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レンズと画面の先の風景を楽しむ



 旅先や、まちを歩く時カメラを持って出ていくことは多い。カメラを持って歩き写真を撮ることが楽しいのだ。今でもあるけれど、初めてカメラを買ってまちを歩いた時は、子どもの頃通っていた散髪屋さんで飴をもらって、口の中でコロコロと転がして歩いている時のような嬉しさを感じていた。撮った写真を作品として形にするわけでもなければ、撮影した写真を編集するレタッチを詳細にするわけではないけれど、写真を撮るということについて書いてみようと思う。

 カメラの眼は、ドアのヒンジといった詳細部からマテリアルの性質、全体像まで見る尺度を意識的に変えることができる。記念撮影のように記録として撮ると同時に、自分の目で対象に向き合う装置でもある。ただ目の前の対象を見るということに加えて、写真を撮るということを意識すると、時間の尺度が二倍になったように楽しみ方が増えた感覚がある。その時、嬉々として対象にカメラを向ける。自然と口が綻ぶのがわかる。どのように撮影したらいいか立ち止まって考えるようになる。自分の目で目の前の対象について考えると同時に、目の前の対象をどのように撮れば自分にとって心地いいか考えるようになった。
 最初、写真を撮り始めたのは、学生の頃建築模型を見栄えよく写すためで、小さくて、青く、光を浴びると光沢感を円形に出すコンパクトデジタルカメラを携えて写真を撮っていた。そして、目の前の見た風景を忘れない様に記録として残すために写真を撮っていた。外に模型を持ち出して、撮影を行ったり、時には、撮影室内で照明を当て撮影を行った。初めてカメラを持って外に出たことは最初に書いた通りで、シャッターボタンを押すたびに画面に切り取られた風景が映り、普段からよく歩いていた数十分程度の道でも、眼の前の風景を撮るために立ち止まったりしたことで、1時間ほどかけて帰ったことを覚えている。
 その時から、カメラを構えて様々な角度で撮影するという行為は楽しく、模型であれば、座ったり覗いたり、俯瞰してみたり、多くの場合百枚程度撮影していて、そこから整理して選び出す作業が大変だったことを覚えている。当時スマートフォンを持ち始めだったこと、解像度の精度が未発達だったという消極的な理由から、その時はスマートフォンカメラでの撮影はしたことがなく、今の様にカメラ機能が発達したスマートフォンを持っていたら、現在のようにミラーレス一眼レフカメラ、コンパクトデジタルカメラを使用していなかったのではないかとも思っている。それでも、カメラを構えて写真を撮るということは自分にとってある意味を持っていることに最近気がつき始めている。
 カメラのファインダーを使用して写真を撮る時と、スマートフォンカメラを構えて写真を撮る時と違うところは、支えの安定性や質量の違いだけではなく、その没入感にあると思っている。ファインダー越しに世界を見る時、身体の眼では感知できない情報を得ると同時に、眼の周りが覆われることによって、身体がその間だけなくなったように感じる。身体の動作によって、身体を知覚しているけれど、全く違う生物になったような感覚を持っている。
また、カメラを構えるという行為は対象への向き合い方を変える手段だと思っている。例えば、湯気が小さな穴からシューッと出ている鍋を掴む時、鍋つかみを使うように、人物や建物といった対象を見つめる時、カメラは、鍋つかみの様な存在になる。瞼の裏にある眼のレンズを通して、直接見つめることは、難しいけれど、カメラおよびカメラレンズという緩衝材があることで見つめることができているのだと感じている。特に、ぼくは人を直視することが苦手だけれど、カメラを構えるとすんなりと相手を直視して一定時間見つめることができる。同じ眼に映る風景でありながら、カメラ越しの眼は自分の眼ではないかの様な第三者の眼として機能する。その時、ぼくは、水を得た魚が飛び跳ね泳ぎ回る様に、静かにそして機敏にシャッターボタンを押していて、口角が自然と上がっていることを感じることができてとても心地が良いと思っている。見つめるという行為が撮るという行為に変換され、自分の中で見つめるというハードルが下がっているのかもしれない。なので、構えるという動作はぼくにとって、バリアを張る(結界を張る)ことに近い。あるいは、対象に向き合うためのルーティーンともいえる。右手の人差し指でシャッターボタンを押しやすいように持ち、左手でカメラを支えて持ち、人差し指と親指でピントと絞り値をいつでも変えられるようにレンズをくの字に持つ。動作によって、その行為が身体に馴染むのをいつも感じている。
 写真を撮ることで、自分の感情に揺らぎを与えてくれた風景を見返すことが好きで、単純に忘れないように記録としての写真を大事にする一方で、その風景を見返す時発見があることが楽しい。ぼくは、人が少ない所から多いところまで、場所や建物を見にいくことが好きで、それらを目的として旅をすることが多い。記憶が鮮明なところだと二年前の暖かい時期に訪れた、島根県立芸術文化センターがある。この建物は、島根県益田市を産地にした石州瓦という瓦を屋根だけでなく、外壁に瓦を活用しているのが特徴の一つだ。建物の良さは瓦を壁材に使用した斬新さだけでなく、直射日光を浴びた時、日光を浴びたところから白や周辺の緑、石州瓦の赤褐色のグラデーションの美しさにある。その、グラデーションは見る場所を変え、人の視線に合わせて色も変化する。その様は、簡単には写真で表現できず、色温度やスピード、絞り値など試行錯誤しながら姿勢を変えながらパシャパシャと撮りまくっていたことを覚えている。決して、目の前にその質感を持って立ち現れるわけではないけれど、その写真を見返した時再び感動したことも覚えている。
 これは必ずしも旅先で起こることではなく、例えば近所や市内の樹木を撮る時、色んな角度や視覚から撮られた写真には、その表皮の大きさが違うことや、小さな苔に改めて気がつくこともある。京都の鴨川を歩いてる時、何気なく見ていた川の側で、ヌートリアの親子が毛繕いをしている風景を撮った写真もある。日常の風景を改めて見直す眼でもあるといえる。
 そして、写真を見返すことは、何を感じて撮ったのか記憶呼び起こす運動でもある。記録をすることと、感情の機微を喚び起こす運動が両立しているのだ。記録として、撮るのか、その時の感情の機微に従って撮るのか。ただ瞬間を切り取っているだけでも、意識的に撮ったものは先ほどのように新たな発見や感動がある。二度おいしい瞬間を味わうことができるのはぼくにとって写真を撮ること、なのだ。
 写真を撮る楽しみはこれからもたくさんある。山登りをする人が場所によって靴道具を変えるように、カメラの本体と望遠レンズや広角レンズ、単焦点レンズといった様々な種類のレンズを組み合わせることで楽しみ方はもっと拡がるだろう。近くのものをレンズの種類を変えて撮ってみるのも面白いかもしれない。当面の間は、自分の距離感で対象に接することが可能な単焦点レンズを使って、自分が近づくことができる対象の様々な側面を見る楽しさに没頭していたいと思う。 

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