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ノクターンによせて 第2話|連載小説

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 コミュニティセンターから出て、皆川さんからのメールを確認する。

『ゴメン。藤井ふじいさんの長話につかまっちゃって。2時過ぎでもいい?』

 ちょうど良かった。気持ちを落ち着ける時間が確保できる。私は「お疲れ様。こっちは全然大丈夫よ」と返信した。玄関の前で深呼吸をして、心の中で「ただいま」とリハーサルをする。

「ただいま」
「遅かったな」

 リビングで本を読んでいた夫と目が合う。時計を見ると、家を出てから1時間半も過ぎていた。ただ「遅かったな」と言われるほどとは思わない。

「昔読んだ本があって、懐かしくてちょっと読んでて」
「コンビニは?」

 私はドキリとして、思わず目をそらす。

「別に買うものがなかったから、いいかなって」
「そうか」
「あの……皆川さん、2時過ぎに来るって」

 夫が「分かった」と言うのと同時に、たまらず自分の部屋へと逃げた。ドアを閉めて、ふぅっと静かに息を吐く。この短時間で、一体いくつ嘘をついたんだろう。何もやましいことはしていないのに、なぜ嘘をつかなくてはいけないんだろう。夫に対して、急に申し訳ない気持ちになった。
 パソコンの電源を入れてメールをチェックすると、来月に合同発表会をする松永ピアノ教室の松永先生からプログラム編成の相談メールが来ていた。

「真理ちゃん、やっぱり『パイレーツ・オブ・カリビアン』のメドレーを弾くそうです。順番、どうしましょうか」

 発表会のプログラムを組むパターンは大きく分けて2つある。1つは演奏曲の難易度順で、もう1つが生徒の年齢順だ。去年は曲の難易度順がそのまま年齢順になってくれたおかげで、プログラムを組むのがとても楽だったが、今年はなかなか困ったことになった。
 真理ちゃん――奥田真理さんは高校2年生で、生徒の中では最年長であり、大学受験に備えるため、来月の発表会を最後にピアノ教室をやめる予定だ。かなりの腕前で、昨年はショパンのバラード第4番で見事にトリを飾ってもらい、今年もトリをやってもらうことになっている。本人も「最後だから、思い切ってスクリャービンのピアノソナタを弾く」と張り切っていたのだが、ある動画投稿サイトで「パイレーツ・オブ・カリビアン」の超絶技巧アレンジバージョンを見て、それを耳でコピーしてしまい、「これにします」と言ってきた。あまりの大転換に先生方は唖然としていたが、私は正直ホッとしていた。子供がメインの発表会でスクリャービンなどと言うハイレベルで玄人向けの曲を弾くのはどう考えても場違いだし、何よりスクリャービンのピアノソナタと私には浅からぬ因縁がある。別の教室の生徒が、忘れかけていたその因縁をピンポイントで引っ張り出したことに、少しうんざりしていた。
 とりあえず、松永先生には「去年と同じく、真理さんがトリでいいんじゃないでしょうか」とメールを送った。クラシックの曲が続いて、クラシック以外の曲でフィナーレというのは少しばかり違和感があるかもしれないが、ここは前回と同じく年齢順という安全策を取りたい。
 特別な事情がない限り、プログラム編成は運営側に一任されるが、親御さん達にとっては我が子の晴れ舞台なので、どんなにこちらが気を揉んでプログラムを組んでも、毎回必ず「なぜウチの子の順番があの子よりも前なんだ!」と文句を言われてしまう。ピアノの先生は、ピアノのことよりも、生徒やその向こうの親御さん達に常に気を遣わなくてはならない。

 今回のプログラム編成で、悩みの種がもう1つある。夫だ。全部で3部構成の発表会の、第2部の最後に弾いてもらう予定になっている。しかし、肝心の夫にその気があるのかどうか分からない。3週間前は、途中で何度か止まりながらも一通り最後まで弾けるようだが、まだまだ人前で弾ける完成度ではない。個人的な願望を言わせてもらえば、みっともない演奏をするくらいなら、潔く出演をキャンセルしてほしい。夫の演奏もまた、そのまま私の「レッスンりょく」として見られる。

 時計を見た瞬間、「ピンポーン」とインターホンが鳴った。玄関のドアを開けた瞬間、皆川さんが「ごめんねー! 遅くなって」と言い、高級そうな紙袋を差し出した。つい最近、近所にオープンしたフランス菓子の店「シェ・クローセ」の紙袋だ。私は「ありがたく頂きます」と、紙袋を両手で受け取る。「シェ・クローセ」はテレビのグルメ番組でも特集され、店内はいつも混雑していて人気があるようだが、とにかく値段が高いので、私は一度しか買ったことがない。

 皆川さんが夫に「どうもー!」と軽く挨拶すると、夫は本を置いて、「よう!」と右手を上げた。

 ――私の時は目も見ないくせに。

 そう思ったが、「彼女はお客さんなので当然か」と自分を納得させる。

「ピアノはどんな感じ?」
「ちょっと湿気にやられたかも。1月から除湿器切ってたから」

 皆川さんは肩まである髪を後ろで束ね、赤いエプロンを付けて「どれどれ」とピアノを弾く。スマートですらっと背が高い彼女がピアノを弾く姿は、私よりもずっと絵になる光景だ。学生時代はピアノに明け暮れて、アマチュアのピアノコンクールで本選に出場したと言うから、腕前はとっくに趣味の域を超えているに違いない。彼女に会うたびに「私よりもピアニストに相応しい」と思ってしまう。

「旦那さんは相変わらず?」

 彼女はピアノの外装を外しながら言った。何のことか、もちろん分かっている。

「うん。本ばっかり読んでる」
「そうかー。もったいないなぁ」
「でも、発表会は出るみたい。弾くのか弾かないのか、はっきりしてくれないと……」
「悩むな悩むな! 『ピアノ弾かないなら離婚するぞ!』って言ってやれ!」
「それで『離婚する』って言われたらどうするの?」
「知らない」

 2人で大笑いした。

 皆川さんに調律をお願いするようになったのは1年前。私より7歳も年上だが、不思議と気が合い、時々一緒に食事したり、出かけたりしている。夫がピアノが弾かないことも散々愚痴った。

 3年前に結婚した時、夫はピアノを弾く人ではなかったが、あるテレビドラマの中で主人公が弾いていたピアノ曲がとても気に入り、毎日私に「弾いて弾いて!」とせがんだ。私が弾くたびに、夫は「カッコいいなぁ」と言うので、軽い気持ちで「弾いてみれば? 教えるよ?」と言うと、意外にも夫は「やる。この曲だけでいいんだ」と、決意に満ちた表情で言った。
 夫のやる気は凄まじいもので、まずは音符に全てドレミを振り、右手パートを暗譜するまで弾き、次は左手だけで、やはり暗譜するまで弾く。それからは、ひたすら両手で弾く。これを3か月、1日も欠かすことなく続けた。弾くことに集中してもらうため、教える上で最も難しい「脱力」に関してはほとんど言わなかったが、それでも4か月ほどで一通り全体を通して弾けるようになった夫には、間違いなくピアノの才能とセンスがあったと言える。自分の音をちゃんと自分の耳で聞くと言う基本中の基本が最初からできていたし、ダンパーペダルに関しては「音が濁らないように、低音で踏みかえて」としか言っていないのに、1週間もしないうちにペダルのべた踏みをやめて、ハーフペダルをやっているのを見た時には、「本当はピアノ経験者じゃないだろうか」と疑ったほどだ。
「1曲で終わらせてしまうのはもったいない」と思っていた時、夫は「次はこれ弾きたい」と、映画「ニューシネマパラダイス」のテーマ曲の楽譜を持ってきた。ニューシネマパラダイスは1988年のイタリアの映画で、見たことはないが、テーマ曲は有名なので知っている。

「ショッピングモールのストリートピアノで、これを作業服で弾いてる人がいてさ。カッコいいなーと思って」

 珍しく興奮気味に話す夫に「これ、難しいよ?」と言うと、真面目な顔で「今の俺なら弾ける気がする」と言うので、思わず笑ってしまった。

「美千代は教え方が上手いから、きっと弾けるよ。ピアノの先生、やってみれば?」

 それまで、一切考えたことがなかった「ピアノの先生」というのを真剣に考え出したのは、夫からのこの一言があったからだ。

 それから2年、ピアノは夫婦生活の中心になり、夫は仕事と睡眠時間以外のほとんどをピアノに費やし、イージーリスニング系を中心に、着実にレパートリーを増やしていった。そしてついに「ドビュッシーが弾きたい」と、目標をクラシックに定めたところだった。

 ここで私は余計なことをした。
 3週間前、以前所属していた社会人のピアノサークルの発表会が東京の音楽ホールで開催されることになり、夫のさらなるモチベーションアップのためと思い、発表会に連れて行った。そのサークルには、小さい頃からずっとピアノを続けている人、ブランクが20年もある人、50歳から始めた人などがいて、総じてレベルが高い発表会だった。

「また戻って来なよ。今度は旦那さんも一緒に」

 発表会後、サークルの主宰者にそう言われ、みんなに夫を紹介しようとした時、もう夫の姿はなかった。エントランスホールの自動ドアから外へ出る夫の後姿を慌てて追いかけ、「どうしたの? 急用?」と声をかけたが、無反応だった。そして、夫は帰宅するまで全く口を開かず、その日以来、夫がピアノを弾くことはなくなり、夫の生活の中心は本になってしまった。どうしていいのか分からなかった。ピアノを弾く人の手助けはできても、弾かない人の手助けはできない。

 皆川さんが本格的な調律作業に入り、私は「終わったら声かけてね」と言って自分の部屋に戻った。松永先生に「発表会、夫はキャンセルします」と伝えよう。おそらく、夫がピアノを弾くことはもうない。期待するだけ無駄に神経がすり減るだけだし、どうせ夫に「発表会、キャンセル扱いにするよ」と言っても、本を読みながら「ああ」とから返事をするに決まっている。何だかバカバカしくなってきた。

***

「さすが」
「大事に使ってるから、調律も楽だったわ。この前、プレイエルが置いてあるお宅に行ったんだけど、もうガタガタで全然ダメ。見栄を張って海外製のピアノを買ってもロクなことがないわね」
「海外製のピアノなんて、怖くて置けないわよ」

 YAMAHAやKAWAIなどの国内製ピアノが主流だった昔と比べて、今は一般家庭でもスタインウェイやベヒシュタインなどの海外製を買う人が増えている。ただ、残念ながら高温多湿の日本には向かない。ベーゼンドルファーのグランドピアノを買った友人は、ピアノ部屋の室温を20℃、湿度を50%に保つため、エアコンと除湿器を24時間365日フル稼働させ、電気代で破産しそうだと言っていた。その点、やはり国内製は頑丈で優秀だ。

 生き返ったピアノを弾いていると、皆川さんは突然「あー! そうだそうだ!」と叫び、バッグからA4のパンフレットを取り出した。

「明日の夜、これ行かない?」

 パンフレットに印刷されている顔と名前を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。

 ――深町ふかまちみのるのピアノライブ。

『最近のヒットナンバー、ジャズのスタンダードナンバー、映画音楽、ドラマ主題歌、さらに童謡やクラシックなど、即興演奏を織り交ぜてそしてお送りします。ライブ中にリクエストも受付けます』

「最近ちょくちょくテレビとかラジオに出てるみたいよ」
「へぇ、そうなんだ」
「あれ? どうかした?」

 私の全く気持ちが入ってない反応に、さすがに変だと思ったのか、彼女は調律の手を止めた。

「私、さっきこの人に会った……」
「え? どこで?」
「コミュニティセンター、多目的室……」

 頭の中が情報過多で、それ以上の説明ができない。それに気付いたのか、彼女は「あー、そうなの。なるほどねぇ」と言いながら、何度も頷いた。彼女がどんな想像をしながら頷いているのかは想像できたので、「違う」と言いそうになったが、あえて口には出さないことにした。

「どんな人だった?」
「すっごくハンサムで、すっごく性格悪い」
「ちょっと! それ最高! これで旦那に離婚されてもオッケーじゃない?」
「なんでそうなるのかな……」

 彼女は大真面目な顔で「どうする?」と聞いてきたので、「ちょっと考えさせて」と言った。

「行こうよー! で、ライブのあとに駅前にオープンした焼き鳥屋さんに行こう!」
「皆川さん、オヤジだなぁ」
「いいのいいの! 焼き鳥とビールで乾杯!」

 いい気分転換になると思い、「行きまーす!」と言った。彼女は「絶対よ?」と念を押し、玄関のドアを閉めた。その瞬間、怒りと恥ずかしさで体中が熱くなる。

 ――まさか、ピアニストだったなんて。

 完全に反則だ。自分の部屋に戻り、椅子に座って全身の力を抜いて「あー……」と軽く悲鳴を上げる。ほんの数時間前までの、深町との会話を必死に思い出す。何か失礼なことを言ってないだろうか。いや、かなり言った気がする。

 ――明日、謝りに行こう。

 また夫に嘘をつかなければならないことに、少しだけ罪悪感を覚えたが、それもほんの数秒で消えてしまった。


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