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庭の贈り物 真夏の地中海

 夏になると、我が家の御菜は、「和食」より「地中海食」が多くなる。庭の菜園の夏野菜とベリー類が収穫時期を迎えるからだ。  「地中海食」とは、オリーブ油、野菜、穀類、鶏肉や魚、ナッツ、フルーツ中心の地中海沿岸諸国の伝統食を指す。  地中海食がユネスコの世界無形文化遺産に登録されたのは「和食」の3年前だ。認知症や心疾患の予防効果が高いと、世界の注目を浴びている。  私が料理で使う食用油は、10年以上前にオメガ脂肪酸が体に良いのを知ってから、オリーブ油が中心だ。肉好きだが、歳を

    • 定食屋「欽」譚 ⑵

      悟 2014年10月6日 「今晩は。三人いいですか。少し早いのですけど」シャリンと鳴る扉を開けたのは、時々昼食を食べに来る背の高い若者、澤木悟だった。 「どうぞ。お好きなところに坐って。今夜は貸切りかもしれないから」  悟の後ろから、50歳代の男と少し年嵩だろうか二重瞼のきりっとした顔つきの女が入ってきた。「親父です」と悟が小さな声で美代子に伝えたが女は紹介しなかった。3人は奥の小上りに坐った。 「何にします? ご飯という方はいますか」 「そうね。君は何にするの。私は、最初

      • 定食屋「欽」譚 ⑴

         プロローグ  夕暮、スタンドランプを燈す前に、窓から空を見上げた。10月初めの十三夜の月が雲の合間から顔を見せていた。鈍色の雲の上の方は月で明るいが、雲の動きが早く明かりを吹き消したように急に暗くなることを繰り返していた。 「ひどい天気になりそう。今夜の客は少ないか」女主人は独りごとを言ってランプの紐を引いた。  札幌市中央区の北3条通り公園に面した西12丁目に、60代の女主人大橋美代子が一人で営んでいる『欽』という小さな定食屋がある。『欽』と書いて『よし』と読むが『きん

        • 庭の贈り物 水無月

           郭公の鳴き声が聞こえると霜の心配がなくなるので、豆や苗を植えてよいと言う。我が家でも庭の菜園に苗ものやエダマメなどを植えつけていく。  エダマメは土の中で水を含んで柔らかく膨らみ、根を下ろす。芽を出す前後は山鳩の食べごろなので油断できない。白い不織布の芽出しシートを敷く、防鳥糸を張るなど様々な防御策がある。私はかなり前から、ポリスチレンでできたコーヒーの使い捨てカップの底を切り取り、植えた豆に逆さまに被せている。本葉が出ると鳩は来なくなるのでカップを外す。九分九厘成功して

        庭の贈り物 真夏の地中海

          庭の贈り物 立夏

           5月、サクラが咲き終わるころ、我が家の庭のリンゴの木には紅梅色の小さな蕾がつく。蕾は日に日に膨らみ桃色になり、中旬には白と薄ピンクの花びらがほころび始める。  お天気が良いと、ダイニングの窓から、大小さまざまな蜂が蜜を吸いに来ているのが見える。一番目立つのは、マルハナバチだ。毛むくじゃらの黒い体に黄色い線が入った大きな蜂だ。小ぶりで黄色いのは西洋ミツバチだろう。  リンゴは品種の違う木を混ぜて育てないと、受粉が進まず実がならないので、フジと姫リンゴ二種類を植えてある。毎年

          庭の贈り物 立夏

          吐息

          「紀子でしょ。紀子だよね」  精神科病棟への渡り廊下から声がした。木戸紀子が振り向くと、防火扉に身体が半分隠れた小太りの女性が立っていた。髪を短く刈上げて、灰色のジャージの上下を着ている。  紀子は昼休みに仕事が掛かったため、他の職員より遅れて院内食堂へやってきた。食堂の右手は別棟になっている精神科病棟で、本院とは長い廊下で繋がっていた。 「いやぁ。紀子、変わんないね」  近づいてきて紀子をなめるように見回す。目尻に深い笑い皺を刻んだその女性の、口から漏れた吐息は干草の匂いが

          冬の月

           玄関の引き戸を開けると、寒気が8歳の光子を包んだ。空はどんよりと重く、薄雲のかいまに仄かに月明りが見えている。  両手で飯釜を持って、裸電球が一個ぶら下がった共同炊事場へ向かう。雪の白さと、炭鉱の六軒長屋の家々から漏れる灯が頼りだった。  長屋の東の角を過ぎ、用水路をまたぐ橋を越える時、足もとが滑り米粒を浸してある釜の水を少しこぼした。  左右に伸びる道路を挟んで炊事場があった。一間四方の屋根の下は吹き放しで裸電球がぶら下がっていた。用水路側に横長の流し台が据え付けてあり、

          冬の月

          月影

           弦月の明かりの中、轡をはめ毛布一枚敷いた裸馬に乗った少年が、国道36号線を西へ進んでいた。少年の頬には涙の乾いた痕があった。手綱を引くでもなく、栗毛駁の歩みに任せうつむいて揺られている。国道を通る車は少なく、薄の白い穂がサワサワと鳴った。  少年の名は坂上信男、十二歳。昨日父を亡くした。父親は長く肺を患い函館の療養所に入っていたが、大喀血をして死んだ。信男は物心ついてから、父とはほとんど一緒に暮らしたことがない。  父の遺体は、母と叔父に連れられて今日帰ってきた。午後、母

          後ろ安し

           2012年5月12日 土曜日         午後6時25分                            背後で自動ドアの閉まる音がした。早歩きで西へ向かう。ショッピングモールの日よけから出る前に、夕日が木下健一を捉え眩しくて顔をそむけた。そのままちらっと後ろを振り返り、誰も追ってきていないのを確かめる。  バリアフリーの長い通路を過ぎて右へ折れ、桑園発寒通りへ出たところで「フウーッ」と長い吐息をついた。今まで呼吸をしていなかったような解放感があった。縮んだ肺に促

          後ろ安し

          紅をさす

           宮丘公園のトンネルをくぐると右手に住宅街が広がる。そこから山側へ登って行き、住宅脇の細い道を何度か折れて、突き当りに自然の木立に囲まれた蕎麦屋『閑庵』がある。  主人の花井敬一は玄関前の石畳に水を撒いていた。11時、蕎麦は打ち終わり、昼を食べにくる何組かの常連のいつもの献立も準備してあった。妻のゆきは庭で摘んだ花を、各卓に活けているところだ。暖簾越しにエプロンと寸胴ぎみの脚が見えている。 「敬一さん、澤山さんがいらっしゃったわ」  中から声がした。灌木が並ぶ前庭から通りは見

          紅をさす

          枯れ葉

           二人は『アベニューエイト』というマンションの自転車置き場にいた。目的の大通り公園8丁目に着いた途端小雨が降り始め、ここへ駆け込んだのだ。自転車置き場の波のような屋根を覆うように、黄葉した大木のイチョウとスズカケの樹があった。 「兄ちゃん、手が出てきた」  妹の祐が指差す方を見ると、マンションの3階の窓から雨の中、手のひらを上に向けて腕が出ていた。 「ママはここの3階にいるのでしょ。ママの手かな」 「違うよ」  信は祐にそうは言ったものの、母の可奈子がここの3階に住んでいるの

          枯れ葉

          庭の贈り物 春

           札幌市の西方に位置する我が家の庭で、雪が解け始めて真っ先に顔を出すのは蕗の薹だ。そのフキは京ブキという種類だと分けてくれた知人が言っていた。山や土手に出るものよりトウも葉も細く小さめ。  笊に山ほど採れたトウを丁寧に洗って天ぷらにする。えぐみや苦みは少ないが、香りが高く春そのものの味わいだ。トウが咲き終わり、若葉が出始めるのは水仙が咲くころ。若葉もそのまま天ぷらにする。トウや茎とは違い、青臭く濃厚な味わい。  私のフキ味噌レシピは、香りが強い方が美味しいので、山ブキのトウ

          庭の贈り物 春

          目差し症候群

           肌寒い5月の夕暮れ、札幌の西のはずれにある山川駅に電車が入る音が響いた。貴子は二階待合室の奥のベンチに座り腕時計をみる。高井と滝口が、今の電車に乗っているはずと立ち上がり改札に目をやった  二人は、貴子の前の職場の同僚で、ともに9歳年上の姉貴分だ。高井は正社員、滝口はたか子と同じパート社員だった。貴子は、5年前に転職し今の職場で正社員として働き始めたが、仕事を離れても二人とは付き合いが続いている。  二人の特徴を一口で言えば、自分の審美眼を信じるばかりに、あけすけな物言いを

          目差し症候群

          画家の爪絵

          「カフェ・セレーヌ」は国道5号線に面して、小樽に近い住宅街のはずれにあった。レンガ色の壁と褐色の扉に、散りはじめたユキヤナギの白が浮き立って見えている。西側の二十四軒手稲通りに面した庭には、新芽を吹いたツルバラが、生垣風に誘引されていた。  裕貴はカフェの前の空いた駐車スペースに紺色のプリウスを入れた。降りる前に腕時計を見る。約束の午後2時には少し早いが、10年来の友人である知保子は、いつも約束の時間にぴたりと合わせてくるので丁度よい。車を降りて店の扉を開けた。ドアベルが柔ら

          画家の爪絵

          万華鏡

           「マミ、元気か。  突然こんな手紙をもらって、驚いていると思う。盆休みのクラス会では、なにも話せなかったから、手紙を書くことにした。  高校卒業以来、久しぶりに会ったあの日、本当はマミといろいろ話したかった。  看護学校は、勉強や実習が大変と聞いているけど、元気そうで、相変わらずはつらつとしていたね。明るい笑顔が眩しかった。  君はきっと優秀な看護師になるよ。手先が器用だし、いつも冷静なのに心温かだ。そして、看護師になるという夢を叶えるために、こつこつ努力をしてきた。保証

          万華鏡

           陽がカラマツ林の向こうへ落ちて、薄暗くなった。緩やかな下り坂を小走りで降りている。片桐夏子は、白い花柄のワンピース姿だった。美しい刺繍の花が散ったフレアは、夏子の動きでひらひらと軽やかに揺れる。夕暮れ時の林の中は、虫の音が賑やかだ。街路灯は明るさを増し、周縁を丸く照らす。 「涼太ったら。追っかけても来ない」  夏子は後ろを振り向いて独り言ち、屈んで両手を膝に置いて息を整えた。別荘を飛び出してからずっと走っていた。全身が汗ばんで湯気が立つようだ。 「どうして来ないのよ」  二