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ノクターンによせて 第5話(最終話)|連載小説

【第4話はこちら】

 帰宅すると、夫が機械の図面や電気配線図などを見ながらウンウンと唸っていた。口に出しては言わないが、どうやらまだトラブルが解決していないらしい。私は夫の隣に座り、さっき買ったチョコレートの大袋を出して、「食べる?」と言った。

「なんだ? どうした?」

 夫は目をまん丸くしてチョコレートに手を伸ばす。

「生徒さん達にあげようと思って。お菓子で釣る作戦」
「何だそりゃ。今の子供達がチョコレートに釣られるとは思えないけどなぁ」

 夫は苦笑いしながら、再び図面に視線を移した。私は夫の真似をして、1ミリも理解できない図面を見る。

「ねぇ。浩介っていろんな資格、持ってるでしょ?」
「まぁ、自慢じゃないけど、たくさん持ってるよ」
「それって、やっぱり資格がないと、やっちゃいけない仕事だからでしょ?」
「そりゃそうだ。造る方も使う方も、下手すりゃ人が死ぬわけだから」

『下手をすれば命を落とすような仕事をしているから、専門的な知識と技能と訓練が必要』

 残念ながらピアニストとピアノの先生には、ここまでの説得力はない。自分が目指していたもの、なりたかったものが、急に薄っぺらく思えてきた。

「どうしたの? 突然」
「知り合いにね、『ピアニストになるのに資格や許可は要らない』って言われて、なんかこう、モヤモヤっとしてるの」
「そりゃ屁理屈だな。ピアニストもピアノの先生も、誰もがそう簡単になれるもんじゃないってことくらい、普通に考えれば分かることだ」
「だよね。やっぱりそうだよね」

 私が期待していた答えをくれて、ホッとした。私からすれば夫も十分理屈っぽい人間だが、こうして屁理屈を一蹴してくれることに頼もしさを感じる。頭の中で深町の顔を思い浮かべ、「だそうです」とほくそ笑んだ。

「そうだ。夜、皆川さんとこの人のライブに行くから、早めに夕飯作るね」

 夫に深町のライブのパンフレットを見せると、夫はパンフレットをまじまじと見た。

「あれ? この人最近よくテレビに出てるな。ジャズ弾いてた」
「有名なの?」
「さぁ、どこまでが無名で、どこからが有名なのか、分からないよ」

 やっぱり夫らしい言い回しに、笑いをこらえながら「そうね」と返した。

「あ、ライブのあと、皆川さんと駅前の焼き鳥屋さんに行くから」
「2人とも、新橋のサラリーマンかよ」
「たまにはいいの」

 そう言ってキッチンで夕飯の支度を始めた。

 ライブ会場は駅前のビルの1階だった。元々は観光案内所が入っていたが、市が音楽スタジオに改装して、小規模な発表会やライブが出来るようになっている。私も皆川さんも来るのは初めてだった。
 パイプ椅子が100脚ほど並べられたスタジオ内で、私と皆川さんは前から3列目の左端、演奏者の手が良く見える席を陣取る。私は早速、正面の小高いステージに置いてあるグランドピアノをチェックした。

「ちょっと皆川さん! Shigeru Kawaiのセミコンだよ!」

 私は興奮して客席の皆川さんに叫ぶ。小走りに来た皆川さんは「贅沢ねぇ。小ホールに置けばいいのに」と言いながら顔をしかめた。市内の音楽ホールやスタジオにShigeru Kawaiのピアノが置いてあるという話は聞いたことがない。わざわざ買ったとしたら、確かに贅沢ではあるが、なかなかいい買い物だ。小規模なピアノ発表会の会場候補にしよう。
 ステージの袖を見ると、スタッフが忙しそうに動き回っているのが見えた。深町の姿がないかと目を凝らしたが、スタッフと目が合って慌てて席へと戻る。

 開園時間になり、ライブは突然始まった。客席の照明が消え、グランドピアノにスポットライトが当たり、下手から深町が早足で登場した。黒い長袖のシャツに黒いズボンの彼は一直線にグランドピアノに向かい、弾き始めた。
 エロル・ガーナーの「Misty」、ビル・エヴァンスの「Waltz For Debby」を弾き終えたあと、彼はマイクを手にして自己紹介や近況などを話し始めた。

「僕は師匠と一緒にアメリカのモンタナ州に住んでいて、実は日本での活動を始めたのはつい最近なんです。ありがたいことに、テレビやラジオにも出させて頂いて。皆さん、ラッキーですよ? もし僕が有名になったら、無名時代の僕のライブに行ったって自慢できますからね」

 客席から笑いが起きたが、私は笑えなかった。ゆっくりした喋り方、低く落ち着いた声のトーン、柔和な表情、おまけに冗談と、コミュニティセンターで話していた時とは完全に別人で、よくここまでキャラを演じ分けられるものだと感心する。ただ、ほんの数時間前に話していたのが「素」の深町だと思うと、その姿を知っている私にはちょっとだけ優越感があった。

「お客さんの中で、ピアノを弾く人いますか?」

 何人かの手が挙がる。迷ったが、私は手を挙げなかった。あまり目立つことをしたくない。

「あー、ピアノを弾く人がいるんじゃ、普通に弾いてもつまらないですよね。リクエストありますか?」

 彼が客席に向かって呼びかけると、アニメの主題歌、ドラマや映画音楽、最近のポップスや演歌など、完全にジャンルを超えた曲名が客席から飛び交った。

「あーはいはい! みなさん落ち着いて! そうですねぇ、せっかくだし、全てお応えしましょう!」

 客席から大きな拍手が沸き起こる。

 そのあと、「Fly Me To The Moon」、「Take The A Train」、「The Girl From Ipanema」などのスタンダードナンバーを弾きながら、曲中にアニメや映画音楽、CMの音楽、最近のポップスや演歌などを巧妙に織り交ぜ、綺麗にまとめたメドレーで弾く。

 圧倒された。ピアニスト、深町実の姿をまざまざと見せつけられたようで、嫉妬も憧れも通り越し、尊敬する気持ちすら芽生えてくる。
 それと同時に、許せなかった。

 ――ピアニストになるのに、資格や許可は必要ない。
 ――右手と左手と、もう1つの何か。

 私にあんな問題を投げかけて、自分は楽しそうにピアノを弾いている。もしかしたら、彼はとっくに「3つ目」を見つけているのではないかと思った。その上で、私の反応を見て面白がっていた……。そう疑いたくなる。
 ライブが終盤に差し掛かり、彼が再び客席に「はい、リクエストどうぞ!」と呼びかけた。

「ショパンのノクターン!」

 他の客よりもひと際大きな声で叫ぶと、彼と目が合った。考えたわけではない。自然にそう叫んでいた。そのあとも客席からあれやこれやと曲名が飛ぶ中、彼は手でそれを制した。

「えーと、今、ショパンの『ノクターン』っていうリクエストが出ました。僕は大学3年までクラシックを弾いてたんですよ。それで、今の師匠、近藤宏隆さんと出会ってジャズに転向したんです。近藤さんも元々はクラシックを弾いてたらしいんですが、とにかく先生が厳しくて、ピアノが怖くなって、もう弾きたくないって思った時、父親が持っていたジャズのレコードを聞いて、好きなように弾けるジャズに憧れて、ジャズを弾くようになったみたいですね」

 彼は少し間を置いた。

「近藤さんはほとんどクラシックは弾かないんだけど、ショパンのノクターンの8番だけはちょくちょく弾いてたんだよね。どうしてもジャズっぽくなると言うか、スタッカート気味で跳ねちゃうんだけど、僕は近藤さんが弾くノクターンの8番が好きで、よく『弾いて弾いて!』ってせがんでた。そのたびに『自分で弾けよ!』って文句を言いながらも、嬉しそうに弾くの。そんな近藤さんの姿を見るのが、僕は好きでねぇ」

 ――敬語が消えてる。

 自分に言い聞かせるような言い方だった。近藤さんの病気のことを言わなかったのは、彼なりの配慮だろうか。

「あ、長々と喋っちゃいましたね。では、ショパンのノクターン8番、聞いてください」

 ジャズの気配が全くない、完全にクラシックを弾く人のノクターンで、まるで、今日のこの場で弾くために練習していたとさえ思えるような演奏だった。ふいに、コミュニティセンター、多目的室の二重扉の中で聞いたノクターンの8番を思い出した。あの弾き方はきっと、近藤の真似をしたんだろう。改めて、凄い偶然に居合わせたものだと驚いた。

 ライブのあと、彼はお客さんに囲まれて、色紙にサインをしたり、一緒に写真を撮ったりしている。

「ねぇ、サインもらおうよ」

 皆川さんに袖を引っ張られた私は「いい。遠慮する」と言った。皆川さんはパンフレットにサインをもらい、満面の笑みで戻って来ると、「ちょっとトイレ行ってくるね」と言った。皆川さんの姿が見えなくなったのを見計らい、彼に近づく。

「来ないと思ってたよ」
「何でですか?」
「その、さっきの、ね」

 珍しく歯切れの悪い言い方をする。少しだけ優位に立ったような気がした。

「もしかして、コミュニティセンターでのこと、気にしてたんですか?」
「まぁ、ちょっとね。ちょっと」
「意外ですね、私は全然気にしてませんでしたけど」

 ここぞとばかりに嫌味を言った。まぁ、私だって全く気にしていなかったわけではない。

「あの……右手と左手と、もう1つ。結局、何だと思いますか?」

 彼は天井を仰いだ。

「ノクターン……」
「はい?」
「先生があの時『ショパンのノクターン』って叫ばなかったら、僕はさっきのライブでクラシックは弾かなかったと思う。近藤さんの、あのエピソードも話さなかったよ」

 視線を天井から私に移す。

「そう言うことじゃない? ただやみくもに探すより、あとになって『もしかしたら、あれだったのかな?』って気付くような。それもアリだと思うんだけどね」

 相変わらず「こう言えばああ言う」みたいな感じで煙に巻かれた感じはするが、確かにそれも「アリ」だと思えた。必死に探しても、そう簡単に見つかるようなものじゃないことは、私なりに理解している。

「旦那さんは来てるの?」
「来てません。パンフレットを見せても無反応でした。夫はあなたに興味がないようです」
「でも、先生は僕に興味があるわけだ」
「ええ、もちろん興味ありますよ。だからサインください」

 彼の軽口をスルーし、私はパンフレットを差し出した。

「えーと、名前なんだっけ?」
「香月です。香月美千代」

 彼はパンフレットに「メガネが似合う香月先生へ」と書いた。

「コンタクトにしたら? その方がいいと思うよ?」
「夫はメガネの方がいいって言ってます」
「あ、そう。このパンフレット、旦那さんが破り捨てたりして」
「夫はそんなことしません」

 私はひったくるように彼からパンフレットを取り上げた。

「とりあえず、私の『3つ目』は、夫にピアノを再開させることですかね」

 私がそう言うと、彼は右手を差し出し、「きっと再開するよ。断言する」と言った。私は熱を持った彼の手を――ピアニストの手をしっかり握る。見た感じは細くて白魚のような指だが、力強い。少しだけ夫の手と似ていると思ったのを「勘違いだ」と自分の胸に言い聞かせる。

「アメリカにはいつ帰るんですか?」
「あと2、3回ライブやったら帰るよ。近藤さんの様子が気になるし、モンタナの景色が恋しくなってきたからね」

 彼の右手から力が抜けた。

「モンタナって、近藤さんが影響を受けたピアニストの故郷なんですよね?」
「そうそう。近藤さんは若い頃、ジョージ・アッカーマンってピアニストに憧れて、日本からモンタナのジョージの自宅に押しかけたんだってさ。もう、めちゃくちゃだよね」

 彼は「ははは!」と声を上げて笑った。本当に、彼は近藤のことが好きなのだ。

「モンタナ……どんなところですか?」
「いいところだよ。先生、遊びに来てよ」
「まぁ、機会があれば」

 あまりにも分かりやすい社交辞令に、彼はフッと笑い、「機会があれば、か」と頷いた。

「さてー、片付けて帰りますかー。これ以上、先生ののろけ話を聞かされたくないし」

 彼は私にくるりと背中を向け、大きく伸びをしながらステージへと歩き出す。遠ざかって行く背中に「お疲れ様でしたー」と声をかけると、振り向くことなく左手をすっと上げ、ステージ袖へと消えて行った。

「ごめーん! 看護師やってる友達が過労でダウンしたらしくて、ちょっと様子見に行って来るわ」

 振り向くと、スマートフォンを持った皆川さんがいた。

「すぐに行ってあげて。焼き鳥とビールはまた今度ね」

 彼女は「ホントにごめんねー」と言いながら、出入口に走って行った。
 観客のほとんどがいなくなり、スタッフが慌ただしく片付けを始めている。もう一度ステージを見ると、Shigeru Kawaiのピアノが袖口へと運ばれているところだった。彼が次に日本に戻って来るのはいつだろう。また会えるのだろうか。そんなことを考えながら、帰路についた。

 帰宅すると、ピアノの音が聞こえた。驚いてノックをせずにピアノ部屋に飛び込むと、夫がピアノを弾いていた。

「おかえり。あれ? 焼き鳥は?」
「そんなのいいから。こんな時間に練習?」
「発表会、近いからね。だいぶサボったから、指が全然動かないよ」

 いけしゃあしゃあと言う夫に、私がどれほどやきもきしたかをぶちまけたい衝動に駆られたが、必死にこらえた。

 譜面立てには、来月の発表会で弾く曲の楽譜が置かれている。

「レッスン、頼むよ」
「覚悟してね? みっともない演奏したら許さないから」
「ええ? 生徒に対して、そういう追い込み方するの?」
「次からはそうします」

 私は夫の両肩を「バン!」と叩き、「はい、頭から弾いてみて」と言うと、夫は「はい!」と返事をした。

 私が「今からピアニストを目指したい」と言ったら、夫はどういう顔をするだろうか。考えるだけで顔がニヤついた。

(了)


「ノクターンによせて」、お読み頂き、ありがとうございました。
モンタナ州は、2023年6月4日に亡くなった作曲家、ピアニストであるジョージ・ウィンストンの故郷です。


最初から読む。


ほんの少しですが、「シネマのように」と重なる部分があります。
「シネマのように」も読んで頂けると嬉しいです。

ありがとうございます!(・∀・) 大切に使わせて頂きます!