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第96回 逢ひ見ての のちの心にくらぶれば

右近が藤原敦忠を想って「忘らるる」の歌を詠んだのに対して、敦忠のこの歌は誰の事を思って詠んだのかは明確ではありません。右近に詠んだのではない事は確定的な様です。

敦忠には妻がたくさんいて、藤原玄上の娘、源等の娘、そして叔父仲平の娘明子。同じ叔父でも忠平は娘貴子を許してくれなかったけれど仲平さんは茫洋としているからか(出世は遅かったけれど)許してくれたみたいですね。
後、出自不明な女性もいてさすがに「色好み」の系譜ですね。今なら顰蹙(ひんしゅく)ものですけど、当時は一人の女性しか相手にしない人の事を「クソ真面目」「馬鹿真面目」と侮っていた様です。もちろん男性にしか適用せず、女性が同じ様にしたら(和泉式部など)また馬鹿にした様ですが。
まあ自分たちに都合の良い解釈ですね。

ところでこの「逢ひみてののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり」の相手は誰か?大きなお世話ですが、一応二人の候補者がいます。
一人は初恋の人、忠平の娘貴子。敦忠18歳、貴子20歳です。しかしこの歌は昔思っていたよりも、逢瀬を遂げた今の方が悩ましい、という意なので、どうでしょうか?まあ『源氏物語』でも藤壺と逢瀬を遂げた光源氏が、以前よりも恋しいと思っている場面がありますが。逢瀬を遂げてないプラトニックの時の方が楽だった?

もう一人は、醍醐天皇の第10皇女・雅子内親王です。生母は更衣・源周子ですが、同母弟に源高明(光源氏の最有力モデル)がいます。
敦忠24歳、雅子内親王20歳の時に恋の噂が立ちます。しかし、右近を捨てた件で宮中で力を持つ叔母・穏子の協力は得られず、逆に雅子内親王は伊勢の斎宮に卜定(一応、神の決定)されてしまいます。
きちんと相手が雅子内親王(西四条の斎宮と呼ばれた)と明記された歌が2首、遺っています。
「伊勢の海のちひろの浜にひろふとも 今は何てふかひかあるべき(後撰集)」-伊勢の海の広大な浜に行って拾うとしても今はどんな貝があるのでしょう。もはや伊勢の斎宮となられた貴女をいくらお慕いしても何の甲斐もないでしょう。
何か意味深な歌ですが、榊の枝に挿して送ったと言われます。榊は神木で、常緑樹だったので、変わらない心を暗示したと言われます。

また花につけて歌を贈っています。
「にほひうすく咲ける花をも 君がため折りとし折れば色まさりけり(玉葉集)」-彩り淡く咲いた花ですが、貴女のために心を込めて折りましたので、こんなに色が濃くなったのです。
雅子内親王の返しは、
「をらざりし時よりにほふ花なれば わがためふかき色とやはみる」ー私のために深い色になったのですね。です。

敦忠31歳、雅子内親王27歳の時に、内親王は母の死により伊勢から帰ってきます。正式に結婚しようと思っていた2年後、敦忠の従弟で忠平の次男師輔(当時31歳)が叔母穏子の覚えもめでたく、ちょうど妻(雅子内親王の姉・勤子内親王)を亡くした所だったので、雅子内親王は師輔にさらわれてしまいます。内親王は為光(花山天皇の寵妃・怟子や斉信の父)などを産みました。
結局、敦忠は38歳で亡くなるのですが、亡くなる少し前に北の方である玄上の娘に「私の死後、そなたは家令(家来)の藤原文範の妻となるだろう」と言います。そして事実その通りになりました。文範とは紫式部の母の祖父で、北山に山荘を持っていて「若紫」の出あいの場のモデルとも言われています。
若死にした敦忠を、「やはり時平の三男だから、道真さまの怨霊の祟り」だと人々は言いましたが、実は時平が伯父国経から若い妻を奪った時、すでにお腹に敦忠がいたという説もあります。ただ、その国経も、中心ではないですが、道真苛めに加担(その時はほぼ全員)していたのですが。(続く)

※ youtubeでも『高堀枝裕二の伊勢物語』をやってます。ぜひご視聴下さい!

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