見出し画像

第77回 遣唐使停止

4月に突然の敦仁親王(後の醍醐天皇)立太子で大騒ぎになった寛平5(893)年7月19日、中納言にまで昇進していた在原行平(業平の異母兄)が76歳で亡くなります。
業平死後、和歌の復活(嵯峨天皇が唐かぶれで漢詩を隆盛させ、万葉集の頃に比べて和歌の地位は低下していました)に努力していましたが、それは業平の相婿・藤原敏行に委ねられます。

敏行は、藤原興風(おきかぜ)・大江千里・文屋朝康・壬生忠岑・紀友則・紀貫之など『百人一首』のレジェンド達と(もう一人業平の孫・元方も)盛んに歌会を催しています。宇多天皇の母后・班子女王(寛平御時后宮歌合)や宇多天皇の同母兄・是貞親王が歌合が大好きだったのでした。

さて、宇多天皇の覚えめでたい(というか頼るのが道真だけだった!)道真(50歳)に対する嫉妬は激しく、ついに寛平6年8月21日、道真を皆で遣唐大使に推挙してしまいます。
唐に行ってしまえば日本からいなくなり、行く途中で嵐にあって亡くなる事も考えられます。また拒否すれば、かつての小野篁(たかむら)の様に嵯峨上皇の逆鱗を買って隠岐へ流された例もありました。(後で許されましたが。拒否した理由は船を悪いのと摩り替えられたからとか)

してやったりと周囲は勝ち誇りましたが、さすがの道真。考えて、9月14日意見書を奏上します。即ち唐はもう衰え(13年後、907年に滅亡します)遣唐使の費用も莫大でもう唐から学ぶことはない・・・
結果、9月30日、遣唐使の派遣は停止されたのでした。自分が唐に行きたくないなどとは一言も言わず、道真は勝利したのです。

この事により、更に周囲は道真を追い落とす策を練る事になります。
また遣唐使がこれより計画される事はなく、唐の影響を濃く受けていた奈良・平安初期の時代とは違って、国風文化が熟成されていくのでした。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?