牛丼に紅生姜を大量に載せる私たちの生き様

今日も今日とて、チェーンの牛丼屋にお昼ご飯を食べに行く。
貧民たる私は出先の昼食に500円以上かけることはできないので必然的にお昼のメニューは限定されてしまう。松屋の牛丼、富士そばのかけ、日高屋の中華そば、ほぼこの三種のローテーションだ。激安スーパーが近くにあり、なおかつ弁当ガラを捨てるところさえあればそこのお弁当も候補にあがる。どれを選択するかは場所によるが、上記の4つがない場所に行っても「500円以内」というルールだけは変わることがない。
以前はもっと劣悪な食生活をしていて、「ペットボトルのコーラ1本」「ビスコ1袋」「水道水」などといったラインナップを「ランチ」と称して摂取している時期もあった。単純にお腹が空くし、空腹以上に悲しみに耐えられなくなって生活グレードをアップしてみたわけだが、やはりお金はかかってしまう。それでも僕はかなり文明的になった生活に少しばかりの満足を抱いていて、また以前の食生活に戻るつもりは今のところはない。

牛丼屋店内に闖入し、後ろに並ぶ人の舌打ちを浴びながらつっかえつっかえ券売機を操作(ああいう機械が苦手)し、どうにかこうにか手に入れた食券を握りしめながら待つこと数十秒、出来上がった牛丼を席に運ぶと僕ははじめにそこにある紅生姜の容器に手を伸ばす。
力いっぱいに開いたトングで大量の紅生姜を掴み、牛丼の上に載せる。再びトングで掴めるだけ紅生姜を掴み、牛丼の上にぶち込む。まだだ、まだ足りない。さらにもう一度、紅生姜を追加投入する。
牛丼の肉はもう紅生姜の下に隠され、その姿を拝むことはできない。そこに至ってようやく満足した僕はその上からバーベキューソースをドバドバとかけ、申し訳程度に七味をふりかけてやっと箸に手を伸ばす。これが僕の牛丼屋でのルーティンである。

時おり、このような紅生姜山盛り人間を差して「みっともない」と指摘する方の意見が耳に入ってくる。そのような声が耳に届けば「ふぁあ」と思う。つまり何も思っていないに等しいわけで、何とも思っていないんだからもちろんその行動が変わることもない。言われて止めるような人間ははじめからそんなことはしないのだ。
これは牛丼屋に限った話ではなく、無料のトッピングがあるお店では必ずやる行為だ。揚げ玉で覆い尽くされたうどん、ネギの山を築かれたうどん、ただの安い外食に対して見た目にもすぐわかるインパクトある演出を施すのが僕の十八番である。
見た目だけではない。味にもものすごいインパクトが加わる。大量に紅生姜をぶち込んだ牛丼はもちろん紅生姜の味ばっかりするし、ネギ山うどんはひたすら苦くからい。揚げ玉だらけうどんは食後に「胸焼け」という、うどんを食べた後にはあるまじき後遺症を残す。


みっともない。たしかにみっともないのかもしれない。でも「みっともない」ってどういうことなんだろう?

【みっともない】
《形》
人が見たくないと思うような様子。体裁が悪い。見苦しい。

ググってみればこんな感じだ。紅生姜を大量に載せる、その行為は「人が見たくないと思うような様子」なのだろうか。なんで紅生姜を大量に載せると「人が見たくないと思うような様子」になるのだろう。何に対して「見たくない」とそいつは思うのだろう。
ついでに「体裁」もググってみると「外から見える、物の形・様子。外見。特に、他人に対するみえ。世間の人から見られた時の、自分の状態についての感じ」とある。ここでいう「世間の人」って具体的に誰なんだろう。僕は紅生姜大量載せの当事者であるから、同じような行為をしている同志にたまさか出会うことがあっても別に何とも思わない。僕も一応は「世間の人」のうちの1人であるはずだが、その心に一片の悪感情も湧いてこない。どちらかと言えば、同志の行為を「みっともない」と決めつける「世間の人」に対して「そういうの、みっともなくね?」と感じてしまう。


なぜ紅生姜を、揚げ玉を、ネギを大量に載せるのか。
単純にカサ増しをしたいからだ。
お金がないんだから気の利いたトッピングを別に注文することもできない。何か余計に食べ物を載せた豪華なメニューを注文することもできなければ大盛りを頼むことだってできない。そういう境遇にあるから少しでもカサ増しをしたいのだ。それによって味が酷いものになっても構わない。後にやってくる空腹感をこらえるよりはマシなのだ。それに紅生姜にしろ他のものにしろ、刺激物である。こういうものはそれ自体は腹持ちは良くなくてもその刺激でもって空腹感を吹き飛ばしてくれる。「小腹が空いたからそこのコンビニに行ってちょっとしたスイーツでも買ってつまもうかな」みたいなことが気軽にできる境遇ならわざわざ紅生姜で空腹感を飛ばそうなんてことはしない。
貧困に喘ぎながら生きる人にとっての精一杯の工夫が紅生姜大量載せだったりする。そう考えると「みっともない」だなんて気軽に言えるものではない。そのつましい努力にはどこにも「みっともない」要素なんてない、そう思っている。


「みっともない」という言葉、それは弱い立場の人を嘲笑する際に使われることも多い。
そういう文脈で使われる「みっともない」という言葉はまさに凶器と言っていい。人の心を殺す言葉だ。そんな言葉を平気で巻き散らかして恥じることのない者の醜さこそが「みっともない」と評されて然るべきなのだが、彼らは自分自身の中にあるその「みっともなさ」を見ようとはしない。そうしない鈍感さを恥としない者だからこそ平気で人を踏みにじることができる。
誰も好きで「みっともない」ことをしているわけじゃない。店員の冷たい目に耐えながらスーパーの無料のビニールを延々と巻き取る作業なんて誰もやりたくてやってるわけじゃない。その必要があると思うからやってるのだ。そりゃあ、そんなにあの無料のビニールが必要になることはないだろう。でも、たくさんあったらなんだか安心するのだ。そうやって得られるちっぽけな安心感にでもすがらないといけないのだ。ただ、少しでも幸せになりたいだけなのだ。そんな切迫したつましさを、一体誰がどんな論理で咎めることができるだろう。

僕が「みっともない」という言葉を投げつけてやりたいと思う人はたくさんいる。そういう人たちはたいていパッと見は「人が見たくないと思うような様子。体裁が悪い。見苦しい」とは程遠い。高い服に身を包み、偉い感じの雰囲気をムンムン漂わせたりしている。彼らはおそらく牛丼屋に入っても紅生姜を大量に載っけたりしないだろうし、なんなら牛丼屋に行かなさそうでもある。もっと具体的に書いてもいいし、個人名を挙げて悪口を書きまくるのもいいが今日はそこは置いておく。
こんな連中にどう思われようと構いやしない。無料の紅生姜だらけの牛丼を完食し、無料の水を飲み干し、もう1杯おかわりして飲み干し、僕は颯爽と店外へ飛び出した。
どう見られようと思われようと、生きている。今日も明日もこれからも、這這の体で生きていく。

ということで僕のnote恒例、乞食タイムです。
牛丼代をください。私だって生きていくために牛丼とか食べないといけねえのです。お金。お金。お金。とにかくお金を恵んでください。下のサポートというところから牛丼代を恵んでください。どうかどうか、よろしくお願いいたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?