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『不滅のあなたへ』ー痛みの先にあるもの

『不滅のあなたへ』(原作:大今良時,2016〜)は、主人公のフシが世界のあらゆる事物を記録するために生成されたところから物語は始まる。フシは人や動物、植物を器として変身することができる。例えば、フシ自身の思考を保ったまま、死んでしまった登場人物の外観と思考方法を獲得することができる。ヤドカリが、新しい貝に入るように身体を自在に変える。フシは物語を通じて、様々な人物に触れ自身のアイデンティティに不安を覚えるほどの人間性を獲得する。物語の中盤以降、身体を損傷しながらも再生し、その意識を保った状態として生きる。ひとりの人間が生まれて成長する過程と同じように、人のような生物として描かれるようになる。

フシにとって、身体に器を獲得するための条件がある。それは、痛み=人が死に際に感じる痛みを感じることだ。不死の再生能力と、獲得した対象を生成する能力によって、死に至り魂の抜けた人物の外観とその能力を得る。能力とは、例えば木を登る、弓を射るといった身体的能力や五感の能力だ。フシ自身生きていくことで様々な人物と出会う。この作品では、フシという人物を通して世界の見え方や初めて見るモノや人に触れていくことになる。第一部は、フシが生成され、自分たちを襲ってくる明確な意思を持った敵の殲滅過程を描き、第二部では、明確な敵意のない現代の生活を描いている。

第一部の中盤以降、フシは人間の言語と人間性を獲得する。人間以外の海洋生物や植物にも変身することができるが、フシという生物と接してくれる人とともに生活を営む。自分とは異なる人、特に大切な人は簡単に死んでしまうということを認識したとき、大切な人を救うために自分を精神的に殺すようになる。つまり、不死身という自分の身体を張って人を守るという思考を持つようになる。現代編に至るまで、フシという生物を生かしていたのは、登場する仲間の存在だけでなく、戦いの最中に身を置くことができる環境にもあると言える。自分のことを知っている存在が失われることが耐えれなくなっている状態を描いている。

フシ自身は、他の人間や生物と異なり、死ぬことができない。自分は、彼彼女らの痛みを感じ彼ら彼女らを記録することができるけれど、自分を記憶してくれる生物が存在しない。大切な人を失うという欠如感を経験し、一時的に人と向き合うことをキャンセルするようになる。しかし第一部の終盤以降、生成した身体に死んだはずの魂が入り記憶されていた姿で蘇生できることを知ったのち、平和な世界で彼、彼女らを蘇生させることを目標とするようになる。

第二部以降、フシは、一度生命としての機能を失った人間を、生命としての機能を失う前の姿形(フシの記憶の中での彼らの姿形)で生成し、現世に出現させる。彼、彼女らは、生成された身体を手に入れて生き返り、自分たちに対して明確な殺意を持った事物のいない世界で再びその生を歩み始める。あるものは学校生活を、あるものは就労生活を送る。そこでは、勇者になることもなければ、ヒーローになるわけでもない。ただ、平穏な生活を送ることを目的としている。フシは、そんな彼ら彼女らの平穏な生活を守るガーディアンのような存在として立ち回り始める。自分の身の回りの人たちを何とか助けようとする。第一部で歩んできた生活と同じように、人以外の生物やモノへの関心はなくなっていることがわかる。現代編において、いつか失ってしまう人を助けることが彼の生の原動力となっていたのだ。

戦いのない現代において、平和な日常の中で暮らすことを謳歌し、登場人物は学校に通い、会社に通い社会的な居場所を獲得していく。また、戦いの代わりに賭博に耽弱する者や、痛みの臨界点を超え、自身の手で生命の機能を断つことを選ぶ人物が現れる。食材の不足や、戦争といった外的要因によって死ぬ確率が少なくなった現代において、死ぬことができない=痛みから逃れることができないという問題がたちあがってくる。
フシは、現代が平和で彼彼女らが苦しまず生活できる世界であることを証明するために、彼ら彼女らを助ける=生きながらさせるために身に迫る危機や、発生する痛みを取り除こうとする。戦いのない世界において、積極的に学校生活や家庭生活を送る。その生活の中で生まれる死の誘惑を取り除こうとするフシという構図は、現代においても変わっていないことがわかる。戦いとはことなる痛みとどのように接していくかが問われ始める。
フシはなぜ、平和になった世界で人々が痛みを感じているのかわからない。例えば、作中で親から成績優秀であることを求められる少女は、成績優秀ないい子であることを演じようとする過程で、自分への嫌悪感を抱き痛みを抱えている。ここでの痛みは、戦いのなかで受ける痛みではなく、私が生きている現代生活における痛みと同様のものだ。作者自身が現代の価値観の中で創造している作品であるため、現代の生活で人々が感じている痛みと共通する部分が作品の中に色濃く見える。

ところで、第一部の序盤で登場するある女性は、敵の攻撃を受け意図せず死んでしまった大切な人を埋葬した後、自身の手で命を断つことを選択しようとする。外的要因による死亡率の高い極限状態とはいえ、大切な人が亡くなってしまったという痛みにより生きることに耐えられなくなった時、死を選ぼうとする。すでに序盤の物語で描かれていたように、極限状態でなかったとしても人は自ら死を選択することを証明してしまっている。そうすると、作品の序盤から現代編に至るまで、どのように生きるか痛みを抱えていくかといことが大きなテーマとして現れていることがわかる。

第一部から第二部の現代編以降、現代編の生活を描くことがむしろこの作品の特徴として現れている。激闘を経験し、ほっこりする生活という第二の人生を歩み始める彼、彼女らの物語を描くことで、現代を生きる自分たちの生活感に焦点を当てることになる。この、時間軸の広さが現代編で描かれる内容に深みを与えている。

この作品は、現在も連載しており結末を迎えていない。現代に転生した彼、彼女らはどのような生を送り、痛みに向き合う過程でどのように変わっていくのか。あるいは、それ以外の選択肢を選ぶことになるのだろうか。物語は、生を与えられた人がどのような結末を描くのかわからないまま進んでいる。作者自身も第一部において、明確な敵が存在する展開で、敵の消滅=作品の終結としなかったことから、今この生活を私たちが続けているように、結末を探しながら描いているのだと感じている。


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