ホール・ヴェーヌ著『フーコー その人その思想』を読んで

 この本の著者であるポール・ヴェーヌは歴史学者であり、哲学者であるミシェル・フーコーのコレージュ・ド・フランス時代の同僚だったそうです。学術的というよりも、一人の友人としてフーコーを描いているような一冊です。序論の『サムライと金魚』に例えた文章が印象に残ります。ちなみに、書影の表紙は浴衣を着たほっそりとしたフーコーの写真となっています。

懐疑主義者、それは、二重の存在である。思考しているあいだに、彼は水槽の外に身を置き、その中を泳ぎ回る魚を見る。(中略)懐疑主義者は、水槽の外に身を置いてそれを疑う観察者であると同時に、金魚の一匹でもあるということ。これらは決して悲劇的な分裂ではない。この書物のなかに主人公として登場する観察者は、ミシェル・フーコーという名を持つ。

ポール・ヴェーヌ「フーコーその人その思想」筑摩書房 pp. 5−6

こんなふうに、始まります。


 文章は、ポール・ヴェーヌの語りのなかに、フーコー自身の言葉が散りばめられながら進んでいきます。例えば、第Ⅰ章では以下の言葉が引用されていました。

「一つのテクストの意味は、時代と解釈者によって変化する」p.22

「語る主体の無意識ではなく、語られたことの無意識である。」p.25

「知の無意識の領域であるような自律的領域を取り出す。」p.25

「科学、認識、人間的知の歴史のなかに、その無意識であるような何かを見いだす。」p.25

「あらゆる概念は生成したものである。」p.31

これだけでも、出来事の特異性から生成される何かを観察しようとするフーコーの姿が伺えます。

言説とは、歴史の一つひとつの出来事がそこで特異化されるこの不可視の部分、この思考されざる思考のことである。

ポール・ヴェーヌ「フーコーその人その思想」筑摩書房 p. 26

 つまり言説とは、未だ語られていない出来事の特異性の原理と考えられるようです。ようやくマイケル・ホワイトに近づいてきた。ちなみに、私がフーコーに関心があるのは、マイケル・ホワイトというオーストラリアのナラティヴ・セラピーのセラピストの実践を理解したいからだったりします。

社会的なものを現実的なものの唯一の審級として神格化することから解放されなければなりません。そして、人間の生および人間的諸関係において本質的なもの、つまり思考を、無価値なものとみなすことをやめなければなりません。
したがって、一つの言説に異議申し立てること、「諸言表から価値を剥奪すること」は、それらの言説や言表を支えている装置を転覆させる手助けとなりうるのだ。

ポール・ヴェーヌ「フーコーその人その思想」筑摩書房 p. 164

 なるほど、マイケル・ホワイトはこの辺りを理論的背景としたようです。ドミナントな言説に対して異議申し立てながら、クライエント(相談者)のローカルでユニーク(オルタナティブ)な言説を厚くしていく手伝いをするマイケル・ホワイトの実践の背景を感じます。そして、影響相対化質問を開発したと推測できます。おそらく、こうしたフーコーの考古学的な思想を背景に、デリダの脱構築、ガタマーの解釈学を重ねてマイケル・ホワイトはナラティヴ・セラピーを開発していったと考えられます。

 話が大きく脱線してしまいましたが、こちらの本はフーコーの入門書とはまた違った良さがあります。読んだ後に、今までのフーコーの理解に厚みや奥行きがでるような感覚です。難しい概念なども出てこないので伝記のように読めるのも良いです。個人的には、巻末の人物牽引が役に立ちました。

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