「言語化のコツ」、教えます

そんなもんはない。



ああ、私としたことがわずか8文字で終わってしまった。わざわざ文字数制限のないnoteで書いてるのにこれでは意味がない。「言語化のコツ」とやらを知りたい、と思って見てくれた人たちもいるかもしれない。ごめん。申し訳ない。でも、ないもんはない。ないんだからないと書く他にしょうがない。だって、そんなもんはないのだ。

だいたい、何かを上達したいと思う時に「コツ」なんてのを他人に求めるヤツがその何かに熟達することは絶対にない。
たとえばだが、将棋の藤井聡太さんや羽生さんに「将棋うまくなるコツ、教えれやー」と迫ったところで彼らはきっと口をつぐむ。「えっと…いっぱい勉強したらいいと思います」くらいしか答えてくれないことだろうと思う。あの2人のキャラクターを考えるとないとは思うが「甘ったれてんじゃねえよ!」と一喝されてもおかしくはない。
何かのコツをつかめばうまくなる、そんな簡単なことじゃないのは少しでも将棋を齧ったことのある人なら自明だろう。いや、駒の動かし方もわからない人にだってそれくらいの想像はつくはずだ。将棋をうまくなりたいなら、その「コツ」とかいうのを求めるふざけた姿勢をまず正すところから始めなくてはいけない。将棋以外でもみんな一緒だ。「コツを教えろ」「コツ、教えます」なんてのは、よっぽどその対象を舐め腐っていて敬意のカケラも抱いていない人間の口からしか出てこない言葉だ。真面目にその何かに取り組んでいる方からしたらケンカを売ってるとしか思えないだろう。「うまくなるコツ」というのをあえて言うのなら「うまくなるコツなんてのはないと気づくこと」と言えるかもしれない。
とりあえず将棋を例に挙げたが、他の例だって無数に挙げられる。
「痩せたいんだけど、ダイエットのコツってあんの?」
あるわけがない。食事制限と運動、それしかダイエットの手段などない。おそらくはそういうしんどそうなことができない(やりたくない)から楽な道を選ぼうというふざけた魂胆で「コツ」だとかほざいたのだろうが、そんなお前は永久にぽっちゃりしたままだ。


言語化、という話に戻ろう。そもそも「言語化」とは何ぞや? それはしなくてはいけないことなのか? という話であるがそこはもうこだわらない。とりあえず考えないこととする。考えないこととしつつ少しだけ言及するが、この「言語化」とか「アウトプット」とかをやたらと求めてくるヤツは大嫌いだし、バカだと見下している。何かの事象を前にした時、それをただちに言語化することに意味はあるのだろうか。言語化できないモヤモヤを延々と抱えて考え続け、ほんの少しずつ頭の中で熟成させた結果「言語」という形で生み出される、そんなことだってあるだろう。ていうか、そういうモヤモヤの過程を経ないで出てくる言語なんてろくなもんじゃないだろう。このモヤモヤを抱え続けることに耐えられない人間が「言語化」だの「アウトプット」だのと喧しく騒ぐ。いいから少し黙ってモヤモヤしておけよと思う。
「言語化のコツ」というものがもしあるのだとしたら、それはたくさん文章(ちゃんとモヤモヤを経て紡がれたやつね)を読んでたくさん考えてたくさん書く、これしかないと思う。こんなのは誰かに教わって身につくものではない。
また例え話になるが、僕がすごいマッチョなボディーになりたいと願望を抱いたとする。そうなるためのコツなどはもちろんなく、ダイエットと同じように気を遣った食事と運動という道を選ぶ他ない。積み重ねて積み重ねて、その結果としてマッチョボディーになれるのだ。たしかに「このメーカーのプロテインが良いぞ」とか「こういうマッシーンだと筋トレも捗るぞ」とか、そういう「コツ」に近いものはあるかもしれない。だがそのコツに近いアイテムを手にしたとしてもやはり日々の積み重ねでしかマッチョボディーにはなれないようになっている。言語化だっておんなじことだ。そこに近道はない。

ということで「言語化のコツ」はないわけなのだが、それを「月800円のサブスク」で教えるよと某作家/ブロガーが言い出しはじめた。
月に800円払って「言語化のコツ」を教わりたいと希求する人間がいるのかどうかは知らないが、これほどまでに愚かなサービスなどそうそうない。この作家ブロガー(笑)の情報を知って僕はブックオフに走った。マイケル・サンデルの『公共哲学』が900円で売られていた。100円オーバーしているが、800円もその気になればこういう知的な使い方もできる。はあちゅうとサンデル、こうして並べて語るのもおこがましい話であるが、同じくらいの値段でどちらを選ぶのが市民として健全か、自明のことであるはずだ。


そもそもあの人ってそんなに「言語化」の権威みたいな存在でしたっけ? という疑問もある。たしかに「上手いな」と思うことはある。中身が空っぽなトピックスをなんだかすごく重要なことみたいに見せかけるのがとんでもなく上手いのだ。実際はただのゴミなのにそれを包む包装だけはキラキラしている。あの人の発信することはだいたいそんな感じだ。だがいくらガワがキラキラしていても中身はやっぱりゴミなので、その辺りを見透かされてあの人は今やすっかり忘れられた存在となってしまった。あの人の教えてくれる「言語化のコツ」がどういうものかはもうだいたいわかる。ガワをキラキラさせるテクニックだ。いつまでそのテクニックにすがりついているのだろうか。もうガワでごまかすことに限界が来てるんだから中身を何とかしろよ、とアドバイスをしてくれる人はいないのだろうか。中身を充実させるのはダイエットや筋トレで言う食事制限や運動にあたるキツいことなのであの人がそれを忌避したがるのはわかる。だがそうやって肝心なところから逃げてきた結果として現状の空っぽな人間がいるわけで、もう「コツ」だとか言ってる場合ではないことにいつ気がつくのだろうか。


ここで提案なのだが、彼女はもうそんなサブスクでバカにゴミを売りつけるのは止めにして働いたらいいと思う。働くと言って彼女が想像するのは目黒とか恵比寿にある空調の効いたオフィスで優雅にパソコンカタカタ…みたいなのだろう。違う。そんなんじゃない。四つ木とか青戸辺りにある、従業員6人くらいの街工場で肉体労働をしてみてはどうか、という話だ。何の工場でもいいが…とりあえず消しゴム工場とかにしておこうか。社長と専務(社長夫人)と社長の息子、それにパートのおばちゃん2人とベトナム人の実習生、みたいな構成でやってる工場に颯爽と働きに出てみてほしい。そこは「言語化」などというふやけた概念は存在しない。実習生くんなんかはそもそも日本語が不得手だし、他の連中だって一筋縄ではいかない連中ばかりで言葉を連ねるにしてもみんな嘘に嘘を重ねるばかり。そんな工場で来る日も来る日も汚れた作業着に身を包み汗だくになって、そうだな、最低5年は働いてみてほしい。
パートのおばちゃんのうちの1人と不倫をしている社長、それを知りながら気付かないふりを通し(そのことに社長もおばちゃんも気づいてる)売上金の一部を横領してホストに通う社長夫人、吹けば飛ぶような零細工場に将来の展望など何もないにも関わらず「俺は次期社長だから」とキャバクラで威張るしか能のないドラ息子、日本に来て見るものすべてに失望し「国に金を送るため」と割り切って働く笑顔を喪った実習生くん、そんな面々と日々を過ごしてみてほしいのだ。そしていつしか社長と不倫してない方のパートのおばちゃんと友情を暖める。だがこのおばちゃんの家には引きこもりの息子(33歳)がいて…。ストーリーは無限に膨らんでくる。
そう簡単に「言語化」などできない。できるはずがない。そこでは圧倒的なまでに「人間」が溢れている。人間を「言語化」するなんて不可能なのだ。
そこではあちゅうさんは一度「言語」に絶望するはずだ。打ちのめされるはずだ。だが、そこからなのだ。そこがスタート地点なのだ。言語の持つ力は一度絶望に膝を屈して俯いてしまったところから産まれる。人間は言葉で蘇る。そこから立ち上がったはあちゅうが血を吐くような想いで紡ぐ「言語」、それはきっと「文学」と呼ばれるものになっている。『労働とかいうこの無理ゲーよ』みたいなタイトルでぜひ小説にしてほしい。


長々と書いてしまった。なぜあの人にこんな労力を割かねばならないのだろうか。僕は彼女の「言語」の結集たる著作はだいたい読んでいる。そしてそのすべてが読んだ直後にゴミ箱送りになっている。先ほど書いたように、内容がないからだ。
そんな彼女がなぜ人に「言語化のコツ」を教えようとするのか、(いるのかは知らないが)そんな彼女になぜ「言語化のコツ」を教わりたいと願う人がいるのか、謎は深まるばかりだ。その謎を解明し、言語化しようとは思っていない。そんな価値などどうせないからだ。だが、その無価値なものを覗いてみたいという好き者もいることだろう。そういう方は、月に800円を払って彼女のサブスクに登録してみるといい。そこでは空っぽという言語化を拒む概念が実存的な存在感を持って存在しているはずだ。


さて、ということでわたしの「言語化のコツ」の講義は終了でございます。厳密には1行目で終わっていたのですが。ここまで読まれた方におかれましてはきっと「言語化のコツ」というのを理解していただけたかと思います。そのお礼にぜひ、お金を恵んでください。まあ…相場は800円ってことになりますよね。多分、てか間違いなくアレに「言語化のコツ」を教わるよりは有意義な文章です。僕の文章がどうこうというより、アレより意義のない文章なんて世の中にそうそうないですからね。
とにかくお金ください。800円ください。下のサポートというところから800円ください。よろしくお願いします。

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