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シネマのように 第2話|連載小説

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「そのくらいにしておけば? そりゃ緊張するのは分かるけどさ」

 2杯目のビールを一気に飲み干し、3杯目を注文しようとする私の手から、彼は注文用タッチパネルを取り上げた。
 明日は彼の両親に挨拶に行く。少しでも緊張をほぐそうと、自分の部屋でオンザロックのウイスキーをちびちび飲んでいたが、耐えられずに彼を近所の居酒屋に呼び出した。

「あ、いっそ二日酔いの状態で連れて行こうか? 最初に醜態を晒しておけば、後々楽になるかもよ?」

 一瞬、「確かに」と納得しそうになり、すぐに「そんなこと、できるわけないでしょ?」と言ってタッチパネルを取り戻し、「生ビール(中ジョッキ)」のボタンを押す。運転をする彼は、ノンアルコールカクテルを注文した。

「君がこんなにビールを飲んでる姿、初めて見たなぁ」
「お酒は好きよ。仕事に支障が出ると困るから、普段はあんまり飲まないだけで」
「今度、ゆっくり温泉でも行って飲んだくれようか」
「賛成」

 店員がビールを彼の前に、ノンアルコールカクテルを私の前に置いた。店員が去ったあと、彼が「ま、そうなるわな」と言いながら、そっと入れ替えると、思わず私は「ブッ」と吹き出してしまった。そして、2人で大笑いした。周りのお客さんが一斉にこちらを見たが、気にならなかった。
 彼の両親に挨拶に行くのに抵抗はない。心配なのは、私の体のこと。この一点に集約される。「大丈夫。ちゃんと話してあるから」と言う彼の言葉を疑うわけではないが、やっぱり不安で仕方ない。

「じゃあ、朝8時に迎えに来るから」
「うん、お願い」
「大丈夫だよ。きっと上手くいく」
「うん……信じてる」

 車を降りると、予想通り彼は降りて来た。

「ダメダメ、酒臭いから」
「もしかして、キスすると思った?」
「しないの?」

 私の方から彼に抱きついた瞬間、駐車場に車が入って来た。咄嗟に離れる。

「空気読めない車だなぁ」

 白いセダンに恨み言を言う彼に、「今日はお預けね」と、彼の頬にキスをした。

「階段、気を付けてね。あ、部屋までついて行こうか?」
「ご心配なく」

 私の部屋に入る気満々の彼に手を振り、慎重に階段を上る。部屋の窓を開け、彼の車が赤信号につかまっているのを、酔いが回った頭でぼんやりと見た。その先に、この辺りでは最も高い18階建てのマンションが、暗闇の中にぼうっと浮かび上がっている。

「結婚したら、あの最上階に住もう!」

 彼は以前、そんなことを言った。もし、それが実現したら、もうこんな風に彼の車を見送ることもなくなるのだろうか。かすかに聞こえる電車の音を聞きながら、目を閉じた。

***

「昨日、全然眠れなかったの? 目の下にクマができてるよ?」

 朝、彼は私のアパートに迎えに来るなり、心配そうな顔で言った。私が慌てて「お化粧直してくる!」と部屋に戻ろうとすると、「うそ! いつも通り可愛いよ!」と大声で笑った。いつもなら怒るところだが、今日は何も言わずに助手席に乗る。実際、緊張でほとんど眠れなかった。

「意外と度胸ないんだなぁ」
「そうよ。悪い?」
「大丈夫だよ。僕の両親は噛みついたりしないから」
「やめてって……」

 彼の冗談に笑う余裕がない私は、車の中で何度も深呼吸をする。それこそ、一杯くらいビールを飲みたい気分だった。
 20分ほどで彼の実家に到着し、玄関のドアを開けると、「まぁまぁ、いらっしゃい」と、彼の母親が笑顔で出迎える。

「初めまして。松井妙子と申します」

 私も笑顔でお辞儀をした。ここまで来たら、もう緊張だ何だと言っている場合ではない。とにかく笑顔だ。笑顔を向けられて、悪い印象を持つ人間はいない。土壇場で、そんな楽観的な心の余裕が生まれたことに安堵して顔を上げる。

 そして、凍り付いた。

 3秒前の母親の笑顔が、まるで見間違えだったんじゃないかと思うほど感情を失っている。恐怖で身動きが取れなくなった私は、このあとの展開を予想し、それが絶対に外れていないことを確信した。

「どうしたの? さぁ入って」

 彼の言葉で我に返り、重くなった足を必死に上げて中に入る。両親の前に座り、彼が「こちらは松井妙子さん。僕より2歳年上のあねさん女房だよ」と嬉しそうに私を紹介してくれたが、両親は表情を曇らせ、私の方には全く視線を向けない。歓迎されていないのは明らかだった。

「敏明、本当にいいの?」

 母親が沈黙を破る。

「今はいいかもしれないけど、将来的にやっぱりほしくなるかもしれないじゃない? その……子供をね?」

 そう言って母親は、ようやく私を見た。先ほどの感情を失っていた表情より、格段に憎悪がこもっている目が「あなた、どうしてここに来たの?」と言っている。

「母さん、それは前にも言ったじゃない! もう決めたんだ! まずは僕達2人の幸せが優先だよ。それに、いきなりそんな話をするなんて、ちょっとデリカシーに欠けるんじゃない?」

 彼が珍しく語気を荒げる。

「今は2人のことだけ考えてればいいのかもしれないけど、子供の話は避けて通れないわよ? 会社の人に『子供は?』って聞かれたらなんて言うの? まさか『妻は子供が産めない体だから、もう二度とその話はしないでくれ』なんて言うつもり?」

 私は素直に納得した。母親の言うことは至極しごく真っ当だ。私は自分の体と、敏明のことしか考えていなかった。私達が納得すれば、それで上手くいくものだと。しかし、結婚というものは、関わる人が増える。この先、その関わる人全てに自分の体のことを言わなければならないのかと思うと、自分が地獄へと続く入口に立たされているような気分になった。

「それは……」

 彼が言い淀んだ時点で、もうこの話の先に、私と彼が期待する展開はない。私はどのタイミングでこの場を去ろうかと、そのことばかりを考えていた。

 ――私は敏明とご両親を不幸にする。

 そう答えを出した私は立ち上がり、「失礼します」と玄関から飛び出した。逃げたかった。これ以上、惨めな自分を突き付けられることに耐えられなかった。

「妙子! 待って!」

 走って来た彼が私の腕を掴む。

「敏明、ごめんなさい……もういいの」
「僕が必ず説得するから! 大丈夫だから!」
「何が大丈夫なの?」
「え……?」

 そこで黙ってほしくなかった。嘘でもいいから「大丈夫だよ!」と言ってほしかった。

「本当にもういいの。ありがとう。別の人見つけて」

 彼の腕を振りほどいて走った。彼が何かを叫びながら追いかけて来たが、全く耳に入らなかった。それからどうやってアパートに帰って来たのか、よく覚えていない。熱いシャワーを浴びて、ベッドに倒れ込む。

 ――明日になれば、全て元通り。

 明日は早番だ。朝6時に起きて仕事に行き、そこにはいつもの同僚達がいる……いつもと変わらない日常がある。そうして今日の出来事は全てなかったことになる。なかったことにしよう。私はそう決めた。ただ、ブルブルと震える携帯電話がそれを許さない。私は敏明の番号を着信拒否にして目を閉じた。

 翌日、明け方に目が覚めて、そのまま職場に行くと、夜勤の新人が眠そうに「あれ? ずいぶん早いですねぇ」と、気の抜けた言葉をかけてきた。もう、それすら愛おしい。

「替わるわ。休憩してきて」

 そう言うと、新人は嬉しそうに休憩室へと走って行った。あまりにいつも通りで、昨日の出来事が本当に夢だったんじゃないかと錯覚する。そんな日常から、また昨日の続きに引っ張り込まれたのは、午後になってからだった。

「松井さん、お客様が来てますよー!」

 同僚の声に顔を上げると、敏明の父親がいた。この人の存在をすっかり忘れていた。昨日、終始ダンマリを決め込んだ父親が、一体何の用だろうか。私は感情と表情のスイッチを切り、休憩スペースで彼の父親と対峙した。

「すまん」

 いきなり頭を下げられた。そういうことか。この人は、私にとどめを刺しに来たんだ。謝るということが、どれだけ私を惨めにさせるのか、この人はきっと分かっていない。昨日の母親のように、はっきりと拒絶反応を示してくれた方が、よっぽど分かりやすくて、むしろ楽だ。結局、一番残酷なのは父親だった。

「もう、いいですから……」

 父親が期待しているであろうセリフを吐くと、待ってましたとばかりに父親は立ち上がる。去って行く、その清々しいとさえ思える背中を見ながら、私はボールペンを握りしめた。私に理性というものがもう少し欠けていたら、このボールペンをあの首筋に突き立てていたかもしれない。そのくらいのことをしても、今の私なら許されるとさえ思える。

 父親が去った後、私が最も顔を見たくない人物が来た。敏明を視界に入れないよう、同時に彼の視界に入らないようにスタッフステーションの奥に身を隠す。遭遇しないように細心の注意を払っていたが、彼は私の動きを読んでいた。

「妙子……」

 物品倉庫に行く途中、しかも角を曲がったところで待ち伏せされ、見事につかまった。

「とにかく話そう」
「――何を?」

 私が即答したのが意外だったのか、彼は「え?」と驚いた顔をした。待ち伏せまでして、「話そう」と言ったにもかかわらず、「何を?」と聞き返すと黙る。きっとこれが彼の限界なのだろう。

「お願い。ちゃんとした人を見つけて幸せになって。敏明なら、きっといい人が見つかるから」
「ちゃんとした人って何だよ!」

 頭に血が上ったのを自分で悟ったのか、彼は「ごめん」と謝った。その言葉に、今度は私の頭に血が上る。

「さっきあなたのお父様が来て、『すまん』って頭を下げて行ったわよ? 親子揃って同じこと言うのね」
「え……僕は何も聞いてないけど……」
「でしょうね」

 私は腹立たしさを通り越して、だんだんとこの状況がうっとうしくなってきた。彼には申し訳ないが、私の中では、昨日で全て終わっている。

「本当にいいのか? こんな終わり方で……」

 そのセリフが、私の中の、何かのスイッチを入れた。

「いいわけ……いいわけないでしょう!」

 自分でもびっくりするくらいの大声で叫び、きびすを返した。私は私なりに、必死で現状を受け入れようとしている、自分のためであり、何より、敏明のために。そのことを、なぜ目の前の男は分かってくれないのか。これ以上彼と話していると、私自身が本当に壊れてしまう気がした。
 薄暗くて長い廊下が出口のないトンネルのようで、怖くて全力で走る。

 ――あ!

 何かにぶつかる感触と、床に転がる人、点滴のパック。全てがスローモーションのように展開された。倒れた患者に駆け寄る人達を呆然と見つめながら、「やっぱり全部夢なんだ」と、私の中の誰かが言った。

「余計なこと言わなくていいから。とにかく、頭下げてればいいから」

 それが上司からの命令だった。「急患対応で慌てていた」というもっともらしい言い訳が効いたのか、患者の家族からそこまで厳しい言葉は出てこなかったが、重大事故であることに変わりはない。
 始末書、報告書、謝罪文……いくつかの文章を書き、最後に退職届を書いた。私をクビにしなかったのは、病院の最後の温情だろう。
 ロッカールームに行く途中の同僚の視線は、哀れみなのか軽蔑なのか、区別できなかった。痴話喧嘩の弾みで患者にぶつかり、転倒させたなんて、むしろ哀れだと思ってくれること自体、まだ救いようがあるのかもしれない。
 誰もいないロッカールームで、私は声を上げて泣いた。悔しいのか、悲しいのか、はたまた怒りなのか、泣きながらも、何で泣いているのか分からなかった。どんな理由であれ、いっそ体中の水分を使い切って、干からびて死んでしまえばいい。本気でそう思った。

 病院を出て、スーパーに寄り、惣菜とビールとウイスキーとつまみを買う。部屋に入って、ベッドに荷物を放り投げてビールを開けた。隣町の大学病院で働く友人の亜希子に「辞めた。今ビール飲んでる」と短いメールを送ると、「人手が足りないの。すぐに面接に来て。明日来て」と返信が来て、思わず笑う。いっそどこか遠くへ、私のことを全く知らない人達の中に身を置きたかったが、今の私に、引っ越しと転職の両方に費やすだけの気力はない。ここはおとなしく亜希子の厚意に甘えさせてもらおう。それに、亜希子が働く大学病院は、近隣では一番規模が大きいので、忙しく働けば気も紛れるかもしれない。
 亜希子には、敏明とのことを一通り話していた。結婚式のスピーチを頼もうと思っていた手前、その可能性がなくなったことを報告するのはさすがに気が引けたが、亜希子は「もう忘れなさいよ。無駄なことに脳のキャパを使わないように」と、あっさり言った。ただ、わざわざ「すまん」と頭を下げに来た敏明の父親の話に関しては「私だったら蹴っ飛ばしてるけどね」と付け加えてきて、やっぱり笑ってしまった。
 退職の手続きを終わらせ、みんなに形だけのお別れの挨拶をして、1週間後に大学病院に面接に行った。亜希子が「ほぼ採用確定だから安心して」と言っていた通り、面接はほとんど採用前提で話が進み、そろそろ終わりかと思ったところで、2人の面接官のうちの1人が「28歳って言うと、ねぇ? これからいろいろとライフスタイルの変化が起こると思いますが……」と、何とも回りくどい言い方をしたので、私は一切の感情を込めずに言い放った。

「私、結婚する気は全くありませんから。子供が産めない体なので、男が寄ってくることもないと思いますし」

 この時の2人の面接官の顔は傑作だった。「鳩が豆鉄砲を食ったよう」という言葉を辞書で引けば、きっとこの2人の顔が出てくるに違いない。

「あー……そうですか。ありがとうございました」

 ――別に礼を言われるようなことは言ってない。

 心の中でそう吐き捨てた。そんな、少しナメた態度で望んだ転職活動は無事に終わり、私は今までの全てを振り切るように働いた。今までの職場とは段違いの忙しさで、肉体も精神も酷使したが、それが心地よかった。自分の体を痛めつけることでしか、私は自分が生きていることを実感できなかった。
 子供が産めないから、何だと言うのだ。自分を惨めだと思うことも、欠陥品だと思うこともバカらしくなった。私は頭も体も、人の2倍、いや、3倍動く。その辺の奴よりも、むしろ優れている。
 開き直ったんじゃない。気付いただけ。
 いつもそうして、倒れそうな自分の体を支え、鼓舞していた。そうしないと倒れてしまうと、自分で分かっていたから。


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