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シネマのように 第5話(最終話)|連載小説

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「妙子?」

 メディカルセンターの売店の前で、後ろから声をかけられた。振り向かなくても、その声の主が誰なのかすぐに分かった。私のことを「妙子」と呼ぶ人は、今も昔も1人しかいない。振り向くと、パジャマ姿の男性が立っている。敏明だった。

「あ、僕のこと覚えてる?」
「覚えてるに決まってるでしょ?」

 彼は「そうかそうか」と、昔と変わらない笑顔で小さく頷いた。

「てっきりどこか遠くに行ったのかと思ったら、意外と近くにいたんだね」
「ここにはヘルプで入ってるだけ。職場は近くの大学病院。友達の紹介で」

 弁解とも、言い訳ともつかないことを早口で喋る。「決してあなたから逃げるためじゃない」ということを伝えようとしたが、なぜか言葉が喉の辺りで詰まってしまい、口だけが金魚のようにぱくぱくと動いた。

「元気そうでよかったよ」

 私は間違っても「元気?」とは言わない。ここで出会うということが何を意味するのか。曲がりなりにも長年医療現場で働いている私にはよく分かっている。

「悪いの?」
「ステージ4。多分、1年もたない」

 彼はさらりと言う。痩せた体を見て、何となく想像がついた。不自然なほど穏やかな表情に、私は急に胸が締め付けられるような思いに駆られ、下を向く。

「妙子、結婚は?」
「してない」
「僕も。今は結婚しなくてよかったと思ってるよ。奥さんに苦労をかけなくて済みそうだし」
「――そう」

 あれから何人か付き合った人はいた。私の体のことを理解して、それでもいいと言ってくれる人もいたが、いつも私の方から別れを切り出した。10年前、彼とその両親に完膚なきまでに打ちのめされたことで、私の中で恋愛や結婚は不必要なものとして位置付けられてしまったんだと思う。それを恨んではいない。
 彼の「結婚しなくてよかった」という人の中に、私も含まれているのだろうか。彼に対して、急に「申し訳ない」という気持ちが込み上げてきた。もっときちんと別れておけば、と。いや、そもそもきちんとした別れなんて存在しない。別れたことと、今の彼の病気のこととは、一切関係がない。

「病室は?」
「502。来ない方がいいと思うよ? じゃあ」

 彼は、唖然とする私の横をすり抜けた。

 ――もっと聞きたいこと、あるんじゃないの?
 ――もっと言いたいこと、あるんじゃないの?

 そう心の中で彼に問いかけたまま、私はその場で立ち尽くした。同時に、10年前に「とにかく話そう」と言った彼を拒絶した自分を思い出す。私に何か言う権利も、聞く権利もない。先に彼を拒絶したのは、他ならぬ私なのだから。

 何となく頭と心がそわそわと落ち着かないまま、仕事帰りにショッピングモールに寄ると、また耳障りなピアノの音が耳に飛び込んで来た。少しだけ期待して、吸い寄せられるようにピアノの近くに行くと、弾いていたのは年配の女性だった。

 ――いるわけないか。

 少し残念な思いを引きずりながら帰宅し、石崎にもらった砂糖とミルク入りの缶コーヒーを冷蔵庫から取り出した。普段ブラックコーヒーしか飲まないので、この缶コーヒーは下手をしたらこのまま冷蔵庫の中で化石になってしまう。
 パソコンの画面を開いていつもの動画を再生し、缶コーヒーに口を付けると、甘ったるい味が口の中に広がった。無性に石崎に会いたくなった。眠そうな顔で、ふらふらと歩く後ろ姿が脳裏に焼き付いている。石崎の個人情報を知ろうと思えば知ることができる。しかし、絶対にそれをしてはいけない。石崎に出会うには、彼が治療に来た時に出くわすか、それこそ、街中でばったり会うかのどちらかしかない。しかし、両方ともその確率は低い。

 ――次に会ったら連絡先を聞いてみようか。

 石崎なら「いいですよ」と軽く応じてくれる。そんな勝手な考えが、頭の片隅にポツンと浮かんだ。

 それからというもの、私はメディカルセンターに行くたびに、502号室のドアの近くまで行き、そのまま引き返すという謎の行動を取るようになった。そこに彼がいる、その存在だけは感じていたかった。何だかんだ言って、昔私が愛した人だから。
 たまに、中から空咳からせきが聞こえて、思わず背中をさすってあげたくなる時があったが、どうしてもその勇気が出なかった。彼と顔を合わせたら、安っぽい励ましや慰めの言葉をかけたくなってしまう。それで彼の病気が治るのなら、いくらでもそうする。でも、彼がそんなことを望んでいるとは到底思えない。きっと彼は、私がそうやって悩むのが嫌で「来ない方がいい」と言ったのかもしれない。

 一度だけ、母親がお見舞いに来る姿を見かけた。驚くほど老け込み、空虚な表情で歩くその姿に、かつて私に敵意を向けた覇気は微塵も感じられず、私は僅かばかりの同情を抱いた。重病患者の家族の苦労もまた、たくさんの当たりにしている。

「松井さん、年末年始はどうするの?」

 スタッフステーションで、何となくぼんやりしていると、バインダーを片手に小林が聞いてきた。もうそんな時期か。この仕事をしていると、季節や曜日の感覚がなくなる。

「出ます。いつも通り」
「助かります」

 私の答えを予期していたかのように、小林はボールペンを走らせる。

「いやさ、新人さんがね、年末年始は休んじゃいけないのか、なんて言うもんだから、できるだけ希望を聞いてあげたいなぁと思って」

 年末年始に興味がない私は、ここ10年その時期に休んだことがない。年末年始は特別手当が付くし、家族や恋人がいて、休暇届を出す人からは感謝されるし、むしろお得だと思っている。それに、年末年始の、ちょっとそわそわとした病院内の空気や、年が明けて、患者のお孫さんが振袖姿で面会に来たりするのを見るのは嫌いじゃない。

「大変ですね。調整お疲れ様です」
「あの……松井さん、疲れてない?」

 私は「はい?」と裏返った声で聞き返した。もちろん疲れているのは確かだが、あからさまに「疲れてません?」と言われるほど、顔や態度に出しているつもりはない。それが私のキャリアの裏付けだと自負している。

「すみません。ちょっとぼうっとしてて」
「体調不良とかではない?」
「そんなんじゃないですよ。大丈夫です」
「ならいいけど。なんかあったら遠慮しないで、すぐに言ってね」

 私は「はい」と短く返事をした。小林にぼうっとした姿を晒してしまった自分に、ちょっとだけ苛立つ。

「あーそうだ。言い忘れるところだった。あのね、メディカルセンター、年が明けたら別の人に行ってもらうことにしたから」
「何でですか?」

 私と敏明の繋がりが絶たれてしまう。反射的にそう思い、語気が強くなった。

「本来、松井さんが行くような仕事じゃないでしょ? 今まで助かりましたよ。ありがとうね」

 一瞬だけ小林に対する憎悪の気持ちが芽生えたが、すぐに冷静になる。敏明と会う気はないし、ましてや仕事とは何の関係もないのだから、小林に対して腹を立てるのはお門違いだ。元恋人との思わぬ再会に、少しだけ心が乱れただけだと自分を擁護する。

「あの、えーと……介護部門に入った新人さん、どんな感じですか?」
「ん? 原田さん? 彼女ねぇ、よくやってるよ。尾崎君といいコンビネーションで」

 私は作り笑顔で「そうですか。よかった」と言った。自分を立て直すためのクッションのような質問だったので、正直、興味はない。小林が立ち去るのを確認して、机に突っ伏した。

 年が明け、メディカルセンターに行くのが最終日となった日、502号室の近くに行くと、ドアが開いていた。中を覗き込むと、ベッド以外のものがすっかり片付けられ、まるで、今までここに誰もいなかった、何もなかったと言わんばかりに、あまりにも無機質な空間があるだけだった。ベッドの真新しいシーツに手を置く。白く、冷たく、シワひとつない不気味なシーツが、私にここに来る理由がなくなった事実を突き付ける。
 少しだけ開いた窓から吹き込む風が、カーテンを揺らしている。そっと窓に近付いて外を見ると、重苦しい鉛色の空と、灰色の世界が広がっていた。
 新人の頃、先輩に言われたことがある。患者さんが窓からじっと外を見ていて、その横顔を見るのが辛い、と。入院患者は、自分はいずれ元の場所へ戻れると信じて、窓の外を見ている。しかし「もう戻れない」と悟ってしまったあとの絶望に満ちた横顔は、とても見ていられない。夢に出てくるほどだ、と。
 敏明は、何を思ってこの窓から外を見ていたのだろう。あるいは、もう見ることすらしなかったのだろうか。今となっては、もう知る由もない。

 帰宅し、いつものように動画を再生すると、急に涙が溢れてきた。彼がこの世からいなくなってしまった寂しさなのか、最期に何も声をかけてあげられなかった後悔なのか、理由が分からない。

 ――この曲を聞き終えたら、涙を拭こう。

 そうして、ただ静かに、興味のない映画のテーマ曲を聞いていた。

 数日後、仕事帰りにショッピングモールに寄り、何となくピアノの近くを通った。いつもは誰かしら弾いているのだが、今日に限って誰も弾いていない。ピアノに近付き、人差し指で鍵盤を触ると、思ったよりも冷たい鍵盤の感触が指先から伝わってきた。指の重さで「ポーン」と音が鳴る。こんな、ほんの数センチの鍵盤の上を10本の指が走るなんて、ちょっと信じられない。

「弾いてみませんか?」

 振り返ると、石崎が立っていた。いつもの作業服姿ではないので、一瞬誰か分からなかった。それに気付いたのか、彼は上着の前裾を持ち、ひらりと広げた。

「ああ、友人が亡くなりましてね。葬式の帰りです」

 お悔やみの言葉をかけるのも変な気がしたので、何も言わなかった。
 彼は私の横に来て、鍵盤に右手の5本の指を置いた。「ポロロン」と、ピアノが嬉しそうに鳴る。

「そいつね、ずっと前から入院してて。変な奴なんですよ。見舞いに行った時、『僕の人生、シネマみたいだろ?』って言うんです。映画じゃなくて、シネマですよ? イラッとするでしょ? 人をイラッとさせたまま、死んじゃいましたよ」

 彼は、今度は左手の指を鍵盤に置いた。もうすっかり怪我は治っているようだった。

「弾いてください。ニューシネマパラダイス、愛のテーマ」
「バッチリ治ったんで、いい感じに弾けると思います」

 彼はそう言って上着を脱ぎ、私に差し出す。私がそれを受け取ると、彼はピアノ用の椅子に座り、ワイシャツの袖をまくった。鍵盤に置いた左手を一旦上げ、グーパーグーパーをして、また鍵盤に置く。
 いつも動画で聞いている曲が、目の前で流れる。もうピアノの音は、私にとって雑音ではなくなっていた。何かを聞いて、何かを見て心が揺さぶられるような感情は、とっくの昔に捨ててしまったが、今、この瞬間に取り戻した気がする。

 1人、2人と足を止め、やがて大勢がピアノを囲む。そうだ。みんなこのピアノの音を聞け。聞いた人に何をもたらすかは分からないが、とにかく聞け。心の中で、そう叫ぶ。

 演奏後、拍手が沸き起こる。彼はそれらに一切目もくれず、一直線に私の元へと歩いて来た。

「泣いてるんですか?」
「いけませんか?」

 彼がハンカチを差し出し、それをひったくるように取り、後ろを向いて涙を拭く。

「洗って返します」
「いいですよ、別に」
「いえ、洗って返します」

 私はハンカチをポケットに入れた。自分の涙が沁み込んだハンカチを彼に渡したくなかった。私の涙に彼の指が触れるのが恥ずかしかった。

「連絡先、教えてください」

 無意識に、その言葉が口をついて出た。彼はポケットからスマートフォンを出し、画面を私に見せた。彼に泣き顔を見せてしまったことに動揺して、思うようにスマートフォンが操作できない。

「何か食べに行きませんか?」
「ハンバーグかステーキがいいです」

 彼の唐突な誘いに即答すると、「いいですねぇ。ガッツリ系」と笑い、「ハンバーグと言うと、あの店か……いや、ちょっと遠いけど、あの店にしようか……」と、ぶつぶつ言い出した。私は心の中で「どこだって良いのに……」と呟く。

「私にどんな趣味が合うか、一緒に考えてください」
「もちろん。とりあえずピアノは弾きましょう」

 つい笑ってしまった。彼はどうしても私にピアノを弾かせたいらしい。でも、弾いてみたいと思った。弾けたら、きっと楽しい。今までとは違う、全く見たことのない景色が見えるかもしれない。

「ピアノ、難しくないですか?」
「そりゃ難しいですよ」
「やめます。無理です」
「ダメです。弾いてください」

 私と石崎は、並んで歩いた。誰かと並んで歩くことの幸せを、今感じている。

 ――帰ったら、あの映画を見てみよう。

 きっとみんな、シネマのような人生を送っている。敏明も、石崎も、ここにいる、顔も名前も知らない大勢の人達も。

 ――もちろん、私も。

 だから、もう少し、私は私の人生ってやつに付き合ってやろうじゃないか。うっとうしさも、めんどくささも、困難も、全部ひっくるめて、束になってかかってくればいい。

 もう、逃げも隠れも、しないから。

 全部、受け止めるから。

(了)


「シネマのように」全5話。

お読み頂き、ありがとうございました。


最初から読む。

ありがとうございます!(・∀・) 大切に使わせて頂きます!