「紙芝居おじさん」問題解決への取り組み

どこの世界にも厄介なヤツというのはいるもので、そいつがいるせいで周りのみんなは困り果てているというのに当の厄介者は周りの困り顔など素知らぬ顔で元気に楽しくやっていたりする。悲しい話である。ぜひともその厄介者を撲滅したいわけだが法治国家である日本で暴力など行使してしまえば官憲によってお縄にかかることだってある。だから人民は暴力を伴わない穏便な方法や陰湿な作戦を用いて厄介者を追放しようと試みるがそうそううまくいくことはない。厄介者が「ここでどんな社会活動をしようとわたしの自由です。あなた達がわたしの自由を不当に侵害するなら訴訟を提起します」などとめんどくさいことを言い出したらもうお手上げである。厄介者は高らかに爆笑しながらのびのびと迷惑行為を重ね、周りのみんなは涙が溢れないように上を見上げながらズンズンどん底に堕ちていく。やはり、悲しい話である。


夏目漱石の代表作『吾輩は猫である』でこんなエピソードが紹介されている。内容はうろ覚えだが紹介してみよう。
とある村にはた迷惑な地蔵が突如として出没、道のど真ん中に居座った。みんなが使う道の真ん中である。「マジ邪魔なんだけど」と村人はキレた。どうにかこのウザい地蔵をどかそうと力の有り余った若い衆などが地蔵を押したり引いたりしてみたがこの地蔵は異様な重量でピクリとも動かない。力技はどうも通用しそうにない。そこである村人が地蔵から少し離れたところで香ばしい香りの料理を作りはじめた。この香りで地蔵をおびき寄せて移動させる作戦である。だが地蔵は表情も変えずデカい顔をしたままそこに鎮座している。次に村一番の金持ちが出動、「そこをどいてくれたらお金をあげよう」と差し向けるも地蔵は何のリアクションもない。金でも食べ物でも、欲望で釣ることはできないようだ。今度は村一番のホラ吹きが登場、偉そうな感じのファッションでキメて葉巻をプカプカ吹かしながら地蔵の周りをうろつきはじめた。権力で脅かしながら地蔵を煙に巻くという作戦だ。もちろん地蔵はフルシカトである。権力でも地蔵は動かない。
どうやってもあの忌々しい地蔵は動いてくれない。村人たちが困り果てて相談をしていると今度はそこに村一番のバカがやってきた。
「お前らは一体、何をしてるんだい?」
みんなはバカに話しても無駄だと思ったが、一応は事の顛末を説明してやった。するとバカは
「なんだお前らはそんなことで悩んでたのか。簡単なことじゃないか。俺に任せとけよ」
と大見得を切りだした。バカのくせに偉そうだが、このバカは実はなかなか偉いバカなのだ。みんなはそのバカの態度にカチンときて「殴ろうかな?」と少し思ったがバカは自信満々である。ここはひとつバカにやらせてみよう、ダメだったら思う存分このバカを殴ろう、ということでみんなはバカを地蔵のもとに案内した。
バカは飄然と地蔵のそばまで歩いていき、地蔵に話しかけた。
「おい地蔵、そこにいたら邪魔だからちょっとどいてくんないか」
そう言うと地蔵は
「ああ、わりい。それは気づかなかったわ。さっきからみんながワチャワチャやってたのはそういうことだったんか。それならそうと言ってくれたらいいのに」
とみんなの邪魔にならなさそうなところまでテクテク移動した。
何かしらの問題が起きた時、一番手っ取り早い解決の手段はまっすぐ相手と話してみることだったりする。でもなかなかそうはできずについつい回りくどいことをしてしまうことがある。この地蔵の話、なかなか含蓄深い小話ではないだろうか。


なんでいきなり夏目漱石まで引っ張り出して厄介者の話をしているかと言うと、SNS上でとある厄介者の悪口をたくさんの人が発信しているのを見たからだ。その厄介者は「紙芝居おじさん」と呼ばれる男であり、何を隠そう私たちの師、おに山田さんである。山田さんがどこぞのアイドル現場の付近でいつものように紙芝居をしているのがやたらと不評で、多くの人が怒りや不満を表明していた。当の山田さん自身がそれをくまなくリツイートしていた。一部だけスクショを撮ったので以下に貼っておく。



ずいぶんな嫌われようである。みんなが山田さんを嫌い、山田さんの悪口を言っている。不肖の弟子としては「山田さん、相変わらずだなあ」と思うばかりだ。そんなに山田さんがそこにいるのが嫌だと思ったのならさっき紹介したバカのようにその場でそう言えばいいのに、そういう行動をする人はいなかったようだ。
山田さんは決して話が通じない人ではない。そりゃあ、相手の態度によってはすぐに喧嘩腰になる短気さもある方だし、その性格のせいで暴行の罰金前科を持っている方でもある。こう書くと「話通じねえヤバいやつじゃん」と思われる方もいるかもしれないし、なんならわたし自身も書いていて「話通じねえヤバいやつじゃん」と少し思ったが、ネット上でごちゃごちゃするよりも目と目を合わせて対話を試みる方が建設的に決まっている。ちゃんと論を尽くして話して納得さえしてくれれば、紙芝居の内容を少しまろやかにしてくれたり(ちなみにその日は下ネタはなかったらしいですが)場所を少し移すくらいの譲歩はしてくれるはずだ、多分。
僕にも当てはまるが、他人に向けて何かしらの表現をしたいタイプの人間というのはおおむね精神的な露出狂でマゾヒストだ。リアクションがあればそれがどんなものでも喜ぶ。私たちはすっかり認知が歪んでしまっているキモい変態なので、ネット上の匿名さんの悪口なんてものは基本的にはただの栄養分でしかない。どんなに悪口雑言を尽くして叩いても、その表現を止めることはできない。できないどころか、ますます表現をしたいという意欲は烈しく燃え盛る。


山田さんが拡散していた悪口の中には紙芝居の内容について言及しているものは全然見当たらなかった。弟子としてはこれは残念なことである。「キショい」と言っている方がいたが、そう言うのならどこがどう「キショい」のか、あなたの何がそれを「キショい」と感じるのか、ちゃんと分析をしてほしいものだ。
山田さんの創る紙芝居はその「キショい」のが肝だと言っていいと思っている。では山田さんの紙芝居のキショさは何なのだろう。それが突きつけてくるものは何なのだろう。


エマニュエル・ボーヴというフランスの作家がいる。彼の代表作『ぼくのともだち』では徹底的なまでにダメな母子が描かれる。この二人は一切働こうとせず、いつも他人の懐だけを頼りに生きていく。そんな感じならつましく倹約生活をするかと言うとそんなこともない。お情けで貸してもらったお金でもって贅沢に遊び暮らす。当然お金はすぐになくなるが、そうすると不平不満をもらしだし「なんで僕たちはこんなに不幸なのだろう」と悲劇のヒロインみたいに振る舞う。それだけの単調な話が300ページ以上に渡って繰り広げられる。どこをどう取ってもクズである。だが本作を読み進めていくと、このクズたちがだんだん好きになっていってしまう。金欠に困り果てた挙げ句に1回しか会ったことがないような遠い親戚のもとをいきなり訪問、泣きの涙で頼み込んでようやく借りた僅かなお金を「わたしは演劇を観に行きたいの」とか言って速攻で使い果たすそのクズっぷりに快感を覚えるようになってしまう。
この快感はどこからくるのか。
このクズたちの欲望だけに忠実でまっすぐ生き方は私たちには絶対に真似のできないことである。常識であったり良識であったり、そんな抑圧とも呼べる鎖があるからだ。彼らは私たちを縛る抑圧をあっさりとぶち壊す。ぶち壊した結果として彼らの困窮度合いはどんどん深まっていくのだが、それでも彼らは絶対に真面目に生きようはしない。それだけは拒絶する。そのある種、ひたむきな姿に一種の爽快感、清々しさを覚えるのだ。


山田さんの紙芝居もボーヴ作品に通じる爽快感がある。
人間の本来の姿、それは誰もが「キショい」ものなのかもしれない。薄皮1枚剥いでしまえば、様々な欲望の渦巻く「キショい」存在が浮かび上がる。山田さんはそれを否定しない。堂々と肯定する。
そんなキショさなんてものはとにかく抑えこみ、誤魔化し、覆い隠すのが大人なのだろう。綺麗になってたしなみを覚えて…その技術が上手い人が立派な人間だとされる。そんな小手先の生き方を山田さんは笑い飛ばす。その虚飾を容赦なく剥ごうとする。そのキショさを白日の下に曝そうとする。山田さんが路上で「ぼくの右手!!」と叫ぶとき、その山田さんに私は自分の姿を見る。表に出してはいけないはずの自分自身であり、見たくないし否定したいしないことにしたい一面だ。だがいくらないことにしておきたくても実際にはある。その事実をビシビシ突きつけてくる様が痛快なのだ。多くの人が嫌悪感を示すのは当たり前かもしれない。ボーヴだって生前はもちろん、死後何十年も無視され続けてきた作家だった。
地蔵に直接談判する気概もない「賢い」とされる人たちから見ればそんな山田さんの姿は「バカ」に見えるだろう。「バカ」だということにしておきたいだろう。だが、実際に地蔵を動かしたのは「バカ」のまっすぐさなのだ。このまっすぐさがなければ、創作物でもって人の心を動かすことなどできはしない。


僕はかこさとしさんの『どろぼうがっこう』という絵本が大好きで今でもときおり読み返すことがある。この絵本、昔は「どろぼうなんて教育に悪いじゃないか!」というクレームをけっこう受けていたという。笑い話にしか思えないがクレームを入れる人はみんなけっこう真剣で、本気で怒っているものだから対応にも苦労したそうだ。あれだけ有名な作品でもそういうことが起きる。山田さんの紙芝居だってクレームがあるのは当然なのかもしれない。下ネタがある分、叩きやすいのも明らかだ。
たしかに山田さんの紙芝居には下ネタもある。だが、その下ネタで紙芝居の題材となっているアイドルたちを貶めている作品を僕は知らない。貶める対象はいつだって山田さん自身だ。絵にしてもそうだ。山田さん本人はいつだって野暮ったいおじさんとして描かれる。あれはあれで味があってかわいいのではあるが、アイドルはいつだってより可愛らしく可憐に描かれる。
山田さんの作品や言動を露悪趣味だと取る向きもあるだろう。そこは僕も同意する。行き過ぎてるところもあると思う。だが、山田さんはアイドルの子たちを決して醜く描いたりはしない。
たしかに人間というのは醜い生き物かもしれない。そして哀しい生き物かもしれない。そんな世界の中にあっても気高さも美しさも喪わないでいるものがある。山田さんはそれを、常に笑顔でパフォーマンスを魅せるハロプロアイドルたちの中に見出したのだと思う。だから山田さんは(面白おかしくしようとすることはあっても)アイドルを貶め汚すことはしない。山田さんが露悪的に下品に振る舞えば振る舞うほどに、彼の描くアイドルの輝きはよりいっそう際立つ。その輝きを示しながら山田さんはまっすぐに叫ぶのだ。
世界はハロプロとそれ以外でできている、と。




そんな山田さんが4月21日、また紙芝居を披露してくれる。上の画像を見てもらえればと思うが、あの「aruiteru」が1日限定で復活するのだ。
僕は山田一門の門下生としてもちろん行きたいし、なんなら行くと宣言したが行けなくなってしまった。それを言い出せずにウジウジし続けている。実は山田さんの紙芝居よりもキャプテンのガレットが食べたい、の方が自分の中でメインだったことも今は伏せておいた方がいいだろう。行けなくなっちゃったわけだし。
でも紙芝居に興味がある人もない人も、ハロプロが好きな人も嫌いな人もみんなこぞって参加してみたらいいと思う。かこさとしさんが言っていた。紙芝居というのは演劇だ。あれは読んでるんじゃない、演じているんだ。だから臨場感が大切なんだ。臨場感を味わうには実際にその場に足を運んでその目で見るしかない。決してスマホで人の噂を見てわかるようなものではない。山田さんに嫌悪感を抱く人もいるだろう。だが一度、その嫌悪感をグッとこらえて山田さんの作品と向き合ってみてほしい。見もせずに判断するのなんてあまりにももったいない。それだけいい作品が揃っていることは保証する。ということで宣伝です。
友よ約束しよう、4月21日はJR高架下空きスペースに集合!


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