人間の値段

テレビを観る、という習慣がずいぶん前からまったくなくなった。だから今どんな番組を放映しているかも知らないのはもちろんのこと、テレビに関する情報を仕入れようとさえしていない。それで別に不自由することもなかったのだが今現在「少しはアンテナを延ばしておけばよかった…」と臍を噛んでいる。
なんでもNHKが『燕は戻ってこない』をドラマ化したらしいのだ。僕がそれを知った時にはすでに第一話の放映が済んだ後だった。『燕は戻ってこない』は言わずとしれた桐野夏生さんの小説である。僕は桐野夏生さんの小説が大好きで、新刊が出れば必ず発売日に買って読むほどのファンである。だから映像かされたのなら当然観たかったのだが、ドラマを二話目から入るというのもなんだか納まりが悪いし、そういうことは性格的にできない。そんなわけで、せっかくぜひ観たいドラマが放映されているにも関わらず僕はそれを観ることができない。

ドラマにせよ小説にせよ、僕はネタバレということを絶対にしたくないたちなのでその内容に触れることはないが少しだけ言及すると、『燕は戻ってこない』は「代理母出産」をテーマとした作品である。
代理母出産。
言葉として聞いたことはあるだろう。他にもこのテーマを採り上げた作品というのはたくさんあるから、そういった物に触れたことがある人もたくさんいるはずだ。だが、代理母出産にまつわる倫理的問題について社会全体を巻き込んだ議論がなされているかというと、あまりそんなこともないような気がする。いや、議論をしている方はしているがそれが広く共有されているとは言い難い。
日本でも実際に代理母出産の事例はある。日本国内で行われているわけではなく海外で代理母を依頼する、といういわゆる「生殖ツーリズム」に係る話だ。規制が緩い国に行ってそこで代理母に子どもを産んでもらう、有り体に言ってしまえば「安い国」である発展途上国に先進国の人間が集まるという構図だ。
生殖ツーリズムの背景にあるのは経済格差である。『燕は戻ってこない』は国内が舞台だが、この作品内でもやはり経済格差という問題が背景にある。
代理母は出産の見返りとして大金を得る。そして依頼者は子どもを得る。当事者同士が納得しているし誰かが損をしているわけでもないんだからそれでいい。功利主義的な考え方だとこうなるだろう。そこではまさに功利が最大化している。損をしている人間もいない。たしかに何も問題はないように思える。だが果たしてそうなのだろうか?
生命を金で買うということ。それはどういうことなのだろう。

生殖ツーリズムについて調べているとだいたいセットで取り上げられている問題がある。「移植ツーリズム」の話だ。
こちらも「格差」という視点抜きには語れない話だ。「生命の南北問題」なんて言われ方もしている。iPS細胞など、新たな発見や技術の進歩もあるが、人体に関する需要は常にあったし今もある。これからもそれは同じだろう。
人は誰しもが1人の固有な人格として尊重されるべき存在である。「移植ツーリズム」という営みはその前提を変容させる。1人の人間をパーツ取りのためのいわば「治療方法」の1つとして扱う、それは許されることなのだろうか。
生体移植については日本国内での事例がいくつかある。とりあえず1つだけ挙げておこう。
2011年、人工透析に苦しんでいた医師が腎臓移植を受けた事実が発覚した。彼は暴力団関係者を仲介役としてニセの養子縁組を行い、親族同士の生体腎移植を装い腎臓移植を受けていた。医師は暴力団に見返りとして800万円を渡していたという。この事件で医師を含む9名が起訴され、そのうちの5名に実刑判決がくだされた。
ドナーとなったのは21歳無職の男性(懲役2年6ヶ月執行猶予4年の有罪判決)である。彼は
「借金返済のため臓器移植を決意した」
と犯行動機を述べている。決意した、とは言うもののその実態はどうだったのだろうか。「決意せざるを得なかった」や「決意させられた」の方がより正確なのではないか、そんな気もしている。

移植ツーリズムにせよ生殖ツーリズムにせよ、いずれにしても生命倫理の話である。簡単に答えが出るものではないし、簡単に答えを出そうとしてはいけない類の問題だ。
生命や人体に値段をつけ商品として扱っていいのか。それが許される場合はあるのかどうか。
話は少し飛ぶが、今日本は世界の中で「安い国」になりつつある。これまでの日本は他の「安い国」から生命や人体を「買う」側だった。しかし今後は違う。日本は「安い国」に変わり「買われる」側になる。その転回の渦中にある中で、生命倫理の議論は置き去りのままだ。

橳島治郎さんという生命倫理学者の方がいる。この方が欧米諸国の先端医療への対応を比較研究している。ものすごい簡単に雑にまとめてみる。
フランスとドイツでは人体を「人権の座」として尊重する考え方が主流だ。この考え方だと、人権は公の秩序に関わることから人体の取り扱いに関しても個人の自由は制約を受けるとされる。先端医療に関しても、国レベルでの公共政策による対応が中心となる。
米国ではそれと対照的に、すべてが当事者の自己決定と専門家の自治、そして司法制度に基づく対応が中心だ。
どちらが正しいとかそういう話をしたいわけではない。欧州でも米国でもそれぞれの文化や歴史からそれぞれのあり方が議論され定められている。その事実を書きたかっただけだ。
橳島さんは日本に関しても言及している。日本ではどのような考えに基づいて先端医療への対応を決定しているのか。橳島さんの答えはひどく簡潔だ。
「マスコミの取り上げ方が最大の判断基準」
あまりにも幼稚でお粗末な話である。だがそう言われても返す言葉もない。たしかにその通りだと首肯してしまう。

人体や生命が資源化され商品化される世界で人間の尊厳をどのように守るのか。
『燕は戻ってこない』の突きつけてくる問いはこの1点に集約される。
かなり考えるにはしんどいテーマの話ではある。でもそれは考えないで済ませていいものではない。考えないといけない。そこに明確な答えなどはない。それでも、いや、それだからこそ考えなければいけない。
今放映されているドラマがどのようなものかは知らない。だが、人間の尊厳とはどういうものなのかについて考えさせてくれる作品になっているのだと思う。つくづく、ちゃんとテレビドラマの情報もチェックしておけばよかったと後悔するばかりだ。
今は積ん読がえらいことになってるからすぐは無理にしても、これらをある程度消化したらまた『燕は戻ってこない』を再読してみるつもりだ。

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