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もてなしだけではもう食えない -ホテル経営学の本質と実践-

宿泊業のシステム開発のお手伝いをしているので業界研究の1つとして購入した。経営のプラクティスやノウハウを小説風に物語として学べるように書かれている。その是非は読者にとって様々だろうが、多くの人に読んでもらいやすいように創意工夫している姿勢そのものは評価されるものだと思う。私自身、最初の1-2章は登場人物の背景や設定の理解など、なまじリアリティがある分、こんな仕事できそうにない人が改革プロジェクトのリーダーに抜擢されるわけないなぁとか思いながら読んでいた。一方で読み進めているうちに物語として書いている効果が表れてきて、内容に関心があるかどうかとは別の軸で最終的にこの物語がどういう結末に至るのかが気になるという動機が出てきた。私の場合、半分ほど読んでから一気に読み進めた。悔しいが、著者の戦略にはまってしまい、読み終えた後はよい本だったと思うので本稿にまとめておく。

本書は宿泊業の経営におけるプラクティスやノウハウについて書かれているものだが、経営一般としても通じる箇所も多く、私のような IT 業界のマイクロ法人の経営者が読んでも学ぶべきところが多々あった。経営一般としてお勧めとまでは言えないけど、宿泊業に少しでも関心のある経営者なら楽しめるのではないかと思う。いくつか私が学びになったところを紹介していく。

顧客満足度と企業収益

3つの満足度がある。

  • 従業員満足度 (ES: Employee Satisfaction)

  • 顧客満足度 (CS: Customer Satisfaction)

  • オーナー満足度 (OS: Owner Satisfaction)

そもそもなぜ顧客満足度を上げようと努めるのかと言えば、それは本来顧客満足度と企業収益は正の相関関係があるからだという。相関関係については次のように説明されている。

  • 正の相関関係とはAが1増えたらBが1増える

  • 相関係数は -1 から 1 までをとる

  • 相関係数 1 は最大で、0 だと無関係、-1 だと B が 1 減る

ここで顧客満足度をあげるためには、従業員満足度を維持・向上させる必要があるという研究結果があることも紹介されている。過去に私が働いていた会社では、おもにアンケート結果を使っての従業員満足度調査をしていて、いつからから毎年調査して、その結果を公表して経営者があれこれ語るイベントが定着していた。おそらく10年ぐらい前からではないかと思う。私が働き始めた頃 (20年前ぐらい) は実施されていなかったように思う。

私は従業員満足度調査は採用目的や離職防止だったり、上司/部署の健全性調査の指標のように考えていた。ある会社では、従業員満足度が低いと部長の評価に大きく影響すると聞いたこともあった。従業員満足度と顧客満足度にも一定の相関関係があると私は認識していなかった。たしかに普通に考えてみて、従業員がその職場に満足して働いていれば、嫌々働いているよりは、サービスの品質が上がることは自明であり、サービスの品質が上がれば必然的に顧客満足度も上がるという理屈になっている。なるほど。これは分かりやすい。そして、顧客満足度が上がれば企業収益と相関関係があり、結果として儲かるからオーナーも満足する。

余談だが、このやり取りはコンサルタントとクライアントの質疑応答の形で繰り広げられる。そのやり取りの中でこんな説明が出てくる。

花森はわからないことはわからない、と言えることが自分の強みだと思っている。辻田は自分の出身大学の入学時の偏差値レベルも、そして彼の「観光経済学」のひどい成績もわかっている。失うものはない。

第三章 お客さまは神様とは限らない

冒頭でこんな仕事ができない人をリーダーにしたりしないという伏線はここで活きてくる。できない人だから教えてくださいと聞いて説明が展開されるという導線にしやすい。

私自身、とても大事にしている価値観に「わからない」と言えるように注意を払っている。とくに年齢を重ねるうちに年配者なのだからこんなことは知っているだろうと周りが忖度して、情報共有に支障をきたす懸念が出てくる。私自身、初歩的な知識を説明するのは失礼かなと配慮して相手に忖度するときがあるから同じであろう。もっと言うと、分かっていることも意図的に「わからない」と言って相手から教えてもらうこともある。わかっているつもりでわかっていなかったというのはビジネスにおいて大きなトラブルを招く可能性が高い。自身の無知の無知を防ぐためにも「わからない」と言える姿勢を維持することは重要だと私は考えている。

会計とファイナンス

サラリーマンがマイクロ法人の経営者になって学びの大きい分野が3つある。

  • 会計

  • 税制

  • ファイナンス

本書では税制に関する話題はないが、会計とファイナンスの基本的な考え方の説明が出てくる。私が本書を経営一般としても学びがあると言及している理由がこの2点になる。どんな業界・業態の会社であろうと、会計やファイナンスの基本的な考え方や要項は同じなのではないかと私は考えている。

日本のサラリーマンの功罪の1つとして守られ過ぎているところがあるのではないかと思う。例えば、税務に関して言えば、ほとんど会社が代理でやってくれるので自身で確定申告をしているのは副収入がある人ぐらいで税制に向き合う機会が少ない。税制を理解して節税するのはファイナンスの一部でもある。

財務会計と管理会計

会計は用途によって会計基準が異なる。

  • 財務会計

    • 損益計算書や貸借対照表に集約される

    • 銀行や株主に向けて財務内容を伝えるための会計基準

  • 管理会計

    • 部門別損益やセグメント別の分析などをする

    • 会社ごとにばらばらで構わない

    • その会社の経営者向けの会計書類

感覚的に部門別の損益を明確にすることなのかな?と私は曖昧に理解していた。それは間違ってはいないけれど、正確でもなかった。その会社の経営者が把握したい会計情報であればなんでもよいというものになる。

米国の宿泊業ではユニフォームシステムという、管理会計のための標準的な会計基準があるという紹介がある。本書の中では日本だとあまり普及していないと説明されている。それに準拠すると、財務会計だけではみえない会社ごとの財務内容の詳細を比較できて、ホテルの M&A が行われることの多い欧米においてはホテルオーナーが運営会社を選ぶ際に有用な情報になるらしい。

管理会計を標準的なものにあわせるのであれば、すでに確立したプラクティスや KPI を再利用できるというメリットがある。一方で、自分たちで作るのであれば、その手法が競合との差別化やノウハウになる可能性もあるのではないか。いずれにしても財務会計だけでなく、管理会計を導入して自社の経営状況の詳細を把握することの重要性を学んだ。

数字を分解せよ

なんらかの投資を行って新しいプロジェクトを行う際に、その投資がどのぐらいの経済効果をもたらすのか予測することを feasibility study (フィージビリティスタディ) と呼ぶ。日本語では事業化可能性調査ともいう。

本書の中では投資計画に対して、その是非を判断する委員会で懐疑的な空気が拭えなくてどうすればよいかといった課題提起から物語が進んでいく。これも言われてみれば当たり前の話だが、大雑把などんぶり勘定の数字よりも、小さい数字の積み上げで最終的にこうなると算出した方が説得力が増すという考え方に私は異論がない。

できるだけ数字を分割して考えることが基本とあり、計測が難しいものは フェルミ推定 を使って概算するという実践的なアドバイスも出てくる。

私が得意とする課題管理の文脈でも課題を一定の粒度のチケット (タスク) に分割することで仕事をやりやすくできるというメリットがある。スコープを限定することで1つのタスクの全体像を把握しやすく、分業しやすく、進捗も計りやすい。過去の哲学者が言ったように、自身の能力を超える大きなものは小さいものに分割して扱うのが経験的にうまくいく。

閑話休題。あと個人的に気づきになったのが、投資によってメリットを測るときの指標は「追加的な売上」ではなく「追加的な粗利益」だという説明がある。売上を増やすためではなく利益を増やすために投資するというのは、似て非なる考え方で誤解しがちであるようにも受け取れた。

時は金なり

本書の中では、投資ファンドからの買収提案に備え、ホテルの事業価値を測るコーポレートファイナンスの話題が出てくる。上場企業であれば、株価 x 発行株式数で時価総額を算出できる。しかし、未上場企業の価値を査定するのは難しいからこういった手法が必要になる。

  • 類似業種比準方式

    • 上場している同業種の株価を参考にする

    • 但し、ビジネスモデルを無視して業種だけで比較しようとしても単純比較できない

不動産を所有しているかどうかで株式評価は大きく異なる。とはいえ、単純に不動産をもっていればよいというわけではなく、資産と負債のバランスが取れていることが大事ではある。

  • 純資産方式

    • 会社のもっているものを全部売って借金を返した残りのお金を測るという評価方法

    • 貸借対照表の資産がマイナスになっているとすべて換金しても負債が残る (これを債務超過と呼ぶ)

株価の利回りを 株価収益率 (PER: Price Earnings Ratio) と呼ぶ。時価総額 ÷ 純利益で計算される。この計算式を使って時価総額を知りたければ、PER x 純利益で計算できる。比較可能な会社の PER がわかれば未上場会社の株価を計算できる。但し、PER は会社が未来永劫事業を継続させることを前提としている。会社の継続性に疑義があると PER を用いる根拠がなくなる。

いま現在もらえる現金の1万円は1年後もらえる1万円よりも価値が高いと言える。1年後にはもらえないリスクや運用機会損失リスクが含まれるからである。そのリスクの価値をどの程度低く見積もるかを 割引率 と呼ぶ。この割引率を用いて将来の現金をいまの現金価値に置き換える評価方法を DCF (Discounted Cash Flow) 法 と呼ぶ。

仮に割引率を10%とすると、1年後、2年後の100万円をいまの価値にすると次になる。

1年後: 100 ÷ (1 + 0.1) = 90.9 万円
2年後: 100 ÷ (1 + 0.1)^2 = 82.6 万円

第九章 タイムバリューを理解せよ
DCF 法の計算式

本書の中ではエクセルでこの計算式をモデル化すればよいという話題が進む。私はプログラマーなのでエクセルではなく、プログラムでこの式を表現すると次のようになる。

>>> def discount(profit, discount_rate, year):
...   return profit / pow((1 + discount_rate), year)
... 
>>> def show_dcf_model(profits, discount_rate=0.1):
...   for i, profit in enumerate(profits, 1):
...     print(f'{i}年後: {round(discount(profit, discount_rate, i), 1)}万円')
... 
>>> show_dcf_model([100, 120, 125, 130, 135, 140, 145, 150, 155, 160, 165])
1年後: 90.9万円
2年後: 99.2万円
3年後: 93.9万円
4年後: 88.8万円
5年後: 83.8万円
6年後: 79.0万円
7年後: 74.4万円
8年後: 70.0万円
9年後: 65.7万円
10年後: 61.7万円
11年後: 57.8万円

例えば、割引率が10%で5年後の利益が135万円ならば、その現在価値は83.8万円になる。本書の中ではこの金額が投資ファンドが提示している金額とだいたい一致していることから、これ以上の精度の高い評価モデルを作らないといけないといった物語が展開される。いずれにしてもパラメーターの変数の精度が高くないと適切なモデルとは言えない。割引率を用いた現在価値を計算する考え方を タイムバリュー (時間の価値) と呼ぶ。

意思決定が遅れるほどプロジェクトの収益化も遅れるため、割引率を計算すると現在価値が小さくなっていくという考え方ができる。外資系企業が日本の企業の意思決定が遅いことを不思議に思っているのはこの考え方から来ているという話しもある。

あとがきの対談から

著名なホテルの総支配人と著者との対談がある。私はまったく宿泊業の業界に疎いので業務的なところはまったくわからない。一方で Job Description (職務分掌記述書) が重要という話題が出てくる。IT 業界でもスタートアップ企業や組織改革をしている会社では Job Description を大事にしている会社が増えているように思う。適正な評価、公平な人事、採用にも必要とされる。

また外資系と日系という会社のグルーピングには意味がないという話題も出てくる。グルーピングするとすれば、グローバルかノングローバルかという違いでしかないと説明されている。ビジネスの規模や競合をグローバルの視野で考える必要があるかどうかで変わってくるという。

勝てる能力があってもその素地となる基礎体力がないと発揮できない。
野球でも基礎体力があるから速い球を投げられる。

あとがき

これも宿泊業に限った話題ではなく、私自身、若い開発者に自分の知っていることを教える過程で実感することでもある。もちろん私自身のスキルもまだまだ道半ばで他人を教育・指導する立場ではないと自覚している。

誰もが最初は初心者ではあるけれど、若いうちに適切な指導や教育を受けられなかったり、継続的な学びを怠ったりすると、経験年数の割に基礎的なスキルが低い開発者、キャリアを歩んでしまう。まだ一般の開発者であれば大きなトラブルにはならないが、そんな人が偶然リーダーや管理職になってしまうと不幸なことが起きる場合がある。

まとめ

私はこの物語の結末も楽しみに読み進めた。登場人物たちのその後のキャリアや展望など、総じてこの物語は人生の中のスナップショットでしかなく、今後も世の中が変わりながらそれぞれの人生が続いていくという雰囲気を感じとれてよかったと思う。私の好みのエピソードだったこともあって本書の印象がよい方向に作用して本稿を書いている理由の1つとなっている。

割引率の概念は、いろんな分野に応用できそうであり、直接的に私と関わりがあったことはないので応用について私は知らないが、たまに議論をみかけることがある。

私自身、過去に SIer で働いていたとき、労働分配率とプロジェクトの納期を使って割引率を用いた評価の計算式を作ったことがあった。そのときの上司は評価のときに面倒臭がって、そんな計算式どうでもよいと一蹴されて総合評価で評価したため、その計算式はまったく役に立たなかった。


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