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「剥き出しの生」に抗して~贅沢は敵か!? 介護施設の課題Ⅳ-4


1.超法規的な目的合理性の貫徹

 介護施設で、なぜ人権が安易に抑圧されることがあるのでしょうか。介護施設で働く人たちに問題があるからではないでしょう。そこには、何らかの構造的な要因があるはずです。 

 國分功一郎(哲学者)さんは官僚制(bureaucracy)を、その語源から官僚支配(bureau: 事務所; cracy: 支配)と訳し直したうえで次のように指摘しています。 

「官僚支配の特徴は、永続的に普遍妥当性を持つものとして想定されている法の規範性よりも、与えられた目的を達成するための目的合理性が優先されるところにあります。」 

 さらに、ハンナ・アーレント[1](Hannah Arendt 政治哲学者)の次の言葉を紹介しています。 

「行政手段による支配の技術上の特徴は、合法性、つまり普遍的妥当性をもつ法律の永続性が放棄され、その代わりにその時かぎりの適用を目的として次々に乱発される命令が登場するという点にある。」

引用:國分功一郎2023「目的への抵抗」新潮新書p172

 官僚支配は法律より、その場その場で与えられた目的を達成するための目的合理性を優先するというところから生起するのです。
 特にコロナ禍のような緊急事態、例外状態下にある行政権力は立法権力、司法権力をしのぎ、暴走しやすいようです。

  介護施設でもコロナ禍において官僚支配と同様に、法の支配ではなく、目的のために効率的な手段を講ずるという、目的合理性に基づく施設運営が許されました。
 これを契機にコロナ禍後(2類から5類への変更後)においても超法規的に移動の自由、面会の自由を引続き制限するようになってしまった施設もあったのです。
 要するに、入居者の「命を守る」という名目、目的のために日本国憲法で保障された基本的人権さえも無視し、制限できると勘違いし、コロナ禍後でも目的合理性に基づき、人権の制限という手段が、しばらく、正当化され続けたのです。もちろん、一部の施設ですが。

  このような介護施設は、まさしく官僚支配と同様に超法規的な目的合理性に貫かれた組織といえるでしょう。

  介護施設は至高の目的である「お年寄りの命を守るため」、組織として目的合理性を貫徹し、超法規的に人権侵害を行ってしまっていたのです。
 
 「命」いう価値剥き出しの生)の前ではそれ以外の価値は無きに等しいとされ、その結果、介護施設内は基本的人権を保障している日本国憲法や諸法律が及ばない無法地帯と化していたのかもしれません。
 そして、当然この無法地帯は人権を平気で制限するため、abuse/虐待の温床となってしまいます。

  今、介護施設の経営者、管理者、職員はコロナ禍の経験を整理し、どのような法的根拠、科学的情報、思想に基づき行動していたのか、何を禁止、制限、規制してきたのか、禁止制限されたものの価値を振り返り、そこに何か反省すべきこと、学べることがないかを見直すことが求められていると思います。

2.贅沢したーい!

 國分功一郎(哲学者)さんは、単に人間が生存していることと、人間が人間らしく生きることを区別するためには「贅沢」という概念が必要だと指摘しています。
 さらに、この「贅沢」という概念をつまびらかにするものとして、同氏はフランスの哲学者、ジャン・ボードリヤール[1]((Jean Baudrillard:フランスの哲学者)の「消費」と「浪費」の概念を紹介しています。 

『実際、どんな社会でも豊かさを求めたし、贅沢が許された時にはそれを享受してきた、とボードリヤールは言っています。あらゆる時代において、人は買い、所有し、楽しみ、使った。「未開人」の祭り、封建領主の浪費、19世紀ブルジョワの贅沢・・・他にもさまざまな例が挙げられるでしょう。・・・贅沢を享受することを「浪費」と呼ぶならば、人間はまさしく浪費を通じて、豊かさを感じ、充実感を得てきたのです。』

引用、参照:國分功一郎2023「目的への抵抗」新潮新書p134~137

  豪勢な食事とか仕立てのよい衣服等のいわゆる「贅沢」とは人間の生存にとっては必要でないもの、何らかの限界を超えた支出であり「浪費」ですが、限界を超えて物を受け取るわけですから「浪費」は満足をもたらします。そして、満足したら「浪費」は止まります。

 では、「浪費」とは違う「消費」とは何か。國分功一郎さんはボードリヤールの消費概念を次のように紹介しています。 

 『20世紀になって人間は突然全く新しいことを始めた、とボードリヤールは言います。それが「消費」です。』

 『浪費には終わりがある。ところが、消費には終わりがありません。なぜか。浪費の対象が物であるのに対し、消費の対象は物ではないからです。消費は観念や記号を対象とするものだとボードリヤールは指摘します。』

 『消費において人は物を受け取らない。食事を味わって食べて満足することよりも、その食事を提供する店に行ったことがあるという観念や記号や情報が重要なのです。そして観念や記号や情報はいくら受け取っても満足を、つまり充満をもたらさない。お腹がいっぱいになることはない。だから止まらない。』

引用、参照:國分功一郎2023「目的への抵抗」新潮新書p134~137

 具体的に言えば、「消費」とは、例えばブランドを買いあさったり、ミシュランガイドに載っている飲食店を食べ歩いたりするようなことです。買っているのは「ブランドを持っている」、「有名店で食事した」という観念・記号なのです。

 國分功一郎さんは人間らしい生に必要なのは「消費」ではなく、目的なるものからの逸脱であり、「浪費」としての「贅沢」だとしています。

 楽しんだり浪費したり贅沢を享受したりすることは、生存の必要を超え出る、あるいは目的からはみ出る経験であり、我々は豊かさを感じて人間らしく生きるためにそうした経験を必要としているのです。必要と目的に還元できない生こそが、人間らしい生の核心にある。
 「贅沢」とは何らかの限界を超えた支出であり、人間の生存にとっては必要ではないものですが、「贅沢」は豊かさや充実感を感じるためには不可欠なものなのです。
 人が贅沢をするのは、それがよろこびをもたらすからです。美味しい食事を食べるのは、それが美味しいからです。贅沢は何らかの目的のためになされるものではありません。

引用:國分功一郎2023「目的への抵抗」新潮新書p152

 すべての活動を「必要-目的-手段」思想のなかに閉じ込めたり、目的に還元したりせず、次のような人生を目指した方が良いのではないでしょうか。 

「目的のために何かを犠牲にすることのない人生、行為を何らかの目的のための手段をみなすようなことの決してない人生」

引用:國分功一郎2023「目的への抵抗」新潮新書p172

 「贅沢」は何かの未来の目的に向けたインストゥルメンタル(手段的)な「現在」ではなく、コンサマトリー(即自充足)な「現在」の生き方につながるでしょう。「贅沢」は「心躍る」経験なのです。

 「贅沢」とは何かについて深く考え、生活を潤おす「贅沢」を取戻すことができなければ介護施設における「剥き出しの生」は今後も続いていくことでしょう。
 純粋に味わうために食事をし、楽しむためにレクレーションをする。心休めるため、心躍らせるために音楽を聴く。
 人生の黄昏において「心躍る」経験ができる、そんな介護施設に私は入りたいです。

 いずれにしましても、コロナ禍を経た今、「剥き出しの生」「不要不急」「必要-目的-手段」「コンサマトリー/インストゥルメンタル」「未来の犠牲になる現在」「贅沢/浪費/消費」「合法性と目的合理性」「官僚支配/超法規的支配/人権制限/abuse/虐待」等々の概念を参考にして沈思黙考すべき時期にきていると思います。


[1] ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年~1975年)は、ドイツ出身のアメリカ合衆国の政治哲学者、思想家。ドイツ系ユダヤ人であり、ナチズムが台頭したドイツからアメリカ合衆国に亡命し、教鞭をとった。

[2] ジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard、1929年~2007年)は、フランスの哲学者、思想家。『消費社会の神話と構造』(1970)は現代思想に大きな影響を与えた。ポストモダンの代表的な思想家。

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