能―650年続いた仕掛けとは―
カフーツの伊藤さん に 身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。 という本を教えてもらった。その本の著者は本書と同じ、安田登氏である。伊藤さんから著者は能楽師で云々、、、と聞いて、この本を読む前に能についてなにも知らない自分では理解できないのではないかと考え、本書のような入門本を先に読んでおこうと思った次第だ。
私が学生の頃に論文の書き方についての講義を受講した。
講師が話した内容のうち、なぜか私はこの言葉をずっと覚えている。いま働いていて論文を書くことはないが、なにかしらまとまった長文を書くときにその出始めはいつも最後に書くようにしているし、もっとも注意を払って書いている。そのため、本を読むときも「はじめに」のような序論に相当する文章を必ず読む。
そんな序論マニアな私からみて、本書の「はじめに」は秀逸な内容に受け取れた。序論に求められるいくつもの内容を網羅していて、その上で読みやすく、分かりやすく、読者の興味をひきつける構成となっている。たまたま私が能について無知だったために先入観なく受け入れられたせいかもしれない。こんなに巧い序論はそうはみかけないなと思って読み始めた。
はじめに
著者が能に関心をもったきっかけ、その後、能楽師に弟子入りして自身もプロの能楽師になったこと、能についての歴史を調べたこと、タイトルにもあるように現代にも能が受け継がれていることを語る。
私は本書を読み終えてから実際に能を観に行った。過去に能をちゃんとみたことも関心をもったことも一度もない。そんな私でも、読書前とは異なる趣で能を観ることができた。
いま「本書を読み終えてから」と言ったが、時系列で言うとちょっと違う。「はじめに」を読み終えた後、近所で能の公演をしている日時を調べ、カレンダーに能を観に行く予定を書き込んだ。
第一章 能はこうして生き残った
能は室町時代に観阿弥・世阿弥によって大成された芸能になる。それまでも 猿楽 や 田楽 と呼ばれていた芸能ではあるが、それらを洗練させ、ときの将軍の庇護もあり大成に至ったらしい。それが約650年前、それ以来現在に至るまで一度の断絶もなく上演され続けてきたらしい。
世阿弥が編み出した初心という言葉を、当時の世阿弥はどのような意図で語っていたかについて説明している。本書の説明は長いので the能ドットコム から引用すると、次の3つの初心について書いてある。この言葉を聞いたときに一番最初の意味を想像する人が多いだろう。
本章では能が長く続いてきた背景として「初心」と「伝統」をあげ、そこで初心とはなにかと説いている。
能の稽古にも弟子を初心に飛び込ませるための仕掛けが施されており、舞台で演じる前の能楽師の傾向や心境の変化にも言及している。そして、師匠はただ「ダメだ」と言うばかりで決して及第点を与えることはないという。現代の感覚で捉えると、パワハラのようにもみえてしまうが、それは初心に向き合うためのシステムであると著者は書いている。
当然、そんな状況で本番の舞台でもうまく演じられず、弟子にとっては不本意な結果になるそうだが、それでも多くの稽古を積み、実際に舞台で演じて、演じる前の自分とは違う存在を迎えるという。このときの状況や心境、なにがしかの変化を初心という言葉で著者は説明している。
私にとっては、初心とは変化に立ち向かう心構えや新しいことに挑戦する価値観を表す言葉のように受け取れた。私自身、常にやったことのないことに挑戦するという考えで生きてきた。なぜそれをやっているのか、自分でも理解できていなかったが、この「初心」を忘れないためにやっているんだという解釈はとても納得感のある答えに思えた。
さらに「老後の初心」。どの歳になっても初心はあるが、歳をとって体力が劣っていくからこそやることも変えていく。能では体が動かなくなっていくのだから「しないというやり方も方法としてありえる」と考える。演じないことで演じる、歳を取ったときの表現方法がある。高齢な能楽師でしか演じられない境地があるから能楽師は歳を取ることを楽しみにするという。
この考え方は長生きするようになった、いまの時代にとてもあうように思えた。
第ニ章 能はこんなに変わってきた
能の歴史は次の4つに大別されるという。
形成期 (奈良時代〜)
唐から散楽が入ってくる
大成期 (室町時代〜)
観阿弥・世阿弥によって能を大成
能は3代将軍の足利義満によって庇護を受ける
展開期 (戦国時代〜)
豊臣秀吉 は能を大好き
式楽以降 (江戸時代〜)
家光・家綱の頃から式楽として定着
5代将軍 徳川綱吉 は「能狂い」と言われるほど執着
能の起源は、奈良時代に唐の大衆芸能である 散楽 (さんがく) が日本に入ってきて、それが 猿楽 (さるがく) になったとみられている。一方で著者は散楽よりも日本古来の 神楽 (かぐら) の方に繋がりがあるのではないかと感じているという。世阿弥も「猿楽はもとは神楽なのだが、、、」という件を書き残していることから、能の源流は神事芸能の神楽であると考えていたことが伺えるらしい。また世阿弥は能の始祖として 秦 河勝 (はた の かわかつ) という人物をあげている。
戦国時代の能への大きな貢献は豊臣秀吉だという。天下人となった秀吉が能に凝って推奨したことで諸大名も無下にできず、劇的に広まったとみられている。
第三章 能はこんなふうに愛された
前章にあげた式楽以降の江戸時代では、徳川家康も秀忠も能を好み、家光・家綱の頃から式楽として定着した。そして、大きな影響を与えたのが5代将軍の綱吉であったという。「能狂い」と呼ばれるほどの、将軍が並々ならぬ熱意で能を推奨するので大名や家臣も能を学ばざるを得ず、諸藩でも能が学ばれるようになっていったという。
やや同情してしまうのは能が盛んな藩は外様であり、譜代大名や徳川家の血筋である松平家ではあまり盛んでないことから徳川家との関係性の厳しさも伺える。そんな背景もあり、武士の教養の1つとして能が学ばれるようになっていった。また庶民にも 謡 (うたい) という能の詞章を謡うことが広まり、寺子屋でも教えられ、庶民の教養の1つになっていったという。
生活に根差したところだと、大工さんの棟上げ式、魚屋さんの縁起ものを納めるとき、結婚式の場でも謡われたという。
第四章 能にはこんな仕掛けが隠されていた
能のレパートリーは流儀によって異同がある。現在でもよく演じられるのは二百数十番あり、過去に創作された能は2000を優に超えると言われている。現在演じられているものは、南北朝から室町時代にかけての、世阿弥の前後に作られたものがほとんどだという。
能は シテ (主役) の役柄や内容で5種類にわけられる。
初番目物 (神): 脇能物とも呼ばれ、神様が登場して世の中を言祝いだり、神社の縁起を伝えたりしつつ颯爽 (さっそう) と舞う
二番目物 (男): 修羅物とも呼ばれ、主に 平家物語 に出てくる武将が戦で命を落として修羅道に落ちた苦しみを描く
三番目物 (女): 鬘物 (かずらもの) とも呼ばれ、優雅な美しいものが多く動きが少ない。幽玄な至芸がみられる
四番目物 (狂): 雑能とも呼ばれ、他の4つに分類されないもの。狂女がシテの能が多いために「狂」と呼ばれている
五番目物 (鬼): 切能 (きりのう) とも呼ばれ、鬼や妖怪、お酒の精、霊獣などがシテになる
さらにこの5つの分類に入らない 翁 という演目もある。翁を最初に置き、この順番に上演しながら、能と能の間に狂言を演じ、最後に祝言の短い能を演じるのがかつての正式な上演だったらしい。これだけのものを演じると朝から晩までかかってしまうので忙しい現代ではなかなかみれなくなってしまっている。
謡について、ひと昔前は結婚式で仲人さんや親戚が謡っていたという。
能の身体的な特徴の1つに 摺り足 がある。摺り足には重い二本の刀を腰に差して腰痛にならないという効能があるという。wikipedia の記事にも日本の武道の基礎稽古の1つでもあると書いてある。後の章にも武道の達人が能楽師の身のこなしはただものではないという件が出てくる。
世阿弥は能の構造を 序破急 にせよと書いている。序は ワキ の登場、破はシテが登場して話をして去る、急は再びシテが姿を変えて登場するといった構造になる。序破急も有名な言葉なので聞いたことがある人は多いでしょう。3部構成であることがわかる。
本書では水戸黄門の時代劇から序破急を説明している。
序: 現状把握と善人の窮状
破: 善人が騙される/襲われる
急: 印籠を出す
水戸黄門は番組開始時点では印籠を出すようなシーンはなく、当初は助さん角さんが敵をたたき斬っていただけだったという。そもそも印籠を出したぐらいで本物の水戸黄門かどうか分かるわけもなく、悪人がそれでひれ伏すはずがないと論理的には考えられる。たしかに (笑) 。あるときから印籠を出すという急を作って、序破急が安定したことで人気が出て長寿番組となったと著者は書いている。
第五章 世阿弥はこんなにすごかった
本章では能を大成した世阿弥についてその凄さを書いている。
世阿弥は 夢幻能 という能の様式を完成させた。夢幻能は「念が残る」「思いが残っている」といった「残念」を昇華させる物語の構造になっているという。世阿弥は特に敗者の無念をみせる舞台構造を作ることに成功したという。現実ではない夢の中で幽霊・神・精霊などがシテとして舞う。もともと日本には死者を尊ぶ習慣があったこともあり、日本人に親和性が高かったのではないかと説いている。
いくつか世阿弥の残した言葉をみていく。
世阿弥は後世に「必ず継ぐ」という意志を家元制度によってシステム化した。なにかの記事で暗黙知を学ぶには寝食をともに生活するのが効率がよいというのをみかけたことがある。
世阿弥は能の宗家継承は実子相続にこだわっておらず、養子を迎える場合もよくあるという。家元制度には能力主義の要素も含まれているようだ。
昼や晴れた日には観客の気分が盛り上がり過ぎているので控え目に演じなさい。曇りや雨の日には逆に観客の気持ちが萎えているので派手目に演じなさい。要は客の状態を見て演じ方を変えなさいと言っている。これは言うは易し、行うは難しだという。
能では、太鼓と小鼓の楽器の構造で調整された音の力で解決しているという説明がおもしろかった。太鼓と小鼓はそれぞれ最適な湿気が異なり、太鼓は晴れて乾燥した日によく鳴り、小鼓は湿度の高い日によく鳴るという。
ともすれば絶対的な善し悪しがあるように思い込み、そのようなものを追求しがちであるが、実際はそのようなものはない。あるのは時との関係性だけだという。世阿弥は 易経 を引用しているらしい。いまがどのような「時」であるかを知り、それがもっとも適合した時期であるか、行動できるか、それこそが「花」という言葉で表現しているという。
現代の言葉とは少し意味が異なる。
面白き: 暗い気持ちが吹き飛び、目の前がパッと明るくなること
珍しき (愛ず): 愛らしいこと、まったく普通のことに感嘆を抱かせる工夫などを指す
花: 秘すれば花、秘密にすることで偉大な働きをすること
何気ない言葉の探求の中にも世阿弥の思想や考え方が出ていておもしろく読めた。
能では、演者はあまり観客に働きかけない。よくわからないことで、逆に観る人が能動的になり、見えないものが見え、聞こえない音が聞こえてしまう。これも秘することによって咲く花だという。師匠が弟子に教えないというのも、簡単なことでも秘することで、弟子が散々苦しみ抜いた上で伝えると、その助言の価値に気付くこともあるという。
一昔前まで職人気質の世界では教えないという教え方が多かったように思える。秘すれば花という側面もあったのかなと見直すこともあるかもしれない。
第六章 能は漱石と芭蕉をこんなに変えた
松尾芭蕉は能の謡から大きな影響を受けていることが伺えるという。冒頭でも書いた別の本も購入しているのでここでは簡単に触れる。
著者は芭蕉が旅に出た目的の1つとして鎮魂をあげている。能が江戸幕府を始め、それまでの室町幕府や戦国武将にも庇護をうけた背景として死者の、とくに敗者の鎮魂をあげている。というのは、当時の権力者は死者の怨霊が祟るということを怖れていたと考えられる。
夏目漱石やその周辺の交友関係において能に造詣が深かったという。漱石自身も能の稽古を積んでいた。著者によると、草枕 の冒頭に出てくる次の文章には能の影響がみられ、草枕全体が夢幻能の構造になっており、ワキがみる夢の世界さながらだという。
著者は草枕が、晩年に漱石が残した則天去私という言葉の原型ではないかと考察している。
第七章 能は妄想力をつくってきた
著者は妄想力を次のように定義している。
能は観る人の妄想力を必要とする。それが人によって様々な見方をもたらし、観る人を楽しませているという。したがって能を楽しむには一定の教養を必要とし、和歌、能、俳句、地理といった知識を要求する。その妄想力を象徴しているのが能の舞台であるという。能の舞台は背景に松の絵があるだけという単純なもの。ゆえに、みえないものをみるには都合がよい。そして、謡の存在も妄想力を換気する上で大きいという。謡の詞章のベースになっているは和歌であり、地名や歌枕から共有イメージを浮かべる。
能にハマる人はときどき幻視を体験するという。著者は能を脳内で行う AR/VR のようなものだと書いている。それゆえに、能は見ている方が一定のラインまで踏み込んでいかないと「つまらない」と思う人が多いのも当然である。そして、能は映画のような、消費の対象として接することはお勧めしないと述べている。
また、能を深く味わうには、能を観るだけでなく、能と共に生きる心構えを提案している。つまり、謡や仕舞などの能を稽古して、能を鑑賞するのがもっとも能を楽しむ方法だという。
第八章 能を知るとこんなにいいことがある
本章は著者の経験や見聞による、能をしているとこんなによい効能があるというものをまとめている。
健康になる
集中力を養う
ストレスをはね返す
無言で相手に気持ちを伝える
陰陽を整えられる
いい声を出せるようになる
能を大成した世阿弥の考え方には禅から影響を受けているものもあり、能そのものが体を無理なく動かす運動でもあり、それを継続することで心身によい影響が出るという話しは理に適っている。
これらの効能に個人差はあるだろうし、真偽はともかく、好きなことを無理なく継続していることが人生においてよさそうに私には思えた。本書からも著者が能を大好きであることは伝わってくる。そういった人は健康に暮らしているのではないだろうか。
所感
最後に個人的な所感を書いて締めくくる。
本書は能という一般の生活からかけ離れた芸能の話しであるにも関わらず、読みやすい。おそらく最初から読まなくても関心のある章から読んでいっても読めるのではないか。
著者は能楽の家系ではない一般人が能のファンとなり、能楽師に弟子入りしてプロの能楽師になった方である。ゆえに一般人に近い感覚をもつために、このようなわかりやすく能を説明できるのではないかと推測する。
もう1つ。著者が能を好きなことが伝わってくる文章が説明に付加価値をもたらしている。内容は正しくても知識だけで書いた文章と、対象を好きな人があれこれ調べて書いた文章とはなにかが違うものである。こんな風に自分の好きなものを書けるようになりたいと思えた。
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