金沢散歩 人権の喪失

東京からいなくなりたい。その一心で夜行バスの予約サイトを開き僕は「金沢」への往復バスを予約した。金沢を選んだ理由は特にない。単に値段が安かったからだ。往復でだいたい8000円くらいだっただろうか。ゴールデンウイークの始まる2週間ほど前でなおかつ平日、という夜行バスの一番安くなる時期にも関わらず金沢↔東京で8000円という値段は少し前に比べればずいぶん高くなったものだが、これは世の中の流れ的には致し方ない。
そういうわけで4月の半ば、僕は金沢までお出かけをしてきた。金沢という街に行くのは初めてだ。今までの人生、金沢に行く用事もなければ理由もなかった。今回のお出かけも特に用事も理由もなかったわけだが、巡り合わせとはこういうことなのだろう。

チケットも取ったことだし、金沢に行きたい。ていうか行く。なのに行きたくない。僕は東京駅付近で逡巡していた。
金沢への夜行バスを予約していた日である。自分で行くと決めたのに「行きたくない」などと言い出す、これは一体どういうことなのか。それは「4列夜行バス」という輸送手段を経験した人にしかわからないだろう。
決して行きたくないわけではないのだ。金沢に行くにあたってどこに行きたいそこに行きたいとネットでいろいろ調べてもいる。前日はウキウキしすぎてあんまり眠れなかった、という遠足前の小学生のような子供じみた経験もしている。なのに東京駅の改札をくぐった瞬間から「いっそ帰っちゃおうかな」というテンションの下がり方である。金沢へは行きたい、だが金沢へ行くためのバスには乗りたくないのだ。

人は誰もが人権というものを持っている。
ロックだホッブズだルソーだと並べたてて人権について論ずる気はない。だがとにもかくにも人は人権を生まれながらに持っている、それは誰もが共通認識として持っている理解であろう。
そんな自然権の考え方を真っ向から否定される場所、それが「4列夜行バス」という魔境だ。
4列夜行バスは移動の手段ではない。あれは移動ではなく「輸送」の形態の1つだ。
人権を持つ「人」を決してあんな環境に置いてはならないはずだ。あんな手段で運ばれていいのは人権を持つ「人」ではなく、人権を持たない「モノ」だけだ。一晩の間、人権を放棄し人間としての尊厳を手放す代わりに安価で輸送してくれる手段、それが夜行バスなのだ。

僕は今まで、何度もこの夜行バスという手段を使ってきた。人として扱われない修羅の時間を過ごしてきた。その中で常識では考えられない行動に出る人にたくさん出会ってきた。いや、僕同様に彼らも人権を喪ってるわけだから「人」ではなく「モノ」に出会ってきた、と表記する方が正確なのだろう。人間であることをやめたそれらのモノたちには人間の世界で通用する常識などはもちろん通用しない。しかし、モノになるという選択をしながらも僕は情けないことに完全に「人」であるという感覚を捨てきれないままにいつも夜行バスに乗ってきた。人間なんか辞めて僕もモノになりきれれば…隣に置かれているモノがどんな奇行に打って出ても何も感じないでいられるのに。いつもそう思う。だが僕は今のところなかなかモノにはなれそうにはない。


東京駅鍛冶橋駐車場、もう何度も来た夜行バスの発着場所だ。今年もまたここにやってきてしまった。新幹線や飛行機という、人権を保ったままでいられる移動手段を使いたい、ここにくるたびにそう思う。しかし、貧困は人を人でないものに変えることがある。僕もこれから人を辞める。貧困とはそういうことなのだ。
僕が乗る予定の夜行バスはきっちりと定刻通りにやってきてしまった。悪夢の始まりだ。いや、悪夢であればまだマシだ。このバスの中ではどうせ眠れないわけだから、完全に覚醒したまま悪夢より酷い現実を体験することになる。
「地獄だ! 地獄だ!」
僕の心の中のマーロウが叫んでいる。僕はこのバスに乗らなければならない。僕はこれからモノになる。


重い足取りで僕はバスに乗り込み、自分の指定された席に腰をおろした。そこは1番前の窓側の座席だった。これなら僕の前にモノが座ることはない。ささやかながらも当たりと言っていい席だ。以前にもnoteで書いたが、僕は一度「座席全倒し」の暴挙に打って出るモノに出くわしたことがある。そういう狂ったモノと遭遇する可能性はひとまずなくなった。
今回の夜行バスは4列シートとはいえ、少しは配慮をされた設備を備えていた。隣席との間にちょっとした仕切りが付いていたのだ。
この仕切りは初めて見たがなかなか善きアイデアである。4列夜行の不快感の約半分は「隣に座る見ず知らずのモノとの接触を余儀なくされる」ことで構成されている。僕はそれがいやで、自分の領土としてあてがわれた面積の約95%で自分の身体をどうにか収め、隣に座るモノ側の5%の領土を放棄している。隣のモノも同様に僕がいる側の5%の領土を放棄してくれればわずかながら互いの間に空間ができて接触を避けることができるよね、そういう配慮である。しかしながら、僕の隣に座るのは人ではない。モノである。モノなんだから人間らしい配慮などできるわけもない。そのモノはいつだって自分の陣地の100%を占めるのはもちろんのこととして、僕が放棄した5%の領土を平気な顔で侵略してくる。結果として僕は自分の領土を失うだけでなく、避けたくて仕方なかった隣のモノとの接触も味わうことになる。
だがこのバスには仕切りがある。不毛な領土争いは起きないし、接触だってしない。見れば薄いプラスチックのショボい仕切りではある。だが、このショボい仕切りで夜行バスの不快さのかなりの部分がなくなるのだ。まったくもって、善き仕切りだ。

とはいえ、隣にモノがいないのが理想だ。僕はバスに乗りこんでから祈った。もはや祈る以外にできることはない。祈るしかない。主よ、御心に叶うのであれば隣にモノを寄こさないでください、アーメン。一心不乱に祈っていると「あ、すんませんすんません」と言いながら一体のモノが僕の隣、窓ぎわの席に座った。どうやら神は死んでいたようだ。
そうこうしているうちに発車時刻となり、バスは動きはじめた。
地獄の幕開けである。
バスの消灯時刻の直前まで隣のモノはスマホをいじっていた。嫌な予感はしたが消灯時刻になればそれはスマホをしまい、アイマスクなどを装着しはじめすっかり眠る体勢を取っていた。僕は今まで何度も何度も極悪なモノの隣に座り苦杯を舐めてきた。今回の隣モノはすごくまともなやつだな、そう思っていた。その時は、そう思っていた。

仕切りという善き設備があってもやはり夜行バスなどそう眠れるものではない。僕はなかなか眠りにつくことができずにいた。だがこの数時間の地獄さえ乗り越えれば金沢である。金沢に行ったら美味しいお魚を食べたり兼六園(結局行かなかったが)を練り歩いたりできる、そんな甘やかな夢想をしながら少しでも苦しい現実から目をそらそうと躍起になっていた。
バスの振動、それは本来は心地よいものである。普段はバスに乗るとすぐにウトウトしてしまうものなのだが、なんで夜行バスだと全然眠くならないのだろう。そんなよしなしごとをそこはかとなく考えていた時のことだ。バスの揺れ、とはまた違った揺れを感じた。基本的にはゆっくりで一定のリズムなのだが時にそのリズムが早くなったりもして、規則性があるようでないような不思議な揺れである。その揺れの発生源が隣モノであることにもすぐに気がついた。
「何…してんだろ…?」
薄目をあけて僕は隣の様子を伺ってみた。仕切りがあるとはいえ、それは完全なものではない。顔なんかは完全に隠されているが、お腹のあたりから下は見ることもできる。バスの中は消灯時刻を過ぎているが、多少は外の光も入ってくる。完全に真っ暗というわけでもないのだ。見づらいことこの上ないが、振動というのはどんなに微かなものでも一度気になってしまえばかなり気に障るものである。その正体がわからない、これほど気持ち良いこともない。正体さえ分かれば安心して眠りにつく努力をすることができる。そんな理由で僕は隣モノの動向を注視した。

「セルフプレジャーは恥ずかしいことじゃない」
こんな感じのタイトルのネット記事を以前見かけたことがある。その時は「セルフプレジャーって何ぞ?」と思ってその記事をクリックしてみたが、なんてことはない、自慰行為を呼び変えているだけだった。そんなのは別にやりたきゃやりゃあいいだけの話で、どちらかと言えばそうやって横文字に言い換えてみるその魂胆や作為がキモくて恥ずかしいことだなあ、なんて思っただけだった。
別に自慰だろうがオナニーだろうがセルフプレジャーだろうが何でもいいのだが、そういう行為自体は1人でやってるわけだし好きにしたらいいと思う。周りに知られることもない1人の時間ですることなんだから恥ずかしがることもない。だいたい、誰かがそれをしてようがしていなかろうがそんなことは何とも思わない。
だが、その状況如何で話はまったく変わる。
僕の隣モノは、その右手をズボンの中に突っ込み、細かく動かしていた。僕の感じた振動は、それの右手が発生させていたものだった。下品かもしれないが直接的な言い方をさせてもらう。そいつはバスの中でシコっていたのだ!!
今、僕は断言する。セルフプレジャーは恥ずかしいことである。誰か見知らぬ人がほぼほぼ密着しているという状況で敢行されるセルフプレジャー、そんなのは恥ずかしいことだと人間なら認識していてほしい。いくら人間扱いされないモノに成り果てているとはいえ、そこまで完全に人間を辞めないでほしかった。少なくとも、僕の隣で人間を辞めた上でセルフプレジャーまでキメるのは止めてほしかった。
止せばいいのによくよく見てみると、モノのズボンの前の部分はずいぶんと隆起している。元気いっぱいだ。夜行バスの中なのに元気いっぱいだ。やはり人間ではない。振動が少し激しくなった。この感じならほどなくクライマックスを迎える、そう思っているとすぐにモノの右手の動きはゆっくり緩慢なものになった。「出す時はどうするんだろ…?」と余計なことを気にしてハラハラしていたのだが、モノはやはりモノである。人間のような配慮などするわけがない。出したくなれば下着の中だろうとどこだろうと所構わずそのままぶちまければいいだけの話だ。

おそらくは隣モノも眠れずに苦しんでいたのだろう。そんな時は1回出してしまえばスヤスヤと眠れるものだ。それはわかる。だがわからない。何もかもがわからない。
だってバスの中なんだもん。
こんなことを思ってしまうのは逆に僕が間違っているのだろうか。そんなことさえ考えた。そこまで人間を辞めてしまえなければ夜行バスには乗ってはいけないのだろうか…?
試しに僕も右手をズボンに差し入れ、性器を握りしめてみた。そして少しだけ上下に擦ってみた。だが僕の性器は柔らかく萎びたままだ。当たり前だ。こんなところでできるわけがない。結局、僕はちゃんとモノになりきることはできなさそうだ。
隣からの振動問題は無事(?)解決にいたった。僕は右手をズボンから出し、どうせ眠れはしないだろうが目を閉じた。
金沢までは、まだ遠い。




それから数時間の苦行の末、どうにかこうにか金沢まで輸送されることに成功した。バスから降りた瞬間、僕はまた人間へ戻れたのだ。
降りる間際、隣のモノも少し見てみた。40前後くらいだろうか…普通の人間に見える。これもきっと、人間として生きている時には法律やルールをきちんと守り、普通の人間のように買い物をしたり居酒屋に行ったりしているのであろう。だがこいつは、見られていないと思えば隣に人やモノがいてもセルフプレジャーをできる人間である。恐ろしいことである。見た目こそまともな人間の皮を被っている。だがこいつは僕が今までに出会った中で最狂クラスのモノだった。
金沢駅に行くとなんだかムカつく小僧の像が僕を出迎えてくれた。少しイラっとする。この小僧もセルフプレジャーをするのだろうかなどとまた余計な考えが頭をよぎったが、とにもかくにも金沢に到着した。

金沢散歩の始まりだ。

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