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きらいじゃないな

 私に文体があるかどうかは客観的に見てどうなのか知らないのだけど、ぶっちゃけ小川洋子に及ばない時点で意味もないし瑣末さまつなことだと思う。
 小川洋子をすべての至上としている私にとって、私の文体は拙くて反復が多い。無駄も多いし、何よりどこかで彼女の真似をしようとしているから、ダメだ。小川洋子は二人もいらない。

 うまいと言われたこと、記憶にないような気がするのは、常に二番手以下だった負け犬の記憶が足を引っ張っているからだろう。中学生の時はまだしも、高校も大学も「私より文章や小説がうまいひと」がゴロンゴロンと転がっていて私など路傍の石より存在感がなかったものだから、文章を褒められると挙動不審になる。お、おう。

 大学からの付き合いである配偶者が、私の文章を「上手い」と認知していたらしいことを知った時も「嘘やろ」と思ったくらいである。上手い人はゴロゴロ、ゴロンゴロンいるし、私はそこまで文章が上手くない。

 褒められたくないというと嘘になるが、褒められ慣れてないせいか、自分で自分の価値を打ち消すような思考回路をしているせいか、人からいただいたお褒めを忘れたりなかったことにしがちで、これは悪癖だなと思っている。

 だから私はいつもみじんこみたいに縮こまっている。私の文章力、このスキルは特別日常の役に立たない。もっと単純で原始的に、体を動かしたり重たいものを運んだり笑顔で挨拶することが求められるから、私の人生にほんらい不要の能力である。本来というか、不要だ。

 でも私が書き出す文章がいちいちダサかったら配偶者は私と結婚しなかったろうし、私も自分の才能に呆れ果てて書くのを辞めるかもしれない。文章を書く時、とくにペンとノートを使って考えを出力する作業は自己陶酔に似ているから。

 人は自分の顔の醜さに絶望しないためにある種の認知の歪みを持たされているという。鏡越しにみる自分はそこそこ可愛いがカメラを通すと即座にブスになる。
 文字の世界にそういう歪みがないことを喜べばいいんだろうか。それとも私が知らないだけでやっぱりバイアスがかかっているのかな。
 私の書く文章に文体はない。上手いかどうかはよくわからない。でも私はこの文章のことをさほど嫌ってはいないようだ。

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