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近くて遠い、2つの国。

 ——— そこで暮らす人々が、互いを理解・尊重し、共に発展する社会の実現のために。



私と外国。

 日本有数の国際都市で生まれ育った私にとって、幼い頃から、外国は「外国」ではなかった。学校のクラスメイトや習い事のチームメイトなど、身近な知人の中に日本以外の国にルーツを持つ子は多くいたし、道を尋ねられて案内したり、記念写真の撮影役を買って出たり、そういったカタチでの外国人観光客との些細なコミュニケーションは、いつも私の日常の一部だった。
 だから、成長するに連れて「日本以外の国」という意味での「外国」を認識するようになったとき、彼らがルーツを持つ国の文化や言語に関心を抱き、日本と外国とを繋ぐ職業に就くことを志すようになったのも、自然なことだったように思う。

 小学5年生の頃だっただろうか。「6千人の命を救った外交官」という副題に惹かれ、杉原千畝氏の伝記を手に取った。自身の立場を顧みることなく困難な状況下にいる人々に救いの手を差し伸べた故人の勇敢さと、それが今日に至るまで続く日本-イスラエル間の強固な友好関係の大きな要因となっているという事実に、幼いながらに深い感銘を受けた。また、日々メディアで取り沙汰される、領土所有権や国際テロ組織を巡った問題の数々に目を向けるようになったのも、同時期だったと記憶している。
 このように、杉原千畝氏の伝記と世界情勢の報道を通して視野が広がっていったとき、生まれ持ったルーツや帰属する集団の違いは、ときに差別の理由とされ、不特定多数の個人が望まない対立を画し得るものであるということを、生まれて初めて痛感した。
 しかし、この頃はまだ、「何人たりとも、他の誰かのエゴの犠牲やレイシズムの矛先になっては決してならない」と分かってはいながらも、心のどこかでは「これだけ広い世界にこれだけ多くの人間が生きているのだから、対立が起こるのは自然なことだし、私が声を上げたところで何も変わらないよな」と、どこか他人事のような感覚で、今思えば非常に無責任な向き合い方をしていた。


私と韓国。

 私が「韓国」という1つの特定の国に格別な関心を抱くようになったのは、中学2年生の頃に課外活動を通して出逢った友人がきっかけだった。
 彼女は、ご両親の仕事の都合で日本に住んでいる韓国人で、私が感謝・尊敬して止まない親友である。私が記憶する限りでは、10数名いた同期たちの中で最後まで話したことがなかったのが彼女で、通う学校もバックグラウンドも趣味趣向も全く違うため、どうして仲良くなったかは分からないけれど、私たちが初めて話してから親しくなるまで時間はそう長くはかからなかった。4ヶ月に亘る活動期間を経て、彼女はあっという間に私の理解者となってくれた。通う中学校の雰囲気や同級生と合わず息苦しさを感じていた当時の私は、彼女の存在に、その温かさに、どれだけ救われたことか。だから次第に、私も彼女を理解し、彼女が必要とするときには手を差し伸べてあげられるようになりたいと思うようになった。以降、韓国は「日本と近い国」ではなく「あの子の母国」として、心理的により身近となり、取り上げられる関連ニュースが全て他人事ではないように感じられるようになった。
 彼女のご家族もまた、彼女同様、私にとても良くしてくださった。お父さんに学校説明会に同行していただいたり、お母さんに新大久保でご飯をご馳走になったり、最近では親戚のお兄さんに進路相談に乗っていただいたりと、それはそれはお世話になっている。意識的に深く関わった初めての韓国人がこの方々だったからこそ、その温かさに触れたからこそ、彼女たちの母国である韓国に、より肯定的な視点から関心を向けるようになったのだと思う。

 また、韓国の文化についてSNSで情報を収集していく中で、以前から複数の知人にオススメされていた、今や韓国を代表する世界的トップアーティストとなった某7人組グループのミュージックビデオが目に留まり、YouTubeやV LIVEに代表されるコンテンツを文字通り漁っていくうちに、私はあっという間に彼らの虜になった。

ソウルコンに参戦したりも。

 以降、韓国への関心の高まりは加速していく。


韓国が好き、はときどき辛い。


 しかし、日本で生まれ育った日本人である私が韓国に関心を向けるということは、韓国を好きであるという事実は、ときに、私にとって辛く苦しい状況を引き起こす原因にもなった。

 忘れもしない、2018年秋。突如として掘り起こされた、当時私がファンだったグループのメンバーのうちの1人がキノコ雲の写真がプリントされたTシャツを着用している姿を収めた写真 ――― 所謂「原爆Tシャツ」の一件は、一晩にして日本中で大きな騒動となり、馴染めずとも3年目にしてそれなりに平穏を手に入れつつあったはずの私の学校生活をも呆気なく奪い去った。
 今でも脳裏で鮮明に再生される。歴史の授業中、韓国に関連する文言が登場する度にクスクス笑い声が聞こえてきたり、目配せをしあってヤジを飛ばす子がいたりしたこと。休み時間、割と親しかったはずの同級生が廊下ですれ違いざまに「原爆万歳って感じ?」「非国民」など、耳を疑うような言葉を吐き捨てたこと。まともに話したこともない他のクラスの子が、明らかに私たちのことを言っていると分かる悪口をツイートしたり、DMで馬鹿にするようなメッセージを何度も何度も送ってきたりしたこと。こうして文字に起こすだけでも胃がキリキリと痛み出す、地獄のような日々だった。数ヶ月後、本格的な受験シーズンに突入してからは下火になったものの、結局この理不尽な嫌がらせは卒業するまで続いた。本当に、長い長い半年間だった。
 ある人は、退屈でストレスが溜まる一方の受験期の気晴らしとして軽く揶揄うだけのつもりだったのかもしれないし、またある人は、過去2年半の間で蓄積された私個人に対する鬱憤を晴らす良い機会だと思ったのかもしれない。何人かは卒業を目前に控えた時期に直接謝罪してきたし、他の何人かはそんなこと疾うの昔に忘れたのだろう。しかし、動機が何であれ、退き際がどうであれ、私が彼らの言動によって負った傷は今後も共にせざるを得ないものであり、彼らの言動が許容も再発もされてはならないものであることに、変わりはない。
 非常にデリケートな問題が故、私自身も普段以上に慎重に言葉を選ばなければならないが、私が一連の出来事に反発心を抱いているのは、自分の好きなグループが批判の対象になったからでも、被爆者とそのご遺族の方々の命や思いを軽視しているからでも、韓国の歴史観だけを100%肯定・尊重し、日本のそれを100%否定・無視する立場にあるからでも、決してない。ただ、本質的には不特定多数の誰かを傷つけたからこそ批判されているはずの問題を出しに使い、他の誰かを傷つけることを厭わないどころか、それを正当化しようとしている人たちが多く、自分の身近にも存在することを目の当たりにし、酷く腹が立った。20世紀の惨劇を知る世代と直接交わることができる最後の世代かもしれない、これからの国際社会を担っていく私たちが今とる行動の軸となるべきものが、互いを批判し嫌悪しあうことではなく、寧ろ、理解に努め歩み寄る姿勢を見せることであるのは明白なのに、人々はそれを理解していないのか、理解していながらも目を背けているのか。もどかしくて仕方がなかった。

 以来、私は、幾度となく日韓の人々の間に存在する心理的な溝に直面し、苦悩してきた。


初めての韓国、初めてのひとり旅。

 3年前、2019年。高校に進学して間もなく、親友から「連れて行ってあげたい場所があるから、夏にソウルで会わないか」との誘いを受けた。その旨を親に伝えてみたところ、「全て自力でするなら」という条件付きで承諾を得ることに成功。こうして私はアルバイトを始め、その給料を以て韓国へ発つことになった。
 実は、直前にして日本で絶対に外せない重要な予定が生じてしまい、親友とソウルで会うことは結局できなかったのだが、私は旅程をズラして1人で観光することに。今思えば、当時まだ韓国語は愚か英語すら儘ならなかった15歳の子どもが1人で異国の地を旅するなど、我ながら怖いもの知らずにも程がある。
 この経験が結果的に、私の人生を動かすことになる。

 初めて訪れる韓国。そこで私が真っ先に心奪われたのは、昔と今が混じり合い調和する、その街並みだった。スタイリッシュにキメた若者たちで賑わう홍대(弘大/ホンデ)エリアを抜け、自然と吸い込まれていった先にあったのは、閑静な住宅街... と思いきや、お洒落なカフェが軒を連ねる연남동(延南洞/ヨンナムドン)。洗練された店内とキンキンに冷えたアイスアメリカーノに、身も心も洗われる気分だった。坂を少し上ったところから見渡す북촌(北村/プッチョン)の街は、初めて来たはずなのに、どこか懐かしさを憶えたものだ。夜の종로(鐘路/チョンノ)を散策しているとき、경복궁(景福宮/キョンボッグン)を照らしあげる優しい光に、思わず足を止めた。また、ソウルの街には山や川、木々などが多く、「首都だから、東京23区のように建物ばかりで自然は少ないのだろう」と勝手に思い込んでいた私は心底驚き、日本での忙しない日々を忘れられる、束の間のヒーリングタイムを過ごした。

夜の景福宮。

 日帝統治時代の教育書物を展示する博物館に足を運んだ際には、韓国の歴史に色濃く落とされた影に胸が締め付けられ、涙すると同時に、近代史は韓国という国を愛する上で真っ先に学んでいかなければならないものだと強く感じた。
 この旅行を一文で表現するとしたら、間違いなく「人情に触れた1週間」が相応しいだろう。それは、往路のフライトの機内から既に始まっていた。私と同じ横列には韓国人のお兄さんたちが座っていらっしゃったのだが、ひょんなことから会話を交わし、彼らは慣れない英語と日本語を駆使しながらも、私にソウルのオススメスポットや美味しい食べ物をたくさん教えてくださった。また、ソウルから地下鉄で1時間ほどのところにある수원(水原/スウォン)も、「伝統的な街並みとお洒落なカフェが有名だから、時間があれば足を運んでみると良い」とオススメしてくださった。偶然にも、私は1年後その都市で留学生活を送ることになったわけだが、無論このときは想像もしてみなかった。行く先々で出逢った方々は皆、私が「日本から来た」と言うととても喜んで迎え入れてくださり、また「1人で来た」と言えば更に温かく接してくださった。特に印象に残っているのは、광장시장(広蔵市場/クァンジャンシジャン)のとあるキムチ屋さんのご家族との出逢いだ。旅行2日目、市場内の食堂で早めの夕食を摂った後、某お昼の情報番組で紹介されたというそのキムチ屋さんに立ち寄り、お店の方と会話を交わした。その日は結局「最終日にまた来よう」とお店を後にしたわけだが、どうやら日本から1人で来た女子高生というのはインパクトが強かったようで、再度訪れた際には「あのときのあの子だよね?」とすぐ声をかけてくださり、気づいたら何故かお店の中で昼食をご馳走になっていた。

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キムチ屋さんの中から。

 当時、2019年の夏といえば、徴用工問題の判決やホワイト国除外の閣議決定などを巡り、日韓関係は「戦後最悪」と表現されるほどに冷え込んでいた。故に「日本人だから」という理由で嫌な目に遭うことを心のどこかで予期していたというのが正直なところではあるが、それはあくまでも杞憂に終わった。メディアの情報ばかりに気を取られるあまり、個人を個人として捉えて接することができていなかった自分に気づくと同時に、これまで事あるごとに、主語を必要以上に拡大して誹謗中傷する人たちを前に腹を立て、悲しんだはずなのに、同じようなことをしていた自分に酷く失望した。
 帰宅の途につき、1週間で感じた良いギャップを思い返すうちに、自然と「他の多くの日本人にも、この国について多角的視点から知ってほしい」という思いが生まれ、それは帰国してからも強くなる一方だった。

 同じ時期、私は交換留学のための試験の準備を進めていた。留学を思い立った時点では、特に行きたい国があるわけではなく、あくまでも「留学」することに重きを置いていたため、私はギリギリまで希望国を決めかねていた。そもそも、数ある留学制度の中から交換留学を選んだのは、とある凱旋団体の「ここで言う交換留学の“交換”とは、人と人との交換ではなく、文化と文化の交換を意味する」という主旨の文言が「国と国、人と人とを繋ぐ架け橋の役割を果たしたい」という自分の思いとリンクしたからであり、ここまで書き連ねたような過去1~2年間の経験を思い返したとき、「こんなご時世だからこそ韓国に行くべきだ」と直感したのだった。


苦しかった交換留学、悩んだ末に選んだ進路。

 人生は、いつも思い通りにはならないもので、寧ろ、思い通りにならないのが人生というもので…
 文字通り人生を賭けて韓国へと発った16の私の思いは、入国早々に砕かれる。ちょうど同じタイミングで世界的流行拡大を見せ始めた新型コロナウイルスの影響は当然私の留学生活にも及び、ホストスクールの授業は大半がオンライン、韓国政府の厳格な防疫方針のもとで行動は大幅に制限され、少しの外出も憚られる、そんな状況下で私は、殆どの時間を1人で、やるせなさと寂しさを抱えて過ごしていた。そうしてあっという間に落ち切るところまで落ち切った気力は簡単には戻らず、大好きだった韓国が「苦しい時期を過ごした場所」というトラウマのようなカタチで記憶に色濃く残ってしまうような気がして、「一層のこと全てを投げ出して帰国してやろう」という考えが頭を過ぎるほどだった。既に各所で執拗に言及しているため、これ以上は割愛するが、後にも先にも、人生で最も苦しんだ1年間だった。

 帰国後、3年次への進級を目前に控え、私は進路選択を迫られていた。当時、涙を零さずに1日を終えるのもやっとだった私に「1年後どうするのかハッキリしろ」など至極酷な話ではあったが、少しずつ気持ちの整理をしていく過程で「国と国、人と人とを繋ぐ仕事に就くのであれば、日本と韓国、日本人と韓国人とにフォーカスしたい」という結論に至った。

 無論、私にとっても、韓国人と関わった記憶の全てが必ずしも良いものであるわけではない。ホストスクールの進路担当の先生が何気なく放った「日本はどうしても行きたいと思えない」という言葉に、胸をチクリと針で突かれたような感覚を味わったし、最後のホストファミリーとはどうも馬が合わず、ホストマザーと喧嘩して家出をしたり物に当たったりしてしまったこともある。マイペースでパーソナルスペースが広めな私にとって、빨리빨리(パルリパルリ/早く早く)や우리(ウリ/私たち)に例えられる韓国社会での生活は、ときに息苦しくも感じられた。
 しかし、それ以上に、韓国との出逢いに、韓国人との関わりに、感謝していることの方が圧倒的に多い。「韓国が好き」という共通点がキッカケで関わるようになった友人たちの中には、今では話題関係なしに何でも腹を割って話せるほど親しく信頼している人も少なくない。以前ここでも言及した「マスクのときの人」には、当時助けられただけではなく、いつ振り返っても心が温かくなる素敵な思い出をもらった。交換留学中、ホストスクールに通う中で、友人たちと時間を共にする楽しさを知り、翌登校日の待ち遠しさを覚えたことは、その後も私の人間関係の構築に大きく影響することになる、「革命」と表現しても過言ではない出来事だった。

ホストスクールにて。


 そして、もう1つ。取り沙汰される日韓関係について在日韓国人の親友と幾度となく意見を交わす中で耳にした、「母国である韓国にも、人生の殆どを過ごしてきた日本にも、自分の居場所がないような気がする」と、自身のアイデンティティについて苦悩する彼女の言葉は、今も私の脳裏に焼きついて離れない。私が彼女のために何か大きなことをできるわけではないし、ましてや、彼女は私に何かを望んでいたわけでもないだろう。それでも私は、彼女のような人々のためにも、日本と韓国、日本人と韓国人とを繋ぐために、今後学び、働いていきたいと強く思っているのだ。 


見えたきた方向性、私の今後。


 今年の春。意図せず生じてしまったギャップタームを利用し、私はヨーロッパに身を置いていた。
 そこでも知人を介した梯子形式で交友関係の輪を広げていったのだが、出逢った所謂「在外日本人」の方々の柔軟性には心底驚かされた。これまで「韓国が好き」「韓国に留学していた」「大学は韓国で進学する」などと言えば「え、なんで?笑」と返され、詳細を話しても「別に韓国じゃなくても良くない?笑」と更に返されることも少なくなかったため、最近では諦めの境地に入ってしまい、適当に流していたのだが、彼女たちは違かった。何がかと言うと、これまで私が日韓関係について感じてきたことを打ち明けたとき、自分の経験に置き換えて捉え、共感してくれたのだ。これに感銘を受けた私は、複数人とこんな話を交わした。「日本以外の国に一定期間身を置いてみて、現地のメディアで取り上げられる日本の話題や現地の人の日本に対するイメージとリアルとのギャップを、大なり小なり感じた」「名前と国旗くらいしか明確には知らなかった国に足を運んで見て、それまで抱いていた漠然としたイメージが覆された」「対日本でも対外国でも、メディアやインターネットで発信されている情報はほんの一部で、目で見てみないと分からないことが多くあると身を以て知った」などと。ここから私は、国を問わず、まずは上記のような経験をすることが、よりグローバルでインターナショナルな思考力と姿勢の形成に寄与するのではないかと考えるようになった。
 また、私自身の経験を振り返ったとき、今の私がより身近に感じ、理解したいと思っている国々はどこも、個人的に関わったことがある人の出身国であったり、課外活動で大使館訪問をしたことがある国であったり、他の国々よりも1段階踏み込んだ思い出があるということに気づいた。ここから、「日本人に韓国を、韓国人に日本を、より身近に感じてもらえる機会を提供したい」と考えるようになった。

 そのためにはまず、私自身が、日韓両国の歴史や文化、社会、経済など、あらゆる分野における豊富な知識を蓄え、理解を深める必要がある。また、人と人との交流、そして理解の基盤となる言語にも、精通していなければならないだろう。
 日本人の立場から、日本について学ぶことは比較的に容易くとも、韓国については難しいと考え、これは、私が韓国の大学へ進学する意味を裏付ける決定的な理由となった。いずれにせよ、今後の私の熱意と努力次第ではあるが、行き詰まったときにはこのnoteを読み返し、日々誠実に生きていきたい。



 改めて、

 日本と韓国、近くて遠い2つの国、そして、そこで暮らす人々が、互いを理解・尊重し、共に発展する社会の実現のために、私はこれからを歩んでいく。



 2022年8月27日、19歳の私が。


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