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自己と非自己と侵略者:多田富雄「生命の意味論」

1993年に出版された名著「免疫の意味論」の4年後、続編ともいえるこの一冊、何度読んでも面白く、いろいろ考えさせられる本だ。

自己はなんだろうか。以前に本庶佑の本についてエッセイを書いたときに、この本を読み直してみて、自己と非自己を区別するものとしての免疫の働きを通じて単純に考えすぎていたと気づかされた。そのことはすでに書いた。


もう少し詳しく理解できないか、と本書に改めてあたってみた。

自己とはなにか、非自己とは、というテーマで本書では、第七章に「見られる自己と見る自己」として一章を費やしていて、興味深い議論がされている。

免疫系にとっての「自己」とは、MHC(主要組織適合抗原)が提示されている細胞だという。人間ではHLAと呼ばれる分子であり、3種類のHLAクラスI分子は60兆個の全細胞に発現しており、他の3種のクラスⅡ分子は異物を取り込むことができる限られた細胞に出現する、ということである。

人間の身体を構成しているいろいろなタンパク質は、個体によって違うというわけではないのに、このHLA分子だけは、例外的に著しい多型性を持つ。個人によって少しづつ違うのである。(p.154)

多様な遺伝的自己はこうして作られる。次にこのような「自己」をもとにして無限ともいえる「非自己」を識別する免疫細胞はどのようにして作られるのだろうか。

HLAによって定義される「自己」と「非自己」を識別する免疫細胞はT細胞と呼ばれる細胞群だという。無限に多様な非自己を識別するのに中心的な役割を果たすのは、TcR(T細胞抗原レセプター)という。TcRを構成するα鎖とβ鎖という二本のタンパク質からなり、α鎖は、約50個のV遺伝子、約50個のJ遺伝子、1個のC遺伝子のランダムな組み合わせによって作られ、β鎖は、70個のV遺伝子、2個のD遺伝子、13個のJ遺伝子のランダムな組み合わせでできる。作り出される多様性は天文学的数字になる。

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ランダムに作成されるT細胞は胸腺の中で、まず、「自己」と強く反応するものを排除される。そして、「自己」とまったく反応しないものも排除される。つまり、「非自己」であっても「自己」に影響を与えない、いわば「自己」に無関心な「非自己」は排除する必要はない。それらは私たちにとっても認識できず、透明な存在だ。私たち「自己」を認識して影響を与える「非自己」を「異物」として排除する必要がある。それは単なる異物ではなく侵略者だ。

「自己」のMHCという文脈の中に、「非自己」の単語が入り込んだ時だけそれを発見しうる細胞、すなわち「自己」MHCという文脈を判読できる細胞だけが生き残るのだ。(p.161)

免疫系はランダムに作られてスクリーニングされた結果として後天的に得られる。このような免疫系によって「自己」をターゲットに攻撃し侵略しようとする「侵略者」に対して選択的に防御反応をするのである。また、免疫系は細菌やウイルスへの感染の経験を経ることによって学習していく。個々の「侵略者」に対する反応として拒絶するのか許容するのか、その反応の様式は、偶然と経験によって個人個人によって、また、年とともに変わっていく。花粉症への反応が人によってそれぞれ違うように、インフルエンザへのかかりやすさが人によって違うように、それは「侵略者」に対する行動様式=免疫反応として現れる。

免疫から「自己」というものを定義しようとするならば、それはさまざまな「自己」でないもの、つまり「非自己」に対して行う「自己」の行動様式の総体ということになる。(p.147)

すなわち、免疫系において、「自己」と、「侵略者」を含む「非自己」の区別は、一人一人固有に決まっている遺伝的な「自己」の定義MHCに拠っている。しかし、免疫システムをとりまく、それら「自己」と「非自己」を含む全体と免疫システムとの関係の中においては、後天的に獲得される免疫系の行動様式によって後天的な「自己」が現れてくる、ということなのだ。遺伝的に定義された自己の生存条件と、免疫の行動様式として現れてくる後天的な自己が矛盾する場合に、自己免疫疾患や免疫不全、アレルギーとなるわけだ。

免疫系の成り立ちとその働きについて考察したときに、遺伝が規定する自己と、免疫系によって立ち現れる自己と、同一なようで相異なる二つの自己があることがわかった。

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が、改めて、自己とはなんだろうかと問い直してみたときに、この本では触れられていないさらに複雑な構造があることに気が付くだろう。

免疫系が規定する自己、物質としての自己、生まれては死んでいく細胞レベルとしての自己、統一された生命体としての自己、そして行動する主体としての自己、社会の中に生きる自己、自意識としての自己、他人の記憶の中にある自己、いろいろな自己がある。それらは互いに強く関連しあって成長していく中で変遷していく。

そもそも、自己と非自己と世界を二つに分けることなどできないのではないだろうか。なぜなら、私も世界の一部であり、仮に自己と非自己を分けたとしても、自己と非自己の間の流動する交流を通して自己が成り立っているからである。だから、自己と非自己の境界はそもそもないし、曖昧である。

さらに、自己とか自分、とか言ったときに文脈と概念のレベルによって意味するものが異なることにも注意をする必要がある。

そして、私たちがしばしば思い悩む「自分ってなんだろう」「自分らしさ」「自分のやりたいこと」「自分の強み弱み」「自分の仕事」「自己の確立」という文脈での自分、自己、に免疫システムの成り立ちと働きは結び付きそうで、よくよく考えてみると結び付かない、そんなところがもどかしいところだ。

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さて、本書のトピックは、「超(スーパー)システム」という概念である。DNAと遺伝子、伝染病、細胞レベルでの生死と自己形成、生命を支える免疫系、老い、といったトピックを追及する中で、生命を「超(スーパー)システム」であるとし、言葉や文化、都市についてもその概念を参照しつつ、興味深い考察を展開している。

生命という超(スーパー)システムは、遺伝的プログラムを次々に引き出し、多様な要素を作り出してそれを自己組織化することによって成立する。作り出されたさまざまな要素は、まず相互依存的に充足した閉鎖構造を作り、さらに内部および外部の情報を取り入れることによって「自己」の体制を確立し、それは状況に応じて流動的に運営される。これが超(スーパー)システムのルールである。(p.186)

この超システムという概念は、どうも、あまり受けがよくなかったのか、ネットでちょっと調べたくらいでは、この概念を使った様々な事象の分析や予測、あるいは、この概念の発展形などを豊富にみることはなかったし、実際、「免疫の意味論」と本書と、ともにあまりに有名で読まれているわりに、あまり見聞きする単語ではない。

免疫系の成り立ちと働きの具合、免疫の行動総体としての自己、これらは、私たち生きる主体としての自己にとって実は異質で理解しがたいものなのかもしれない。


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