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茶、時々、湯。

 去年の12月頃、近所の銭湯に訪れた。言ってしまえば何の変哲もない、脱衣所や風呂場の空間が広く開放的な場所だ。着替えていると、たまに声が飛び交う。そこでは、玄関の入口と風呂場の入口を出入りするとき、番頭さんや先客の方に挨拶をしているのだ。まちの銭湯なので、顔馴染みの人に挨拶をすることはよくあることだろうと思っていたけれど、風呂に浸かっている時も、脱衣所で腰を据えている時も、積極的に話しかけることもなければ、関わることもないまま、各々の時間を過ごしていた。そのときは、よくわからないまま、出入りしていく客をただ見送っていた。

 年が明け、2020年を迎え数ヶ月が過ぎ、銭湯へ行くことがなくなり、夏を迎えた。そして、突拍子もないことだけれど、8月頃から茶道を習い始めた。

 きっかけは、今年から利用し始めた、コワーキングスペースで、茶道の稽古を行なっている、後の先生となる人物と出会ったことだ。その日、先生にたまたま話かけたところ、自身の自宅兼茶室の構想を練っている最中だった。小柄だが、穏やかにハキハキとした口調で、楽しそうに図面を指差しながら、ここが玄関で、ここからこの辺りが茶室で、こんな感じの通路になっていると、構想を教えてくれたことを覚えている。考えていることを楽しそうに話す姿は、自分の心地よいことを見つけている人なのだなという印象で、茶道の稽古を行っているとは思っていなかった。その後、「今度、あそこの公園で、サッカーするけど来る?」というような誘いを受け、ぼくは、「面白そうだから行ってみる」というような軽いノリで誘いを引き受けたのだ。
 茶道に関して、伝統芸能の1つに分類されているという認識ぐらいで、どんなことを行っているのか、全く知らなかった。想像力の範囲では、全面に畳の敷かれた、四畳半という静謐な空間で、表情は優しげでありながら、心は鬼の形相をした先生や、弟子たちが向き合う姿だった。また、人生の中で、正座をすることを避けてきたため、作法や形式を厳守せねば茶道ではない、と厳格で強面の面々から罵倒されるのではないか、とハードル高そうだなという気持ちだった。そして、そんな想像は、初めて稽古という形式でお茶を飲みに訪れた時、払拭されることになる。
 稽古は、先生を含めて2人で、多くても4人で行われた。初回から数回ほど行われた稽古は、想像していたような、全面を畳の敷かれた空間ではなく、あるときは、団地の一室で、またあるときは、町家をギャラリーに改修された場所だった。どちらも、フローリングの上に、6畳ほどの薄い畳をカーペットのように敷いていて、異質な存在を表す畳と、季節の移り変わりを表す茶花や掛け軸といった茶室の要素が部屋の中に散りばめられていた。町家のギャラリーで稽古を行った際は、テレビスタジオに小さなセットが設けられたような空間だった。何もわからないまま、初めての稽古では、お茶を飲むことから始まった。正座を組むことに慣れていないと話すと、足を崩しても大丈夫ですよと諭され、茶にまつわる道具や動作の話から、壁に掛けられた季節の茶花や、掛け軸について、仕事のこと、生活のことなど雑談を通して行われたため、リラックスして稽古を楽しむことができた。正される作法はあるけれど、その考えの基には、「茶おいしく飲みと場を楽しむ」ということを大切にしているという。「純粋にお茶を楽しまなければ修行のようにしんどいだけでしょう?」という先生の言葉を聞いた時、フローリングの上に敷かれた薄い畳と畳の上の茶がくっきりと目の前に立ち現れた。
 何度か足を運び、差し出された茶を受け取り、お辞儀をする、飲み口を拭いて回して返すといった、動作を通して、茶に対する意識が集中されるようになった。茶を飲む前に食べる菓子の甘みと茶の味が口の中で掛け合わされる感覚と、反復的な動作とを通して、「茶をおいしく飲み場を楽しむ」という感覚がはっきりとした形で輪郭を帯始めていた。
 茶を飲むということを経験した後、先生の住宅兼茶室が竣工し、茶を客席に提供するお点前の稽古が始まった。建物の玄関入口から別室へ通り服装を整え、靴下など着替えを行ってから、稽古を行う茶室へ入る。これは、茶会に参加するための準備と同時に、一旦気分を落ち着かせる行為でもある。お茶を出席者に提供する前に、茶碗などの茶道具を準備するための水屋では、使用する茶道具を水洗いするなど、準備を行う過程で、再び気分を落ち着かせ次の流れに集中するための場所でもある。また、お点前の一連の流れとして、茶碗を温めてから、粉末状の茶を茶碗に入れ、お湯を掛けて、掻き混ぜるという動作がある。この時、茶碗の水を吹き切れていなかったり、茶碗をよく温めておかなかったりすると、粉末の固まりができてしまい、飲んだ時に苦味を感じてしまう。また、お茶を飲む時や、片付けを始める時、一言の挨拶があり、それは同席した面々との互いの存在を配慮をした行為の1つでもある。
 茶道における、茶室や、一連の動作は、「茶をおいしく飲み場を楽しむ」ことに全力を注いだ結果、洗練されたものであるという。それらしい、動作をしていたとしても、頭の中で、動作にとらわれると、「茶をおいしく飲み場を楽しむ」ということからは程遠くなってしまう。それでも、あえて、茶道として、洗練された規定の中のふるまいを行い、直されるという過程を経ることは、茶を出す、飲むという行為にまつわる、人への影響や、単純に茶をおいしく飲むためのコツといった奥行きを知ることでもある。厳格な作法を守ることを目的化していない、先生の言動は、茶と共に胸の中にスッと溶け込んでいった。
 そして、数日経つと、形式から逸脱した服装や作法を厳格に取締るような、強面の面々は、もう頭をよぎることはなくなっていた。

 ビシビシと痛いほどに肌へ冷気がたたみかけてくる季節になった頃、ぼくは、再び近所の銭湯に訪れた。靴を下駄箱に片付け、料金を支払う。脱衣所のロッカーの中に、身に着けているものを納め、タオルなど必要なものを準備した後、素っ裸になる。カラカラと軽やかな音を鳴らして移動する引き戸を開けて、先客に、軽く挨拶をする。身体を洗った後、暑い風呂に入る前に、足元から掛け湯を行い、タオルを風呂の縁において湯に浸かる。ただぼーっとして湯の暖かさを身体全体で感じていた。上部の開口部に向かって、昇っていく湯気を見ていると、茶道の稽古をしていた場面と一緒に、頭の中に浮かぶ。挨拶は、干渉するためではなく、他人として存在を認知するための行為で、掛け湯は急激な温度変化による身体への負担の低減と、清潔な湯を保つための行為なのだ。稽古がそうであったように、脱衣所で準備をして、風呂の湯に浸かり、銭湯をでるまでの間の一連のふるまいは、自分が入浴を心地よく感じることと同時に、他人も入浴を楽しむことにつながっているのだろう、と。そう思うと、小さなこどもを連れ勢いよく挨拶をする家族も、長時間身体をゴシゴシしている、おじさんも、掛け湯を繰り返し行い、湯に浸って数秒後、肩がじんわり下がっていく後ろ姿も、愛おしく思えた。
 帰る途中に、寒空の下吹く風が、火照った身体を冷ます。けれど、身体の芯はあたたかいままだった。

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