんはもうピアノ弾かないの?」
「ハッキリとは言ってませんが、もう弾かないんじゃないかなって思ってます。私は続けてほしいんですけどね」
「だったらそう言わないとダメだよ!」

 彼は突然声を荒げた。私は驚いて肩をすくめる。

「本人が、もう弾かないってハッキリ言ってるならまだしも、そう言ってないってことは、まだ弾く気があるんだよ。先生がちゃんと言えば、旦那さんは弾くと思うよ? それと、今からピアニスト目指しますって言えば? まさか、そんなこと言ったら離婚されるかもって思ってる? 言わないと思うけどなぁ。先生って思い込みが激しいんじゃない? もったいないよ。夫婦揃って、右手と左手がちゃんと動くのに……」

 イライラしているのか、彼は頭を掻きむしりながらピアノの周りをウロウロと歩き始めた。

「あー、どうせ、昨日会ったばかりの他人に何が分かるんだって言いたいんでしょ?」
「いえ、そんなつもりはないです」
「余計なお世話だよね。ごめんね」

 今の彼に何を言っても無駄だと思い、黙っていると、彼は「はー……」とわざとらしく息を吐き、私の隣に立った。

「先生、もう帰った方がいいよ。僕もピアノ練習したいし」
「あ……すみません」
「今さらだけどさ、先生が敬語で僕がため口って、普通逆じゃない?」
「そうですね……」

 私が席を立つと、彼は「楽しかったよ。ありがとう」と言い、椅子に座ってピアノを弾き始めた。前に弾いてくれた「Autumn Leaves」の時とは明らかに違う、ガンガンと鍵盤を叩く荒々しい弾き方だった。私はせめて、夜のピアノライブには行くと伝えたかったが、あまりに突然の彼の「拒否」に気持ちが追い付かず、走ってその場を離れた。

 二重扉から出て、さっきの会話を頭の中で反芻はんすうした。私は彼の気に障るようなことを言ったのだろうか。彼の師匠が病気の後遺症で満足にピアノを弾けなくなってしまい、健康な私と夫に嫉妬した……ということだろうか。そうだとしたら、気持ちは分かるが、少しばかりお門違いな気がする。何でもそうだが、環境や境遇はそれぞれ異なる。それを尊重し、理解しなければ人間関係は成り立たない。何だか私もイライラしてきて、「あーもう!」と口に出し、コミュニティセンターを出た。
 近くのスーパーで、いつもは買わないチョコレートやビスケットのパーティー用の大袋を買い物かごに乱暴に放り込む。
「腹が立つと腹が減る」というのは本当だと思った。


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