金沢散歩 His master's voice

ヤバい…何にも楽しくねえ…。
金沢の地で僕は独り、途方に暮れていた。「金沢の観光スポットはどこなのよ」と検索すると真っ先に出てくるのが「21世紀美術館」である。その口コミを見てみれば「楽しかった!」「1日じゃ時間足りない!」「また来たい!」と絶賛の嵐となっている。自宅でスマホを弄っている時にその嵐に遭遇した僕は「そんなに楽しいのか…じゃあ僕も…」と胸をときめかせ、ノコノコと訪問するに至ったのだ。

思い起こせば幼稚園の頃である。みんなでお絵かきをする、という時間があった。画用紙とクレヨンを持たせて興奮しない子どもなどいない。幼き日の僕も喜び勇んでお絵かきに取り掛かったものだ。ところが僕は3月末の遅生まれ、みんなより身体が小さいのはもとより気も小さく根っからのいじめられっ子体質の子どもだった。すぐさま隣で絵を描いていた遠野くんにクレヨンを強奪され、画用紙もさんざっぱらひっちゃぶかれ僕はシクシクと啼泣するに至った。同じようなことは幾度となく繰り返され、僕は「お絵かき」という営みからは徹底的に排除されてきた。その影響もあっただろうか、小学校に入っても僕は「絵を描く」ということをなるべく避けようと務め、絵ばかりでなく図工の時間でも何かを作るということに怯えていた。人生のスタートから「美術」という素養を育むことに失敗してしまっているのだ。

そんな僕が美術館になど行って楽しめるわけはなかった。実はそれくらいは行く前からわかっていた。でも僕は希望を捨てきれなかった。
「もうそこそこ大人だし、いつの間にか芸術とかそういうのも理解できる男になっているのでは…?」
というスケベ心を抱いてしまっていた。
しかし、そんなことはなかった。この世には夢も希望もありませんでした。僕は21世紀美術館のどの展示を見ても「?」以外の感想を一切抱けず、何にも楽しめなかった。口コミによれば1日じゃ時間が足りないそうだ。しかし僕には1時間で充分だった。僕がこの美術館で一番長く滞在していたのは物販コーナーである。美術館における「本当に何もわからなかったアホ」の典型みたいな行動をしていた。
21世紀美術館をあとにした僕はトボトボと見知らぬ街を彷徨っていた。こうなることも予期してなかったわけではないが、もう少しくらいは楽しんだりできると思っていた。教養がなければ観光も楽しめないのか、教養がないというのは何かの罰なのか、教養のなさは自己責任なのか…そんな暗いことをどんよりと考えながら当てもなく歩いていたのだ。その姿は傍目にはもはや観光客のそれにはとても見えなかったろう。
そうしてしばらく歩いていると、なんだか見覚えのある犬の置物が視界に入った。その犬がいたのはレンガ調の建物のショーウィンドウの中である。蓄音機の真ん前にちょこんとお座りをしているそのワンちゃん、ニッパーくんだ。ビクターのロゴになっている犬である。


僕は昔からこのワンちゃんのエピソードが好きだった。ニッパーくんはとても賢い犬だった。飼い主であるマーク・パラウドはそんなニッパーくんを殊の外愛しかわいがっていた。しかし、マークはニッパーと息子たちを残して亡くなってしまう。マークの死後、彼の弟で画家だったフランシスがニッパーと息子たちを引き取ることになった。
ある日、フランシスはニッパーが蓄音機の前に座ってそこから流れてくる声にじっと耳を傾けているのを見た。蓄音機から流れていたのは亡くなった飼い主、パラウドの生前の声を録音したものだった。フランシスはそのニッパーの姿に感動し、すぐさま絵筆を取った。そうして描かれたのがビクターのロゴとなっているあの絵である。HMVという会社があるが、この会社の名前はフランシスの描いた絵のタイトル「His master's voice」の頭文字がその由来となっている。
はじめに蓄音機というものを作った人は何を願っていたのだろう。その答えをニッパーは教えてくれる。大切な人の声を、記憶を、ともに過ごした過去をいつまでも残していたい。いつまでも触れていたい。そんな祈りがそこにはこめられていたのではないかと思う。もう会えない主人の声を聴いてニッパーは何を想っただろう。フランシスによって描かれたニッパーの表情は、どことなく哀しそうでどことなく嬉しそうだ。

ニッパーがいたその建物は「金沢蓄音器館」というところである。僕が金沢を訪れていたのは平日だったが、折よくちゃんと営業していた。もうこうなったら入らないわけにはいかない。
蓄音器館は3階建てのこぢんまりした建物だ。中に入って入場料の310円を払って中をうろつく。そこにはいろんな年代の各種様々な蓄音機が展示されていた。正直、蓄音機を眺めても「へえー」「蓄音機って言ってもいろんな形のがあるんだなー」と思うだけで何もわかりはしないのだが、なんだかそこそこ楽しい。目の前にある蓄音機でどんな人がどんな音楽を聴いていたのか、なんとなく想像が膨らむのだ。そこにはたしかに人間の息づかいがあった。
程なくして、二階で蓄音器館の職員の方が実際に展示されている蓄音機を操作して聴き比べ体験をさせてくれるとアナウンスがあった。いそいそと二階に移動し、職員の方の解説を聞きつついくつかの蓄音機を聴き比べてみる。音楽にも疎い僕だが、音楽を聴くこと自体は大好きだ。聴き比べてみたところで、「たしかになんか違うね」くらいのことはわかるが具体的にどう違っているのかはよくわからない。でも音楽をじっくり聴くなんていつ以来かはわからないがずいぶん久しぶりのことだ。思わず目を閉じて陶然と聴き入るなどしていた。

聴き比べが終わってホワホワしたままフラフラと三階へ移動。
ここでは自分でレコードをかけていいスペースがあった。すぐそこにある棚にはレコードがぎっしり詰まっている。これらがすべて聴き放題なのだ。今どきはレコードを触ったことすらない人だって多い。そんな人たちのために「レコードをいっぺんかけて聴いてみなよ」という主旨のスペースなのだ。
とりあえず耳に馴染んでるのを聴いてみよう、と僕はエリック・サティのレコードを棚から抜いてきた。付属のヘッドホンを着け、覚束ない手でレコードをセットするとやがてあのピアノのメロディが流れてくる。
沁みる。エリック・サティはやっぱり沁みる。
嫌なことがあった時、悲しいことがあった時、なんだかイライラする時、僕は幾度となくエリック・サティを聴いてきた。ネガティブになってしまった時にはとにかくエリック・サティを聴いてきたのだ。僕はネガティブ思考が極まりすぎて東京を脱出し金沢にまで来た男である。そりゃあ沁みるに決まっている。

サティが終わるとすぐに僕は棚から他のレコードを取り出してきた。少しテンションも上がってきたのだろう、「今度はもっと派手なやつを!」と棚を漁り、僕がチョイスしたのはブラームスの交響曲4番だった。1時間以上のボリュームである。ブラームスもすべて聴き終え、今度はラフマニノフの交響曲2番に取り掛かる。それもすべて聴き終え満足した僕はようやく満足して席を立った。蓄音器館を訪れてからすでに4時間経っている。入場料310円の施設をこれだけ堪能する観光客もそうそういないだろう。「これは別に観光地でやることではないのでは…」という疑問が頭を幾度かよぎったが、一度始まった交響曲の途中で止めることなどできやしない。蓄音器館を出ると外はすでに夕刻近くになっていた。入り口に佇むニッパーくんに手を振って別れを告げて、入館する時よりもどこか軽くなった感じのする足取りで蓄音器館を後にした。
21世紀美術館を訪れた時には抱けなかった感想、「1日じゃ時間足りない!」を僕も抱くことができたのだ。
金沢の観光地としては兼六園だったり21世紀美術館が挙げられることが多い。でも僕は断言する。金沢最強の観光スポットは「金沢蓄音器館」だ。

このあとはスーパーに寄ってホタルイカやらガス海老(鮮度落ちが早いので金沢でしか流通してない海老。見た目はほぼ甘海老だけど甘海老より甘くて濃厚。とんでもなく美味かった)等を買い込み、そのへんの公園で飲酒したりしつつ過ごしていた。
あと数時間したらやってくる夜行バスに輸送されて僕はまた東京に戻らないといけない。でも僕はニッパーくんに会えた。素敵な音楽にも触れられた。たしかに東京には戻りたくない。でも、多分どうにかやっていける。そんな、少しは前向きな気分になれた気がする。
もう二度と会えない大切な誰かに会いたい、その願いの結晶から流れる優しい音色は生きる力を与えてくれた。

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