見出し画像

父が1度目に亡くなった日

通夜のお教を終えた後、住職はこのようなお話しをされた。

人は2度死ぬ。
1度目は亡くなったとき。
2度目は人々の記憶から失くなったとき。

 通夜での住職の法話から

出典が誰なのか知らないが、ググると検索結果にみつかる言葉なので有名な言葉であるようにみえる。私自身、何度か同じ法話を聞いたことがある。

3年前、父の主治医と話したときの所感について記事を書いた。

当時の記事を振り返ると、主治医は次のように話された。

統計上、寝たきりの状態だと10年以内に大半の人が亡くなる。
(父は) すでに3年その状態で入院している。
おそらくは平均寿命までは生きられないだろう。

3年前の主治医との会話から

統計はやはり偉大で父は寝たきりの状態で6年を経て息を引き取った。2022年の男性の平均寿命は81.47歳らしい。父は77歳を数日後に控えて亡くなった。私は10月中旬に面会して元気そうにしていたのをみた。ちょうど1ヶ月ほど前に床ずれから細胞が壊死して数cmを切り取るといった手術をしていた。その手術の予後はよかったと聞いている。母も亡くなる2日前に面会をしていつも通りであったという。母は毎週面会へ行っていたので母からみてもこれまでと変わったところはなかったと言う。

看護師の話しでは、20時に見回りしたときは普段通り、23時に見回りしたときはすでに息を引き取っていて蘇生措置をする暇すらなかったという。その後、母が死亡確認のために病院へ行き、0時34分が死亡時刻となった。

見た目、体調は元気そうで病院にずっと入院していたのでこのまましばらく生き続けるのだろうと、私だけでなく家族もそう考えていた。医療関係者も驚くほどの急死であったようだ。

日曜日の夜、私はちょうどオフィスで仕事をしていたときに母からの電話で亡くなったことを知った。過去に主治医と会話していたことで3年前から近い将来亡くなるという、心の準備は出来ていて、とくに平時と変わらずショックを受けることもなかった。いま思い返してみると、主治医から10年以内に亡くなると言われたときの方が現実を突きつけられて大きなショックを受けた。

その後2時間ほど寝て、翌日、実家へ帰り、喪主として斎場のスタッフや住職と打ち合わせをしているときに父はどのような人であったかと聞かれてあまりうまく答えられなかった。

故人を咎めるわけではないが、うちの家族は父に対してあまり敬意をもっていない。うちは食べるものに困っていない程度に裕福ではあったが、世の中一般の家族よりもあまり家族らしい家族ではなかった。父は決して非道や暴力を振るう人ではなく穏やかではあったが、家族に対して無関心であった。ゆえに家族も父に対してたいていは無関心であった。

私は大学・大学院と進学して父がすべての学費や生活費を捻出してくれた。家族は食べるものに困ることはなかったので経済的にも裕福な方であったと言える。それだけで十分に幸せだったというのは間違いなく、うちの家族はよい生活を送ることができた。その経済的主柱であった父の存在は真っ当に責任を果たした存在であったと言える。

一方で父と私はお互いに必要以上の干渉をしないという関係であったように思える。葬儀のときに父のことを聞かれて答えに困った。父の性格や振る舞いがわからなかったからではない。葬儀で弔問客に紹介できるような内容が思い浮かばなかったからだ。葬儀に飾る写真の1つに父と母が一緒に写っている写真を使った。斎場のスタッフからどこか旅行へ行かれたときの写真か?旅行はよく行ったのか?という質問があったときに母も「旅行はほとんど行ったことがない。」と答えていた。母の記憶では新婚旅行以外の覚えはないという。私の記憶でも、親戚を訪問するといった旅行に近いことが20年で2-3回あった程度だと思う。世の中の家族はどのぐらいの頻度で家族旅行をするのか、私は統計を知らないが、うちは20年で5本の指を必要としないぐらい、ほとんど行っていないと断言できる。兼業農家だったので休日は農業するのが普通だったという背景もある。さらに言うとイベントもほとんどなかった。誕生日もクリスマスも幼年時に1-2回あった程度でそれ以降はなかった。周りと比べて節目節目のお祝いを家族みんなで行う家ではなかった。

ちょっと待て。家族で旅行へ行くことはなかったが、父と私の2人で外食へ行くことはちょくちょくあった。いま思い返せば、なぜ母と姉も含めて家族4人で外食へ行かなかったのかは理解できないところもある。単純に節約したかっただけかもしれないし、たまたま家にいた私を連れて食べに行っただけかもしれない。当時は家族で行動するという概念もなかったからその違和感にも気付かなかった。たいていは焼き肉かお寿司を2人で「こっそり」食べに行く機会は中高の頃には増えていた気がする。なにかの機会で神戸のステーキハウスに連れていってもらったことも覚えている。あとプロ野球を見に行った機会も2回ぐらい、これもやはり2人だったと思う。家族で旅行はしなかったが、父と私の2人でちょっと遊びに行くことは稀にあったことを思い出した。

お教をお願いした住職は祖父母の葬儀の頃からの、もう10年以上の付き合いである。住職は父のことを覚えておられて「急にワーッと話しかけられる人でしたね。」といった父の思い出を話してくれた。父の性格を私が説明するときに社交的であったと最大限の褒め言葉で表現していたが、父はわりと図々しく馴れ馴れしく、相手の話しを聞かずに自分の話だけをする人であった。住職の記憶は正しく、父の話し相手からみると一方的に父が自分の話しをずっとしているようなところがあった。ある地域のイベントで父と話した相手が、これまで1度も話したことがないのに10年来の友だちのように話しかけられて、その距離感に戸惑いを感じたといったコメントを聞いたことがある。

13年ぐらい前か、父と大きな喧嘩をした。どういう経緯だったか忘れたが、母から父が先物取引に手を出して大変みたいな連絡をもらって、私の周りの人たちに聞いても先物取引はヤバイと言うので実家に帰って諌めることにした。姉の旦那にも来てもらって親戚も含めて多勢で父に先物取引をやめるように諫言した。父は大層怒って「二度と家の敷居をまたぐな。」と意固地になってしまった。その後、父は先物取引をやめたのかどうか、実際のところ、誰も知らない。祖父母が亡くなってからうちの家族内で喧嘩はあまりなかったが、昔はわりと普通のことだった。

余談だが、私が小学生の頃、祖父母と母がよく喧嘩していて、朝起きたら怒鳴りあいをしているという状況が、よくある日常だった。父はその喧嘩に関与せず、大半を放置していたので嵐が過ぎるまで待つことも多かった。祖父の機嫌が悪いと、祖父から私にも「家から出ていけ。」と怒鳴られることがあった。徐々に慣れて私も無視するようになっていった。父が家族に無関心だったと先に私の視点から述べた背景の1つはこれである。いま思い返すと、小学生の孫に八つ当たりで怒鳴る祖父も大人気ないものだが、家父長制が厳格だった時代の名残であろう。

私が社会人として働き始めて1年目の頃、実家に帰って父と一緒に車で出掛けたときに1度だけ尋ねたことがある。過去に祖父母と母が喧嘩しているのをなぜ放置していたのか?すると、父はあんなのは喧嘩ではない、ただのコミュニケーションでしかないといった表現をした。私は決して父に同意しないが、ちょうど私も働き始めて、ほぼ毎日のようにパワハラ上司に怒られていたので少し理解できた。未だにそのプロトコルは理解できないし、しようとも思っていないが、そういう事象が発生することがあると理解している。大雑把に言えば災害のようなものだ。

昔の人にとって怒るというのはコミュニケーションの1つなのだ。怒ることそのものがネガティブな状況を表しているのではない。もちろん怒ることは何かしらの改善や不満を相手へ伝えているが、ただ単純に純粋に怒るという手段で相手と密なコミュニケーションを取っていると解釈もしくは認識している人たちもいるのだ。父は祖父母をそう解釈していたので仲裁は必要ないと認識していたのだろう。小さい頃の私は辛かったが。

たまたまニュースで田原総一朗氏の記事を読んだ。まさに怒るコミュニケーションの典型例と言えよう。こういった人たちは怒っていても相手を軽蔑しているわけでも非難しているわけでもない。ただ怒りながら議論したいと考えている。数時間たつと何ごともなかったかのように接することができる。

閑話休題。父はわりと自分本位で生きていたため、ストレスを溜め込むことはあまりなかったのではないかと推測する。友だちと麻雀に没頭して休日の農作業をほったらかして祖父母が怒り出すことも父が若い頃はちょくちょくあった。これもいま思い返すと、家族のしがらみを離れて楽しむ時間も必要だったのではないかと思える。徹夜で麻雀して帰ってきて目を真っ赤にした状態で農作業をしている父をみて体力あるなぁと子どもの頃に思ったこともある。余談だが、祖父、父、私とうちの家系は健康的な生活をまったく送っていないにも関わらず、体調も崩さず大きな病気をしない頑強な家系だと言える。

父は55歳で役職定年し、退職する60歳までの数年が働いていて一番しんどそうにみえた。私の知る限り、仕事や職場の話しをほとんどしなかった父が定年前だけは愚痴をこぼしていた。いわゆる JTC 特有の「職場いじめ」にあっていた。当時、私が大学院に就学していたから卒業するまでがんばったのだろう。父にいつでも仕事を辞めたらよいと私も伝えていた。父について誇れる歴史は1つの会社に42年間勤め上げたことだ。これは時代の違いを差し置いても賞賛して然るべきことだと私は思う。とくに最後の2-3年は「職場いじめ」で辛かっただろうと思う。

よい意味でも、悪い意味でも、他人に無関心で自分本位であった父が交通事故にあったのが6年前。脳内出血で一命を取りとめたものの、半身不随と気管切開で動くことも話すこともできなくなったことは私にとってもショックな出来事であった。それと同時に父の人生における、最後の最後でこういう状況になることも考えさせられるものがあった。動くことも話すこともできない父をみて、この状態で生きていることになんの意味があるのかと私が考えることも多かった。

父の訃報を聞いてやってきた親戚がずっと病院にいるのもさぞしんどかっただろうという言葉をかけていた。不自由な入院生活を強いられることなく、亡くなった方が父にとっての幸せであったかもしれないという思いは私の中にも少しあった。そういう言葉を発するのはよくないかなと自重していたのを、親戚が代弁してくれて私の中の気持ちが楽になったところもあった。父の入院生活は、話せず、食べられず、動けずだった。この状態で入院していたいかとお見舞いにいく度に自問自答するときもあった。

よくある起業家のきっかけ話しを聞いていると、大病や震災など、死を意識したことをきっかけに起業する人たちがいる。私は3年前に自分の会社を始めることにした。そのきっかけはいくつかあるが、そのうちの1つに父の入院生活がある。1つは父 (母) の状況によってはいつでも仕事を中断できる状態を作ること。もう1つは父のように動けなくなる前にやりたいと思ったことはやれるときにやってしまおうと決意できたこと。

親戚に起業したことを父に話したか?と聞かれた。話しはしたが、事故の後なのでおそらく理解できていないだろうと返した。おそらく父は事故にあったことも理解できていないまま入院生活を送っていたのではないかと推測する。サラリーマンを辞めて会社を始めると伝えたら父はなんと答えたか、もはや知る方法はないが、おそらく世間話し程度で何も言わなかったのではないかと思う。それがもっとも父らしいと私なら答える。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?