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シネマのように 第1話|連載小説

【第1回Solispia文学賞 最終候補作】

【あらすじ】
看護師の松井妙子まついたえこ(38)は子供の頃の病気が原因で子供が産めない体になり、10年前にそのことが原因で、当時恋人だった敏明としあきとの結婚が破談になってしまった。その後、ほとんど感情を表に出さずに生きてきた妙子は、ある時、猫に手を噛まれて病院に治療に来た男性、石崎いしざきが呟いた「しばらくピアノは弾けないな」という言葉に興味を持つ。ある日、ショッピングモールでストリートピアノを弾いている石崎を偶然見かけ、思わず声をかける。それまで音楽なんてほとんど聞かない生活をしていた妙子だが、石崎が弾いていた曲が妙に心に引っ掛かるようになった。敏明との思わぬ再会、そしてピアノを弾く石崎との出会いによって、妙子は空虚な毎日を抜け出し、前を向こうとする。

***

「大丈夫よ。私だって最初は上手くできなくて、毎日患者さんに文句言われてたんだから」

 落ち込んでいる若い看護師に、優しく、そして気を遣いながら声をかける。点滴の針が上手く刺せなくて、患者さんに「下手くそ!」と言われたらしい。

「ええ!? 松井リーダーにも、そんなことあったんですかぁ!?」

 急に明るくなった表情と、変に上ずった声に少しイラつきながらも、冷静さを失わないように努力する。

「一生懸命やっていれば、きっと患者さんにも伝わるから。ほら! 笑顔笑顔!」

「はい!」と、これまた妙にしゃくさわる返事をして、私は小走りに去って行く新米看護師の背中を苦々しく見送った。

「はぁ。まったく……」

 私の若い頃は、「患者さんに文句を言われたくないなら、とっとと上達しなさい!」と逆に叱られたものだ。今の若手は、何かあると二言目には「辞めます」という脅し文句を口にする。その次は決まってパワハラだの、SNSで晒すだのと騒ぎ立てる。実際に辞められたりしたら、貴重な若手を退職に追いやった責任を問われるものだから、もう踏んだり蹴ったりだ。こうして新人や若手に精神的なマウントを取られ、ひたすら耐え続けなければならない不条理に、心底嫌気が差す。

 気を取り直して仕事に戻る途中、診察室の前で「注射やだー!」泣いている女の子が視界の隅に入った。両親の「大丈夫よ。痛くない痛くない!」となだめる顔は、困りながらも、どことなく嬉しそうだ。
 こういう景色を見て、前よりは心が痛まなくなった。昔は、夫がいて、子供がいて、私にそういう人生はなかったのかと思い悩むことがそれなりにあったが、今は、子供の写真がプリントされた年賀状は3秒でゴミ箱へ放り込めるし、休日のショッピングモールで、親の隣をひょこひょこと歩く子供は、リードに繋がれて引っ張られているトイプードルと見分けがつかなくなった。
 子供が産めない体と運命共同体になって38年。そうやって魂の一部を殺すことで、心の平穏を手に入れた。いや、もう心の一部も死んでいるのかもしれない。

 廊下の向こうから、スーツ姿の男性が早歩きでこちらに来て、すれ違いざまに私に会釈した。製薬会社の営業マンだ。歳は二十代中盤といったところか。私も軽く会釈して、数秒後に振り返り、その背中を見た。肩幅が広く、スーツがよく似合っている。自信に満ちた背中だ。

 ――ダメだ。

 これだけは、いつまで経っても慣れない。どうしても、あの背中と重ねてしまう。

 10年前、敏明としあきもその自信に満ちた背中と、スーツのカタログから抜け出してきたような姿で病院の中を颯爽と駆け回る、製薬会社の営業マンだった。わざわざ私の姿を探し、「あ、奇遇ですね」とか「病院内で迷っちゃって」などと見え透いた嘘をつく。
 ある日、いつものように私の姿を見つけて走り寄って来た彼は、「ちょっといいですか?」と私の腕を引っ張り、廊下の隅に連れて行った。何事かと戸惑う私にいきなり「今度、食事に行きませんか?」と言うので、咄嗟に「いきなり食事はちょっと……」と断ってしまった。彼は口を真一文字に結び、「そうですか……」と言い、私にくるりと背中を向け、革靴の音を響かせながら歩いて行った。冷静さを取り戻した私は、食事がダメなら、一体何の誘いならオーケーしたのだろうかと自問する。
 数日後、彼は魂が抜けかかっているかのようにふらふらと私のところへ来て、蚊の鳴くような声で「仕事で失敗して、左遷されそうです」と言った。「は? 左遷?」と聞き返すと、「松井さんに食事を断られて、ショックで仕事に身が入らなくてミスが増えたんです」と、内容は理解できるが、およそ意味不明なことを言い出し、私がどうしたらいいのか分からずにおろおろしている姿を見て、彼は「嘘に決まってるじゃないですか!」とケタケタ笑った。

「そういう冗談、嫌いです」

 そう言い捨て、彼の横を通り過ぎそうとすると、「待って待って! すみません! 謝りますから!」と私の行く手を遮り、「改めて、食事いかがですか?」と言うので、私がボールペンを持つと、同時に彼はメモ帳を差し出した。営業マンとしては優秀なようだ。

「変な電話をかけてきたら、容赦なく着信拒否しますからね」

 そう言いながら、携帯電話の番号とメールアドレスをメモ帳に書きなぐる。彼はまっすぐ私の目を見て「連絡します。必ず」と言った。不覚にも、心拍数が上がっていた。
 そして週末、2人で行ったのは、駅前に最近オープンしたショッピングモール内のうどん屋だった。本格讃岐うどんのチェーン店らしい。シックで小洒落た内装の店で、席は一通り埋まっている。高級レストランを期待してわけではないが、さすがにうどんは予想外で、肩透かしを食った。

「いやー、この町にオープンしてくれるなんてラッキーですよ。讃岐うどん、大好きなんで」

 そう言って嬉しそうにずるずるとうどんをすする彼を見て、これはデートなのか、それとも私をうどん仲間にしたいだけなのか、本気で分からなくなった。前もって「何か食べたいものは?」と聞かれなかった時点で、デートではないのだろう。それが分かっただけで、幾分か気が楽になった。

「もう週一で通っちゃいますよ。ここ」
「そんなに好きですか? うどん」
「そりゃもう。うどん嫌いな人、いないでしょ?」

 私はうどんは嫌いではないが、お金を出してまで食べようとは思わない。どちらかというとハンバーグやステーキの方がいいのだが、今それを言えない雰囲気に、若干の窮屈さを感じた。

「次はケーキ食べましょう」

 やっとのことでうどんを平らげた瞬間、彼はそう言い、伝票を持って立ち上がった。有無を言わさずに隣のカフェに行き、レアチーズケーキとモンブランに一心不乱にかぶりつく彼を、私はアイスカフェオレのカップを両手で持ちながら眺めた。見事な食べっぷりだ。呆気に取られる私を全く気にせず、クリームが付いた口周りを紙ナプキンで拭きながら、「イマイチだな」と割と大きな声で言うものだから、私は慌てて彼の手を引いて店を出た。

「二度と店に入れなくなりますよ?」
「だって、本当のことですからねぇ。値段の割に味はそこそこでした。スイーツに関して、舌は肥えているつもりです」

 前々から彼のことをちょっと変わり者だとは思っていたが、どうやらかなり変わり者のようだ。何より、「食」に関してはお互いに合わないということがハッキリした。

 そんな風変わりな彼との一番の思い出はドライブだった。彼はいつも目的地を決めないままいきなり常磐自動車道に乗り、「今日はどこへ行きますか?」と聞く。私が冗談で「宇都宮に行って餃子を食べたい」と言うと、「僕もちょうど餃子を食べたいと思ってたんです」と調子のいいことを言い、本当に宇都宮まで行った。
 車は通勤と買い物と、必要最低限しか乗らない私にとって、彼とのドライブはまさに小旅行だった。一昔前は、ただ臭くて汚くて、トイレのためだけに存在すると思っていた高速道路のサービスエリアは、今やおしゃれスポットに姿を変え、立ち寄るたびにアイスやお菓子などを買い、2人でバカみたいに笑いながら貪り食った。普段は298円と398円の差に悩むくせに、この時ばかりは値段のことは頭の隅に追いやられた。
 いつだったか、私がわざと行き先を言わないでいると、彼は常磐自動車道から北関東自動車道に入り、全くためらうことなく東北自動車道へと入った。「どこか適当なところで降りて」と言うと、彼は「牛タンが食べたくなっちゃいました」と言い出した。「やめて」と言おうとしたが、なぜか言葉にならず、彼はそのまま3時間も運転して仙台まで行ってしまった。
 牛タンを食べ、一通り観光したあと、車は中心地からやや外れたリゾートホテルの駐車場に滑り込んだ。彼がチェックインの手続きをしている間、私は後ろでじっと待つ。

「入って」

 彼が部屋のドアを開けた。ゆっくりと中に入り、あとから入って来た彼に向かい合うと、彼の手が私に伸びてきた。最初から予感していたことだった。逃げようと思えば逃げられる。拒否すれば、きっと彼は何もしない。でも、私はその選択をしなかった。本当は、私が望んでいたことだから。
 明け方に目が覚めた。彼の寝息が首筋にかかる。誰かと一緒に朝を迎えるのは初めてだった。特に何がどうって訳じゃない。ただ、今まで自分達がいた世界から隔絶された場所、それがここであり、このまま帰らず、仕事にも行かず、ずっとこうしていたい。そう思った。

 帰りの車の中は、お互いにちょっとよそよそしくて、車内はずっと変な空気だった。FMラジオから流れるパーソナリティの話し方が、なんかわざとらしく思えて全然耳に入らず、窓の外を流れて行く山々の景色も、なんか張りぼてのように現実感がない。

「職場では普通にしましょうね」

 昼過ぎに私のアパートに着き、提案するように言った。

「普通って?」
「あくまでもフリよ、フリ。周りの目もあるし」
「――そうだね」

 意外にも彼はあっさりオーケーした。「そんなの必要ない」と突っぱねられるかと心配していたので、杞憂に終わってホッとする。

「いつも運転してもらって悪いね」
「いいよ。好きで運転してるんだから」

 そう言うと、彼は運転席から身を乗り出して、私を抱きしめた。昼間に駐車場に停めた車の中で抱き合うなんて……と思ったが、きっと彼は「構うもんか」と言うに違いない。

 シフト制の仕事をしている私に、彼はいつも合わせてくれる。一番ありがたいのは、夜勤明けにデートの誘いやメールをよこさないことだ。夜勤明けは辛い。自宅に帰って寝るだけにしないと体がもたない。激務な上に不規則な勤務体制で、恋愛や結婚が上手くいかない人も多い中、彼には本当に感謝している。でも、いつも不安だった。お互いの関係が深まるたびに、いつか自分の体のことを話さないといけない、と。だから今まで、他人と深い関係になるのは避けていた。初めて心と体を許した彼には言うべきだと思っても、やっぱりそれだけは言う気になれなかった。

 ――今度会ったら話そう。

 いつもそう思うのだが、もし「私は子供が産めない」と打ち明けたら、彼はがっかりするかもしれない。私から去ってしまうかもしれない。いつもそうやって悩んで、なかなか覚悟が決まらない。どんなに努力しても、願っても、彼と私に「子供」という選択肢がない絶対的な現実に、ただただ自分の体を呪う。

 付き合い始めて1年が過ぎたある日、彼とショッピングセンターに買い物に行くと、迷子と思われる小さな女の子が1人で泣いていて、彼はすぐに駆け寄り、しゃがんで真っ直ぐに女の子の目を見て「どうしたの? ママとはぐれちゃったの?」と優しく言った。女の子が小さく「うん」と頷くと、彼は「よし! 一緒にママを探しに行こう!」と女の子の手を取り、歩き出した。

「ママはねー、ピンク色のセーターを着てるのー」
「へー、そうなのー」
「背はねー、ちっちゃいの。このくらいー」
「えー? そんなにちっちゃいのー?」

 手を繋いで、そんな会話をしながら歩く彼と女の子は、どこからどう見ても親子にしか見えず、私は居心地が悪くて2人の少し後ろを歩く。すると、女の子が私にすっと手を差し出した。

「ほら、妙子」

 彼が小声で言う。私に、その小さな手を握れと言うのか。恐る恐る、女の子の手を握る。温かくて、柔らかくて、ちょっと力を入れたら握り潰してしまいそうなその手から、得体の知れないエネルギーのようなものが私に流れ込んできて、飛び上がりそうになる。
 そのまま3人で歩く。「似合ってるぞ」と冷やかす彼を、この時は無視する。反応できるほど、心の余裕がなかった。

 ――私に、こんなことさせないで……。

 羞恥心と、少しばかりの幸福感と、それらを圧倒的に上回る違和感と絶望感が全身を支配する。

 3人でインフォメーションセンターに行くと、若い女性がスタッフに向かって、大声で何やらまくし立てている場面に遭遇した。突然、女の子は「ママー!」と叫びながらその女性に駆け寄り、女性はしっかりと女の子を抱きしめながら「ありがとうございます! ありがとうございます!」と何度も私達に頭を下げた。女の子は敏明に「バイバイ」と手を振る。この時、なぜ私に手を振ってくれなかったのかと、ほんの少しの寂しさを感じたが、もしかしたら小さいながらも、私から何かを感じ取ったのかもしれない。満足そうに女の子に手を振る彼を見て、私はただ、惨めな思いに苛まれていた。

「やっぱり女の子っていいな。妙子はどう?」

 帰りの車の中で彼にそう聞かれ、私は「さぁ、どうかな」と答えた。私に答えられるはずがない。最も話題にしてほしくない、そして、最もしてほしくない質問だ。
 私は覚悟を決めた。彼に本当のことを話そう。もし、彼がさっきのような一般的で、標準的な家庭に憧れているとしたら、私達は上手くいかない。今だったら、まだお互いに傷が浅くて済む。

「実は私、子供が産めない体なの。小さい頃に、病気で」

 一切の前置きをせず、唐突にそう言った。驚いたのか、彼は何も言わなかった。きっといかに私を傷付けずに別れを切り出すかを考えているのだろう。
 車は連続で赤信号につかまる。いつもは永遠に続けばいいと思う赤信号が、今だけはもどかしい。今日だけは、1秒でも早く自宅に着きたい。彼が何か言う前に1人になりたい。逃げ出したい……。
 車が私のアパートに着いても、彼は何も言わない。

「じゃあね」
「――結婚しよう」

 車のドアを開けようとした瞬間、彼はぽつりと言った。

「私がさっき言ったこと、聞いてた?」
「もちろん」
「同情とか、そういうのは――」
「違う!」

 彼は運転先から身を乗り出した。私を射貫くような彼の目に、私は身を固くした。

「だって、子供を産めないんだよ? できにくいんじゃなくて、産めないの」
「子供の前に、まずは僕達の幸せだろ? 子供がいなくても、幸せな家庭はたくさんあるよ」

 綺麗ごとのような気はするが、実は心のどこかで、そんな言葉を待っていた。彼なら、そう言ってくれると信じていた。

「本気?」
「僕はいつも本気だよ?」
「こんな……欠陥品の体でも?」
「そんな言い方するな」

 私はたった一言「うん」と言った。これ以外の、これ以上の言葉は必要ないと思った。

 ――信じてみよう。私と、敏明の未来を。

「なんかこう……夜景の見えるレストランとかじゃなくて、あんまりロマンないけど……」
「いいんじゃない? 私達には、きっとこれがお似合いなのよ」
「じゃあ、また」
「うん、また」

 私が車から降りると、彼も降りて来て、何も言わずに私を抱きしめた。

「プロポーズしたのに、なんかあっさりしてない?」
「じゃあ、どうしたいの?」

 私がそう言った瞬間、彼の唇が私の唇を塞いでいた。彼は目を閉じている。

 ――目を開けたままのキスが好きって言ってるのに……。

「ちょっと……誰か見てるかも」
「いいよ。大声で『僕達結婚します!』って叫ぼうか?」
「絶対イヤ」

 彼は私を抱きしめたまま、「指輪、買いに行かないとね」と言い、優しく頭を撫でて運転席に戻った。彼の車を見送ったあと、急に気恥ずかしくなり、慌てて部屋に駆け込む。電気をつけずに、うつ伏せにベッドに倒れ込むと、体がふわふわと宙に浮いているような、変な感じがした。

 ――何をすればいいんだろう。

 プロポーズされるなんて初めてで、しかもいきなりのタイミングで、何をどうしたらいいのか分からない。
 ベッドから起き上がり、窓を開けると、5月の湿気を含んだ風と一緒に、電車の走る音が聞こえてきた。その音は、私を幸せへといざなってくれる福音ふくいんのようで、「ああ、幸せってきっとこんな感じなのかな」と、暗い部屋の中でひとり、遠ざかる電車の音に聞き耳を立てていた。


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※「シネマのように」は、トガシテツヤが執筆し、noteに投稿したオリジナル小説です。

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