謝罪という概念が分からなかった

僕はこれまで約20年間生きてきたが、
心から謝罪するという経験がほとんどなかった。
「謝る」という概念をきちんと理解できておらず、
何故謝る必要があるのか、
何故謝ったら許してくれることがあるのか、
18年くらいずっと疑問に思っていた。
謝る意味が理解できないから、謝罪ができない。
そして、人に嫌われていく。

今回はそんな、謝罪の概念が理解できなかった頃の考え方と、
理解できた後の考え方のお話。


謝罪の概念がわからなかった頃も、
全く謝罪をしなかったわけではなかった。
学校で先生に怒られたとか、家で親に怒られたとか、
そういう時には謝罪する。
先生に怒られれば、
「先生の表情、視線、話し方…。怒ってるなぁ。怖いなぁ…。
  !! 一通り主張を述べ終えた!喋るターンが僕に回ってきた!
これは、謝罪を求められているということだ!」と思って
一応
「すみませんでした」「ごめんなさい」などと謝る。
これは会話の流れで謝罪の言葉を発しているだけ。

・自分が何かミスをして、それにより相手に不利益があった
・意図的に、好奇心などから、やってはいけないとされる行為をした
というようなことがあった場合には
「ごめんなさい」「申し訳ありませんでした」「すみませんでした」
などの言葉を発するのが常識である、
ということをなんとなく知っているから
その常識に従う、というだけ。

なぜそれが常識なのか、
なぜ人は謝るのか、全く分からなかった。

まず、僕の認識では、謝罪というのは、
悪いことをしてしまったときにするものである。
では、「悪いこと」とは一体何なのだろうか。
例えば、道で人とすれ違うとき、避ける方向がお互い同じになってしまってぶつかりそうになったときに「すみません」と相手に謝る人がいる。
道でぶつかるのは悪いことだろうか。
たまたま避ける方向が同じになったことの何が悪いのかわからない。
道を歩いていれば誰しもが経験することであり、何も悪くない。
だから、謝る必要はない。

人間は、ミスをする生き物である。
ミスは悪いことなのだろうか。
僕は昔、学校に提出しなければならない大事な書類を家に忘れて、
先生に怒られたことがある。
人間ならば、ミスをするのが当たり前だ。
忘れ物をするのも当然である。忘れ物は悪いことだろうか。
何故忘れ物をして、先生に謝罪することになるのだろうか。
先生だって、これまでの人生で何度も忘れ物をしたことがあるだろう。
いくら大事な書類とはいえ、人間、忘れるときは忘れる。
もちろん、今後忘れ物を少しでも減らすにはどうしたらいいか考えるとか、そういった取り組みは必要であると思う。
だから、先生に対して
「今後は忘れ物をしないため、チェックリストをつくって壁に貼ります」とかそういう対策を提示するべきというのならわかる。
だが、「ごめんなさい」と言わされる意味がわからない。
改善策を提示したら許されるというのならわかるが、
どちらかというと
謝罪の言葉を述べたら許される流れになることが多い気がする。
これはよくわからない。

謝罪の意味がよくわかっていないから、
先生や親など目上の人に対しては一応謝るが、
同級生にほとんど謝罪をしたことがない。
(先生や親は謝罪するまで詰めてくるし、謝罪しろよ!という雰囲気を出してくるが、同級生は すぐに僕との会話をやめてどこかへ行ってしまう。)

幼少期を振り返った記事にも少しだけ書いたが、
僕は中学生の頃、
給食の配膳の仕方が雑だとか、体育でルールを全然把握できていないだとかいう理由で同級生に嫌われていた。
(該当の記事はこちら)

配膳の仕方で指摘を受けたときも、
体育でチーム戦の競技で僕のせいで迷惑をかけたときも、
クラスメイトに謝罪しなかった。
なぜなら、自分が悪いと思わないから。
相手が不服そうにしている!と思っても、謝罪するという発想が無い。
「なぜこのようなことになっているのか、きちんと説明して納得してもらわないと!」と思ってしまう。
だから、僕は謝罪ではなく
「いや、配膳が雑だと言うけれど、このほうが早いから。別にこぼしてるわけじゃないし、味も変わらない。早く配膳できたほうが、食べる時間も確保できるし得だよ」
「体育というのは予習復習をしないから、なかなかできるようにならない。あなたたちは運動部だから、体育の予習や復習を兼ねている練習が放課後にできている。その差だね。僕ができないのは仕方ないことだ」などと、
自分はどういった考えでこのような行動をしているのか、
なぜこのような状況が起きているのか、説明した。

こういうことを言うと、
「言い訳するな!」と、さらに怒ってくる人がいる。

そういう人に対しては、
「何か理由を述べると、それを”言い訳”と捉えられてしまった。そんな経験、あなたもあるでしょ。人はみんな、理由があって行動をしている。自分の行動が他人に理解されなかったとき、理由を説明する。でも、納得されなければ、それは”言い訳”として処理されてしまう。言い訳じゃなくて理由なのに!って思ったことあるでしょ?言い訳とされることも、全部ちゃんとした理由なんですよ」
と説明した。

高校を卒業するまで、ずっとこのような考えで過ごした。

何があっても、全く悪いと思わない。
なぜなら、誰しもがミスをする。
人間として当然のことをしただけだから、何も悪くない。
よって、謝罪する必要は全くない。
人間はそれぞれ考え方が違うから、それによって揉め事も起こる。
でも、考え方が異なるのは仕方ないことなので、どちらも悪くない。
言い訳だ!言い訳じゃない!そんな言い合いも起こって当然。
人はみんな、自分の考えを持って生きている。
他人から見ると全く意味が分からない行動をしている人も、
挙動不審な人も、
変な理由でブチギレてるように見える人も、
それぞれの頭の中で考えていることがあって、
考えた結果、こうすると良いだろう!となって行動にうつしている。
もちろん、後から「やっぱりあの時、あぁしておけばよかった…」「ちがう言い方すればよかった…」と思うこともあるだろう。
「あのときの私、傍から見たら変な人だったな…」なんていうこともある。
それも全部ひっくるめて、「人間」なのだ。

だから、どんなに変に見えることをしていても、
人間として当たり前のことをしているだけなので、何も悪くない。
人間として当たり前のことをしているだけなので、何も謝る必要はない。

そして、人間というのは、
故意に「たまには良いんじゃないかな…」
「ずっと真面目に生きてたら、つまんないよね…」などと思い、
道徳的に好ましくない行為もしてしまう。
子供の頃お小遣いをちょろまかしたことのある人もいるでしょう。
こっそりテストでカンニングした人もいるでしょう。
大人になってからも、
人にうそをついてしまったり、
何か不道徳なことをしてしまうこと、誰しもがあるでしょう。
僕は、何も悪いと思わない。
なぜなら、人というのは
そういうものだから。
「”悪い”とされていることだけど、やっちゃおっかな~…」
と思ってしまうように造られている。
「ワタシは良いことしかしたことがない、生粋の善人だ!」なんて人は
いないと思う。
人に迷惑をかけることもあるし、
嫌がらせしてしまうこともある。
人間は誰しもがそう。
そういうふうにできている。
人間の仕組みなのだから、これはどうしようもない。
人によって、してしまう行動の種類は違えど、
”悪い”とされている行動をしてしまうのは全員共通。

生きていれば誰しもがするのだから、
”悪い”とされていることも、実は悪くないのだ。
何か悪いことをしたことがある人全員が悪人ならば、
この世はどんな人も全員が悪人になってしまう。

僕は、どんな”悪い”とされていることをしてもこう思い、
人として当たり前のことをしたまでだから、謝る必要はないと思っていた。

他人にほとんど謝らない人生を18年続け、大学生になった。

大学での勉強をしていて感じたのは、
「定義って大事だな」ということ。
数学でもなんでも、なんとなくでは解けない。
高校までは、なんとなく似たような問題をたくさん解く機会があるので、
「こういう問題の時はなんとなくこうやって解くよね~、理由は知らんけど」でどうにかなった。
でも、大学の数学は(数学以外も)定義をしっかり理解しないと、解けない。
定義の大事さを、先生が教えてくれた。
どういう風にこの公式が成り立ち、どんな意味を持つか。
問題演習ばかりだった高校と違って、定義がどのように決まっていったかということに授業の重点が置かれた。
とある問題が起こる→このようにして解決したい→このように解決するためには、この値がこういう風に決まると良いよね→公式が出来上がる
みたいな感じ。
僕は、いつも授業を受けながら
公式ができていく過程面白いな~、
定義が決まっていく過程面白いな~、と思っていた。

僕はある日、
「謝罪の定義ってなんだろう」と気になった。
大学生になり、就職が近づいてきているのを感じ、
社会に出たらちゃんと謝ったりできる人じゃないといけないな~、
俺ほとんど謝ったことないな~、と
なんとなく不安に思っていた。
友達がいなくて人と揉めることが少ないから、
謝ることが少ない。
謝られた経験はほとんどない。
親に勘違いで怒られて、後で事実がわかって謝られたとかはある。
でも、友達と喧嘩して仲直りしたことがない。
友達は怒って僕と話さなくなり、それで終わり。
僕が謝ることも向こうから謝ってくることもないから。
謝ってもらって仲直り、という経験がゼロ。

大学生になり、
謝罪とは何かちゃんとわかっておきたい
と強く思うようになってきた。
そして、謝罪の定義が気になったのだ。

自分の感覚では、
謝罪というのは、悪いことをしたと認めることだ、と定義していた。
そして、その「悪いこと」というのは、普通に生きていたらするはずのない、あまりに残虐な行為とか。(繰り返しになるが、ミスは悪いことではない。故意にしてしまう「悪事」とされていることも、「悪事とはいうけど、人として当たり前のことだから悪くない」としていた。)

果たしてこの定義は合っているのだろうか。

謝罪の定義の前に、
「悪いこと」の定義というか、判断基準が正しくないような気がしてきた。
自分の判断基準では、悪いことに該当するのは、ニュースで何年かに1回のペースで語り継がれるような凶悪犯の事件くらいしかない。

そして、「悪いこと」の範囲の設定が誤っているということを発見した。

誰しもがすることだから悪くない、というのがおかしいのだ。

人間誰しもがしてしまうこと=悪くないこと
普通に生きていたらしない犯罪=悪いこと
という分け方は変だったのだ。

誰しもがしてしまう、
嘘をつくとか小遣いちょろまかすとか、そういうのも
悪いことに含むべきなのだ。
僕は、人間誰しもがしてしまうようなことは、
生きていたら避けようのないことだから悪くないと思っていた。
例えば、
「浮気しちゃおっかな」「嘘ついちゃおっかな」というのは、
人間みんなの脳が勝手にそう考えてしまうように出来ているのだからどうしようもないから、悪くないと判断していた。
でも、
どうしようもないことも、悪いことに入るのだ。
そう考えると、
道で避ける方向が相手と同じでぶつかりそうになって謝罪するのも納得がいく。
防ぎようのない、仕方のないことも悪いことに入るのだから、
相手とぶつかりそうになるのも悪いことに入る。
だからみんな、謝っていたのだ。

どうしようもないことでも「悪い」ことに入るとすると、
皆が何故謝っているのかということが分かってくる。


人間だれしもしてしまうことだから悪くないのではなく、
人間誰しもがしてしまうことのなかに「悪いこと」というのが入っているのだ。


わかったような、わからないような。


でも、なんとなく、「悪い」とか「謝罪」とか、わかった気がする。


今なら言える。

給食の配膳のときに
コロッケを皿に叩きつけるように置いたり、
サラダを皿にばらまいたりしてしまって
本当に申し訳ありませんでした。

体育のサッカーの時
訳もわからずただコートを走っていて
ただみんなの邪魔をしていて
ごめんなさい。

審判なのに毎回
「これはどっちのチームに点が入るの?」と聞いてごめんなさい。


僕のせいで不快な思いをした皆さん、
本当に申し訳ありませんでした。

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