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私の遺書日記①〜私と自己犠牲〜

前にも少し話したことがあるが、
私は、人に嫌われるのがものすごく怖い。
噛み砕いて話すと、いつか、友達や恋人から
見捨てられるんじゃないかって怖くて
怯えている感じ。
だから、人を試すような行動を取ってしまう。
そんな自分が嫌い。

人から嫌われたくなくてやっている行動が、
かえって自分を1人にしてしまうっていうのも
最近わかった。
だけど、実際の話
どうやって辞めたら良いのかわかんない…
辞めれることなら辞めたい。
もうこれ以上1人になりたくない。

優しい言葉をかけてくれる人は、いる。
だけど、優しい言葉を私にかけてくる度、
私はその人達にのめり込んでしまう。
嫌われたくない。一生良好な関係でいたい。
そう思う度に、試し行動をしてしまう。
その結果、何人から嫌われただろうか。
数えても数え切れない。

だから、私はもう、人を必要以上に
信用することも期待することもやめた。
全ては、私とその人達を守る為に。
切れる縁は全て切った。

縁を切る度に、
これでよかったんだ。
これでいいんだ。
と言い聞かせてしまっている。

後悔していないと言ったら嘘になるが、
それが、他人を守る為の私に出来る、
最大限の犠牲だと思えば耐えることが出来る。
ぶっちゃけた話自己犠牲をしている
自分に酔っているだけかもしれない。

でも、それ以外どうしたら良いのかわかんない
考えて考え抜いた結果が、これだから。
これしか考えられなかったから。
どうか、こんな私を嫌いにならないで欲しい。

話が変わるが、
なぜ、自己犠牲をするに至ったかというと、
中学校の時の先生が、
「アンパンマンのような人になりなさい」
と言ったからだ。

アンパンマンは困っているキャラや、
お腹を空かせているキャラに
顔を分けて食べさせている。
これは自分を犠牲にして、
他人に施しをしている
立派な自己犠牲だと思う。

その話を聞いた時に、なるほど。と
納得をした。それから、自分は、
どんなに辛いことがあっても、
自己犠牲を心に決めて生活するようになった

こんな話をすると、
お前はキリストか。と言われることもある。
実を言うと、私は元カトリック信者である。
現在は無宗教だが、過去には
洗礼を受けるほどのカトリック信者だった。

元々の私の考えとカトリックの考え方が
違ってしまっていたことに気づいた事、
カトリック信者の質の悪さからの結果、
私は脱退してしまった。

実例をあげると、カトリックの考え方は
人を憐れみ、許しなさい。皆罪人だから。
という考え方であるが、

私の考え方は、皆罪人なら、
人を許すという行為をしてはならない。
許すという行為は罪を犯していない人。又は、
被害を受けた人がする行為だ。
許す・憐れむという行為は
上下関係が築かれる。
罪人なら皆同じ地位にいるはずだ。
という考え方なのだ。

めっちゃ簡単に言うと、
罪人が罪人の罪を許す事などできるのか?
黒色で黒の壁を塗っているようなものだ。
という考え方。
まぁ、要するに意味があるのか?ということ。

でも、考え方は違えど、カトリックは
立派な教えだと思う。
だから現に私はまだ、カトリックで培った
感性を維持し続けている。

この感性は、意味のあるものだと自分が
理解しているから。
だから、まだ、自己犠牲の精神がある。
それは生きる為に必要だと感じたから。


私は度々、人に試し行動をしてしまうが、
それを無くすために努力しようと思う。
人に嫌われるのは正直怖い。だけど、
いつか、嫌われる恐怖感が少しでも軽くなる事
を願って生活を送ろうと思う。


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