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シネマのように 第3話|連載小説

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 カーテンの隙間から、うっすらと月明かりが差し込んでいる。空が漆黒から群青へと変わっているのを見ると、おそらく朝の5時前だろう。使い方に困る時間帯だ。二度寝すると遅刻するし、特に何かをやろうという気にもならない。40という年齢に近づくにつれ、眠りが浅くなってきた。ここ最近、熟睡というものから見放されている。
 窓から外を見ると、車通りも人通りもないのに、信号機がしっかり仕事をしていた。歩行者信号の青が点滅し、赤になるのをしばらく眺める。
 4年前、広めの1LDKのマンションに引っ越した。再開発で更地になった場所に、ポツンと建った6階建てのマンションで、区画整理が追い付かず、入居した時は住所の町名や地番がまだ仮のものだった。
 あれから周りに低層階のアパートや住宅、コンビニなどができたが、最上階からの眺望を遮るものは何もなく、無駄に朝早く目が覚めてしまった時は、こうしてぼうっと窓から外を眺めて時間をやり過ごすのが意外と気に入っている。少しずつ太陽が昇り、犬の散歩やジョギングをする人がどこかから出て来て、道路に車が走る。この光景は、自分がまだこの世界の一員として存在している――存在していいんだ、と自覚できた。そんなことを考えながら、道路が混雑する前に仕事に行く。

 外来患者用の処置室に行くと、鬼のような形相で、顔をあさっての方向に向けている男性がいた。猫に左手を噛まれ、一晩中痛みに苦しんで、朝一番に病院に飛び込んできたらしい。医師が男性の左手に血を抜くためのチューブを通す穴を空けているところだった。動物に噛まれると、大抵こうなる。以前にも、猫に噛まれた人が救急搬送されてきた。この男性は、むしろよく一晩我慢したと思う。
 男性は包帯でぐるぐる巻きになった左手に「ふー、ふー」と大げさに息を吹きかけながら、「あ、猫を虐待してたわけじゃないですよ? 野良猫の写真を撮ってただけです。機嫌が悪かったんでしょうね」と、聞いてもいない言い訳を真剣な顔つきで言うので、私は「ああ、そうなんですか」と返した。別にこの人が猫を虐待しようが何だろうが、興味はない。ただ、あの左手では日常生活はもとより、仕事もままならないだろう。その点は同情する。しかし、男性はあまりにも予想外なことを口にした。

「しばらくピアノは弾けないな」

 ――ピアノ?

 私は男の顔をまじまじと見た。私よりもちょっと年下だろうか。髪は短く、顔は舞台役者のようで、ハンサムと言えばハンサムだ。ただ、作業服姿で、筋骨がしっかりした体つきは、およそピアノを弾く人物像からはかけ離れている。勝手なイメージだと言われようと、偏見だと言われようと、ピアノを弾く人は、もっとこう、ひょろっとしてて、神経質そうな人が弾く楽器だ。

「ピアノ、弾くんですか?」
「まぁ、趣味で」
「へぇ……」

 音楽にもピアノにも興味はないが、純粋な興味で、この男性がピアノを弾いている姿を見てみたいと思った。もちろん、そんな個人的なことをここで口にはできない。

「今は我慢した方がいいですよ? ちゃんと治さずに、余計に悪化させちゃう人、結構いますから」
「そうですね。しばらくは右手だけで練習します」

 なるほど。ピアノ自体を休む気はないらしい。何の仕事をしているか知らないが、まずは仕事や日常生活に支障が出ないかを心配するべきではないかと、説教くさい言葉を思い浮かべる。

「お大事に」

 私の言葉に、男性は怪我をしている左手を上げて「どうも」と言った。言ったそばから左手を上げる男性に、本気で治す気があるのか疑問に思いつつ、カルテの「石崎」の名前を見て、処置室を出た。
 自分では、ちょっとやそっとのことでは動じないと思っていたのに、さすがにこの男性には驚いた。「人は見かけによらない」、そんな一言で片付けられないほど、私にとってなかなかに衝撃的だったが、すぐにそんなことに頭のキャパをいていられないほど、嵐のような業務量が降って来た。

 数日後の夜勤明け、近くのショッピングモールの食料品売場に行くと、どこからかピアノの音が聞こえてきた。館内放送ではない。私が大嫌いなストリートピアノというやつだ。

 ――ついにここに置かれたか。

 うんざりする。ストリートピアノは海外発祥らしいが、こんなものを日本で流行らせた奴の気が知れない。ピアノなんて、学校の音楽室か、コンサートホールにでも収まっていればいい。夜勤明けなんて、ただでさえ頭がぼうっとしているのに、そこに耳から無理やりピアノの音を放り込まれるのは苦痛だ。望まないピアノの音なんて、雑音以外の何ものでもない。インフォメーションセンターに行って、「ピアノがうるさい。撤去しろ」と苦情を言ってやろうかと、本気で考えた。
 いつもは子供がガンガン叩いて、ピアノを別のおもちゃに変えるのだが、なぜか今日はちゃんとした「曲」が流れていた。帰り際、一体どんな奴が弾いているのだろうと、チラッとピアノの方に目をやると、人だかりができている。ピアノの上手下手は分からないが、人に聞かせる腕は持っているようだ。
 人と人の間から、その姿が見えた瞬間、思わず足が止まった。あの作業服に見覚えがある。猫に噛まれて来院した石崎だ。

 ――本当にピアノ弾く人だったんだ。

 一瞬だけ感心したが、すぐに呆れた。左手には、しっかりと包帯が巻かれている。どれほどピアノが好きで、どれほどの腕前かは知らないが、怪我の具合からして、とてもピアノが弾けるような状態ではないはずだ。それに「右手だけで練習します」と言ったのも覚えている。もちろん、守る気がないことは、想像がついていたが。

 石崎が演奏を終えると、周りの人達が拍手をした。上機嫌で拍手を浴びる石崎と目が合う。

「あ、どうもどうも」

 石崎は左手をひょいっと上げ、こちらに歩いて来た。

「何やってるんですか? そんな手で」
「やっぱり包帯をしたままだと弾きづらいですねぇ。いつもはもっと上手く弾けるんですよ?」
「そういうことを言ってるんじゃありません」

 私は石崎の左手の手首をそっと掴み、怪我の具合を目で確認した。まだ血を抜くためのチューブが通してある。普通なら、手首や指を動かすだけでも痛いはずだ。

「痛み止めが効いてるんで、ちょっとだけ弾こうと思いまして。まぁ、リハビリってやつですよ」
「痛み止めの使い方が間違ってるし、リハビリの意味も違いますから……」

 リハビリの正しい意味を懇切丁寧に、嫌味ったらしく説明してやろうかと思ったが、すぐにそんな労力を使うことのばかばかしさに気付いてやめた。
 どいつもこいつも、病気や怪我は医者が当たり前に治してくれると思っている。自分で治す努力なんてしないくせに、治らないと、やれ「ヤブ医者」だの、やれ「医療ミス」だのと文句を言う。
 前に、左膝の靱帯部分断裂の患者が松葉杖をつきながら「遊びに行きたいから、痛み止めだけ大量によこせ」と言い、それを拒否した医師に暴言を吐いたことがあった。この男も似た類だろうか。何もしなくていいから、とにかくおとなしくしてろと、声を大にして言いたい。

「なるべく左手は動かさないようにしてください。一生ピアノ弾けなくなっても知りませんよ?」
「すみません……」

 まるで小学生みたいにシュンとなるものだから、さすがに言い過ぎたと思い、強引に話題を変える。

「ピアノ、お上手ですね、さっきの、なんて曲ですか?」
「ニューシネマパラダイス、愛のテーマ。エンニオ・モリコーネ。この曲、好きなんですよ」

 聞きなれない単語がいくつも飛び出してきて、何ひとつ聞き取れなかった。音楽に疎い私が音楽の話を振るべきではなかったと後悔する。

「ピアノは小さい頃から?」
「小さい頃はエレクトーンをやってたんですが、ショパンが弾きたくてピアノに転向しました。でも、ショパンどころかクラシック、1曲も弾けませんけどね。ゲーム音楽とか、映画音楽とか、みんな知ってる曲を弾いてる方が楽しくて」

 ショパンの曲がどれほど難しいのか分からないが、大人になってもピアノを続けていること、例え怪我をしていても弾いてしまうその心意気に、少しだけ尊敬の念を抱く。私は4歳くらいの時に、習いたいと言った覚えもないのにピアノ教室に通わされ、何ひとつ楽しくないままやめた。大体みんな似たようなものだと思う。中学生の頃、校内の合唱コンクールで伴奏させるため、クラスにはピアノが弾ける生徒が必ず1人はいた。その生徒も、取り立ててピアノが好きとは言っていなかった気がする。

「いい趣味ですね。羨ましいです」

 本音を言った。私には、そんな風に打ち込めるものがない。

「趣味、ないんですか?」
「ええ、特には」
「趣味がないって……つまらなくないですか? 何かこう……わくわくすること、見つけましょうよ。音楽とか、映画とか、写真とか、旅行とか、読書とか。あー動物なんてどうです? 猫を飼うとか」

 私は社交辞令で「考えておきます」と返した。趣味を見つけるにしても、ほとんど見ず知らずの人に勧められたものに飛びつく気はないし、今言ったのは、きっと石崎の趣味だろう。

「もしかして、夜勤明けですか?」
「ええ、まぁ」
「そんな顔してますよ。俺も夜勤明けです。交替制の仕事って大変ですよね。人間って昼間に動いて、夜に寝る生き物だって痛感します」

 趣味の話が通じないと思ったのか、石崎から話題を変えてきた。ちょうどいい。前々から仕事の話を聞こうと思っていたところだ。

「お仕事は何を?」
「近くの工業団地ですよ。半導体の大きな製造工場で、もう忙しくて目が回りそうです」
「左手がそんな状態だったら大変でしょう?」
「いえ、ピアノが弾けない方が大変です」

 何のためらいもなく「仕事よりピアノ」と言い切ったことに、私は若干のイラつきを覚えた。仕事以外に何もない自分への当て付けかと、被害妄想のような感情がふつふつと湧き上がるのを必死で抑える。ここはとっとと会話を切り上げた方がよさそうだ。

「化膿止め、ちゃんと飲んでますか?」
「もちろん」
「化膿止めがなくなったら病院に来てくださいね? それと、手の中に通してあるチューブ、絶対に自分で抜かないように」
「了解です」
「とにかく、早く治したかったらピアノは控えた方が、いや、今は我慢した方でいいですよ?」
「分かりました」
「本当に分かってます?」

 石崎はニッコリと笑い、右手の親指を立て、「すみません。お引き留めしてしまって」と頭を下げた。その気味悪いくらいの笑顔に、私は心の中で首を傾げた。悪い人ではなさそうだが、どうにも調子が狂う。
 帰って来てシャワーを浴びている時、急に「シネマパラダイス」という単語が頭に浮かんだ。石崎がピアノで弾いていた曲名の一部で、私が唯一聞き取れた単語だ。惣菜を電子レンジに放り込み、パソコンの検索欄に「シネマパラダイス」と入力すると「ニュー・シネマ・パラダイス」という古い映画の情報がヒットした。

『ニュー・シネマ・パラダイス』

 1988年のイタリア映画。監督はジュゼッペ・トルナトーレ。出演はフィリップ・ノワレ、ジャック・ペラン、サルヴァトーレ・カシオ。音楽はエンニオ・モリコーネ……。

 そこまで読んで、自分には全く興味が持てないと分かった。ただ、楽曲は有名なようで、オーケストラやピアノ演奏の動画がたくさん出てきた。ほとんど反射的に、ピアノの動画を再生する。
 電子レンジから総菜を取り出し、朝食なのか昼食なのか分からない食事をしながら映画のあらすじを読む。

『ローマに住んでいる映画監督、サルヴァトーレの元に、長年離れていた故郷の母親から1本の電話が入る。それは、サルヴァトーレが少年時代に通った映画館「パラダイス座」の映写技師であり、恩師でもあるアルフレードの訃報だった。サルヴァトーレは第二次世界大戦終結から間もない頃、自身が「トト」と呼ばれ、シチリア島の田舎の村で、母と妹と暮らしていた少年時代に思いを馳せる』

 あらすじを読んでも、やはり見たいとは思わない。映画なんて、もう10年以上見てないし、これからも見ることはないだろう。私はパソコンの画面を閉じた。この時点で、映画と音楽が趣味になる可能性はなくなった。

 ――つまらなくないですか?

 石崎に言われたことに、今さらながら腹が立ってきて、心の中で「大きなお世話だ」と毒づく。趣味がないからといって、「つまらない」と決めつけられては困る。それに、私の人生がお世辞にも面白いと言えないことは、私自身が一番分かっている。他人に言われる筋合いはない。

 すっかり自分のペースが乱されたせいで、急に眠気が襲ってきた。そのままベッドに倒れ込む。久々によく眠れそうだ。


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