見出し画像

フラッシュバッカー

あの時期に流れていた音楽を再び自室のスピーカーから流してやると、そのメロディを聴いていた時期のバックアップが読み込まれていって、昔、世界一受けたい授業で見たアハ体験の動画みたいにグラデーションの人生の断片と断片が切られてまた繋がるような、感覚になる。
すなわち、成長を実感する。

犬を散歩しているときに、おっきくなったねえと言われたら、犬ですか、と勿論聞き返すが、私のことらしく、いやそれはあんたの目か記憶がおかしいんだよと言いたくなる。自分の人生を自分で見ていたら、生活している以上自分の姿からは目を背けられないので、あまり成長を感じることはない。黄色い気球がじんわりといつの間にか赤くなっていても、気づかないのと同じで、私は自分の背丈が伸びてることを実感できない。

外面のことは別にどうでもいいが、精神面でも、変化にはなかなか気づけない。
生きてんだから、考え方とか人との付き合い方とか変化するに決まってんのに、いつまでも自分はこのまま変われないんじゃないかと思い違いすることがある。なんでも永遠だと思っちゃう癖がある。苦しみは時間薬だから気にしなければいいのにそれが出来ないし、楽しみも刹那だから失わないようにしたいのに気づいたときにはもう遅い。

実感は大事で、それは、読書がある程度までしか意味がないことに繋がる。
本を読んで、すぐにその本の感想を引用とともに書いて投稿する人に薄っぺらさを感じるのは、まだ身体に馴染む前に書き上げてしまっているからだ。本は、読んだあとしばらく寝かせておく。そして日常生活の中で、そういえばあの本でこんなこと言っていたなと思い出すものなのだ。その思い出すまでの過程と、思い出して手に入ったものが大事なのであって、本を読む行為はそれを引き出すためのものでしかない。
実感を引き出すためのもの、だと思ってる。

音楽は人生のバックアップみたいなものです。
私はこの曲を聴いたとき、夕方の病院の窓から、赤、青、黄、赤、青、黄、と変わる信号機を睨みながら、何時間経ったかも考えないで、ずっと自分を責めていたなと、その時の感情の断片が戻ってくる。
あるいは、文化祭でクラスメイトが踊っていたダンスの曲を流せば、嗅覚をも刺激される。学校の匂い。することのない退屈な文化祭の、憎たらしい暑さによる汗をも感じることができる。

その、私が音楽によるバックアップで読み込んだ場面に、おそらく居たであろう私は、ただ音と匂いと光景を、拾って集めるだけのテープレコーダーだっただろうが、つまり、きっと私は音楽を聴いているとき一言も喋ることが出来ないでいたが、それによってジュークボックスと化した私の一部がまたそれを吐き出すことで、その頃の自分と今の自分を掌の上で比較することが出来る。
それは懐古に過ぎないが、懐古は、今を健全に生きるための、腐らせないようにするための行為だ。

自分は確実に歩けているし、歩いている限り、何かに飲み込まれてしまうことはないと思う。あの頃からなんも成長してないんじゃないかと疑いそうになったら、あの頃の曲を聴けば良い。死んだ後のリザルト画面で確認するでは遅いので。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?