とるにたらないこと

 初夏、というべきか、五月の初めの連休に家族で軽井沢に小旅行にいった。最近ドライビングライセンスを取得した妹が運転する不安定な車の中から永遠に続く山の連なりを見て、山は見ていて飽きないな、と、東京に生まれ二十三歳になる今も東京に住み続けている依子は思った。軽井沢には祖母が所有する別荘、というより小さなログハウスがあるので小さい頃からよく訪れているのに。
 祖母は「イギリスのものであること」、または「イギリスらしいものであること」に対するこだわりが強く、それは祖母が祖父の仕事の都合で七年間イギリスに住んでいて、その場所が持つ空気が祖母にぴったりと合ったからなのだが、このログハウスはそういう祖母が好むもので覆い尽くされていた。つまりイギリスから取り寄せた家具や、イギリスに住んでいた頃に使っていた調理器具なんかがびっしりとこのログハウスには詰まっているのだ。
 依子も祖母の強い勧めで高校二年生のときに一年間イギリスに留学していた。だから依子は祖母が好むイギリスの空気というものがなんとなくわかる気がするし、依子自身もその空気のこともこのログハウスのことも好きだった。
 留学先で知り合った中国人の女性の友人をこのログハウスに招いたことがあった。ヤンはこの家はまったくイギリスらしくない、日本人が考えるイギリスらしさをいやらしいまでに表現した家だと批判した。ヤンにはヤンの思うイギリスらしさがあったらしい。彼女は特に玄関に飾られたイギリスの田園風景を描いた絵を厳しく批判した。依子は楽しい夏になると思って彼女を招待したのに、「もう帰って!」と日本語で大きな声で言って、いつも自室がわりにしている二階の角の部屋に引っ込んでしまった。ヤンとのコミュニケーションは常に英語だった。
あのとき、その話をしたときも、忠之は、
「とるにたらないことだよ」
と少しだけ笑って言った。今よりももっと色が白く、肉も筋肉もない細い腕だった。夏用の制服である白いポロシャツを依子と忠之は着ていた。放課後の教室に二人だけで残って向かい合っていた。依子とヤンはそのときもう仲直りしていたが、怒りを思い出して依子は憤懣やるかたないという様子で忠之に話していた。
 「とるにたらないこと」
 これは忠之の口癖のようなものだったが、それがどういうことなのか依子にはわからなかった。いつも一方通行にひとりで依子が話すのをかわすための、魔法の呪文のような相槌なのかもしれない。それでも依子は忠之がこれを言うのが嫌いではなかった。だいたいいつも忠之がこれを言うのは、依子が怒っているときか悲しんでいるときなので、これを言われると胸の内がすーっとするような気がした。
 忠之という不思議な存在のせいでもあったかもしれない。依子と忠之は高校一年生のときに出会ってから、依子がイギリスに行っていた一年間を除く約六年間ずっとそばにいる一番の理解者で、親友という言葉が薄っぺらく思えてしまうほどかけがえのない友達だった。
 軽井沢のログハウスにいる間、だから、翔よりも忠之のことを思い出してしまうというのは依子にとって仕方のないことのように思えた。
 お土産を忠之には買って翔へは買い忘れてしまったのは依子の落ち度だったと自覚しているし、それをわざわざ告げてしまったのもまずかったと思っていたので何度も謝った。夏にログハウスへ行くときは一緒に行こうとも言った。しかし翔は大学三年生のときに出会って、出会った冬に付き合ってから翔がこれほど怒っている姿は見たことがないというくらい怒っていた。軽井沢から帰ってきて、二週間ぶりにあったとき、二人は恋人になってから初めてけんかをした。無論これは依子の意見で、依子はこれをけんかと思っているというだけのことだったけれど。
 喫茶店を出てから、翔は翔よりもずっと小さい依子におかまいなしに早歩きで駅に向かった。「ごめんね」と翔の手首をつかんだ依子の薄い手を振りほどいた。真面目な翔があろうことか信号無視までした。
 依子は赤信号を渡る気にはなれず、小走りで翔に追いつくのも諦めてその場で、
「子どもみたいね」
 とそこらじゅうに聞こえる大きな声で言った。
 すると翔は振り返って、信号が青になるのを待って依子の方に向かってきた。依子は眉を吊り上げた、でも悲しそうにも見える顔をした翔がこちらに来たことを恐ろしいと思った。
 「君のせいだろ」
 静かに言おうと努めているが、棘をたっぷり含んだ言い方だった。
 「あやまったじゃない」
 もうなす術がない。
 「君と彼が友人なのはわかっているつもりだけど、僕より彼が優先されるのはもううんざりなんだ」
 翔はようやく依子の目から視線をそらし、ため息混じりに「これで何度目だと思っているんだ」と付け加えた。
 依子は翔を忠之よりも優先させなければいけない理由が思い浮かばなかった。過ごした時間の量も、質も何もかも忠之が上回っているというのに。
 「僕はまた君たちの間柄を疑おうとしている、そんなはずはないと思うと同時に、やっぱり君たちの間には何かあると思わざるをえない」
 嫌な言い方だった。翔の言う「何か」とはそれはいつも性行為のことだった。依子は傷つけられたと思った。忠之との友情を本気で信じている依子は、確かにそのとき翔に傷つけられた。
 「それはとるにたらないことだな」
 しかし目の前の忠之はビールを飲みながらそう言うのだ。やはり少しだけ笑っている。
 何が「とるにたらないこと」なのだろう。依子は翔との間にあったことを包み隠さず話した。忠之との間に性行為があるのではないかと疑われたことも。
 忠之も最近、依子が原因で半年付き合った彼女と別れたばかりだった。会うなとは言わないから自分をもっと優先してほしい、月に一度の食事会の取り決めだけ無くしてほしいというのがその元彼女の意見だった。依子は、
「どうする?私は嫌だけど、別にいいよ」
 と答えた。しかしやはり忠之は少し笑って、
 「とるにたらないことだからなあ」
と言ったのだった。その月は恵比寿のイタリアンレストランでワインを飲んでいた。
 忠之はそのあとすぐにその女性と別れた。依子はそのときはそれがとても当たり前のことのように思えたのに、いま自分が同じ立場に立たされるとどうもそう思い切ることができない。思い切りの良いこと、意志を強く持って最後までそれを突き通すことができること、それは忠之がたくさん持つ美点のうちのひとつだと依子は思う。
 今月は中華だ。市ヶ谷にある、有名だといういわゆる町中華。
 「僕たちは僕たちだから。周りの意見はどれもとるにたらないよ。僕たちで議論しよう。」
 忠之はビールを飲み干した。
 初めて「とるにたらない」の意味の説明をされた気がした。それだけ忠之にとってもこの関係が素敵なことだと認識してくれているのだと依子にはわかった。依子もグラスに残っていたビールを一気に飲み干す。
 外に出ると冷たい風が、酒でほてった頬を優しく撫でた。この季節は東京にいた方が幸せになれるかもしれないと依子は考える。
 「私たちがいま手を繋いでいたら恋人に見られるかしら?」
 みんなばかだから、そう言いたかったけれど依子は言わなかった。
 忠之の片方の手にはビニール袋が提げられていて、中には軽井沢で依子が買ったリンゴジャムが入っている。依子はこんなもののせいで翔とけんかしてしまったのだと思ったし、もっと根本的な問題はこんなものではないことも知っていた。
 しかし忠之の答えはわかっていた。
 「とるにたらないことだよ」
 ビニール袋を持たない忠之の手に依子は自分の手を合わせた。
 来月は何を食べよう、そんな話をしながら依子と忠之は駅に向かう。

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