美しいと認識する力・10:東京バレエ団「眠れる森の美女」
日曜日(2023/11/12)上野の東京文化会館に、東京バレエ団の「眠れる森の美女」を見に行ってきた。
わかりやすいストーリー、道具立ても素晴らしく、煌びやか、しなやかに躍動するダンサーたち、なかなか感動だった。
毎回、この「バレエを見に行ってきた」では同じことを書いているが、今回も予習をちゃんとしておいた。
先週頭から、ポイントのチャプターをまず見てから、全体の流れをつかみ、最後に通しで鑑賞した。だいぶんバレエの構成や見どころは掴めてきたので予習の効率はよくなってきたように思う。
ディズニー映画で知っている方も多いと思うが、あらすじを紹介しておこう。
プロローグ:王さまフロレスタン26世と王妃の間にオーロラ姫が生まれ、そのお祝いに来賓たちと6人の妖精が招かれて宴が開かれ、華やかな踊りが披露される。宴もたけなわのころ、悪の妖精・カラボスが乱入する。宴に招かれずに怒りのあまり「オーロラ姫は16歳の成人の日に紡ぎ針に指をさして死ぬ」と呪いをかける。それに対して6人の妖精の一人リラの精が「姫は100年の眠りにつき王子の口づけで目覚める」と呪いを和らげる。
第一幕:オーロラ姫が16歳の成人式を迎え、宴が催される。街の人たちは紡ぎ針を没収されるが、カラボスは密かに紡ぎ針を用意していた。宴は4人の外国の王子が求婚者として登場し、それぞれオーロラ姫と踊りバラの花束を捧げる。そこに老婆に変装したカラボスが登場し、姫に首尾よく紡ぎ針を仕込んだ花束を渡す。姫は踊るうちに仕込まれた紡ぎ針で指をさし倒れ眠りにつく。そしてリラの精によって王宮の人たちも、ともに100年の眠りにつくのだった。
第二幕:フロリムント王子が公爵令嬢たちと森の中で狩りをしていると、リラの精が現れ、王子にオーロラ姫の幻を見せる。夢の中でオーロラ姫をおいかけ夢中になった王子はリラの精の導きで、王宮にたどり着く。王子は王宮の中で眠るオーロラ姫をみつけ、導かれるままにキスをし、姫が目を覚まし、そして王宮の人たちもみな、100年の眠りから目覚めたのだった。
第三幕:オーロラ姫とフロリムント王子は結ばれ、婚礼の儀式がめでたく執り行われる。5人の宝石の精たちの踊り、4本のおとぎ話(「白い猫と長靴をはいた猫」、「フロリナ王女と青い鳥」、「赤ずきんと狼」、「親指小僧と人食い鬼」)が披露され、姫と王子の踊りが披露される。
そして最後はみなが大団円でめでたしめでたし。
12日は、主役のオーロラ姫に秋山瑛(あきやまあきら)、フロリムント王子に宮川新大で、二人ともこの役のために生まれてきたのか、と思うようないいキャストだった。秋山瑛は小柄で細いが華があり、16歳のオーロラ姫にピッタリだ。宮川新大も堂々としていてロマティックな雰囲気があり、恋焦がれる王子の役にピッタリだった。二人とも衣装も華やか、そして回転のスピードもはやくジャンプも高く軸がぶれずにきびきびとした踊りも見事に映えていた。
妖精たちの踊りも、それぞれは1分程度の短いものながら、十分に魅せたし、宴を華やかに彩る客人達や王女の友人たちなどそれぞれが息のあった達者な踊りで魅せた。特に、今回では、青い鳥とフロリナ王女を演じた池本祥真、足立真里亜の見事な演技が素晴らしく、ひときわ大きな拍手喝采をさらっていた。
全部で50セクションほどで構成されており、トータル2時間程の長丁場だが 1 セクション平均にすれば2分ちょい程度づつ、全体のストーリー展開と部分部分の階層的な構成を頭に入れておいたので、それぞれ迷いなく没入して楽しむことができた。楽しい時間は、あっという間に時間が過ぎる。
逆に、ストーリー展開や細部の構成と全体のコンセプトに必然性と意味付けを求める向きには不向きであろう。
伏線は回収されない。というより、伏線などはない。細部を省略したメインのストーリーのみだ。
上のあらすじを見て気づくと思うが、第二幕を除いて、3つの幕がすべて、王と女王を前に催される様々な宴を観客席から見ている、という仕掛けになっているのだ。だから第1幕の4人の求婚者や第2幕の公爵令嬢など、なんだか大事そうな登場人物でも、現れてもその場限りだ。
また、バレエにはセリフはない。踊りと仕草とポーズ、そして折々に挟まれるちょっとしたパントマイムで物語が進行される。パントマイムを入れるくらいなら、セリフくらいあってもいいじゃないか、歌くらいでもあればもっとわかりやすい、と思う向きもあるかもしれない。
オペラや演劇や映画などとバレエが決定的に違うのはそこにある。
バレエはあくまでダンスの美しさを見せる芸術だ。ストーリーと意味を見せる芸術ではない。言葉が少しでも入ると、とたんにそこに意味が発生し、ストーリーが表に出てきてしまう。バレエにとってストーリーは、全体を構成するための枠組みなのだと認識させられる。
美しいと感じるには意味はむしろ邪魔になる。
芸術の美しさは、自然のありのままの姿の提示ではない。また、道徳的にどうあるべきかと照らし合わせてどう、というものでもない。単なる快楽ではないし、合理性や経済性や合目的性、そういったものでもないのはもちろんだ。
しかし、だからといってなんでもいいわけではない。美しさには美しいと感じる型と形式があって、その形式があることでかえってそこにそれぞれの創造の自由が生まれる。その時と場を共にすることで、演じる者はもちろん、観る者にとっても喜びが生まれてくるのだろう。
もちろん、バレエに美しさを感じる人もいれば、音楽に美しさを感じる人もいるし、絵画に美しさを感じる人もいるし、食事に美しさを感じる人もいる。感じかたには使われる感覚や対象そのものが異なるだけでなく、時間軸も異なれば空間軸も異なる。
ところが、面白いことに、すべての趣味に共通して言えることは、幼いうちは、あるいは初心者のうちは、単純ではっきりしたものを好むが通じるうちに複雑で微妙なもののうちに美しさを感じるようになっていく。このことは注意しておくといいかもしれない。
そのような美しさに感動する経験は、それぞれ個人が感じる個人的な経験でしかないが、美しさを認識する力と枠組みは、すべての人が普遍的に持っているものと考えてよいのではないだろうか。
そんなことを考えていた。
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